結びにかえて

 廣松渉著『資本論の哲学』について批判すべき点はすべて批判を完了した。一書に対して十万字に及ぶ批判は膨大にすぎるかもしれない。しかしマルクス経済学の根幹に触れた議論であり、しかも世界観的な了解の仕方に樟さす議論でもある以上、単に氏の叙述の矛盾点や欠陥、誤認等に対するチェックに止めることはできず、積極的に私の自説を対置しての全面的対決の体裁をとらざるを得なかったわけである。しかし本書の批判は未だ廣松哲学全般に対する批判への序曲にすぎない。廣松氏の全業績に対する綿密な検討と氏の主著『世界の共同主観的存立構造』『事的世界観への前哨』及び現在氏が代表作にすべく取り組んでおられる『存在と意味』に対する本格的な批判を今後行っていかなければならない。

 廣松哲学に対してマッハ主義の再来、現代観念論諸学派の混合物等々のレッテル貼りだけで形式的な批判を行って事足れとする傾向が伝統的な弁証法的唯物論の側にあるならば、極めて不幸なことである。まともに採り上げて批判すること自体廣松哲学に対して市民権を付与する結果になるという危惧があるのかもしれない。しかし弁証法的唯物論にとって、廣松哲学は現代観念論の諸潮流が事的世界観という形で面目を一新して、世界観的次元で最も根底的な攻勢を弁証法的唯物論に対してかけて来ているものである。我々は弁証法的唯物論とはそもそも何であるのかを問い直しつつこの攻勢を受けて立たなければならない。(このいささか硬直した姿勢は21世紀に入った現在、修正されるべきである。現在では私は、「哲学の大樹」という立場である。つまり弁証法的唯物論も相対化して、様々な哲学が合い補い合って、厳しい相互批判を前提にした対話によって、巨大な哲学の大樹を形成しているという立場にたっている。)

 時代はまさに転換期である。二十世紀は既に押しつまり、二十一世紀に向って、新時代を担うべき新しい思潮が次々と沸き起こり、格闘を演じつつ淘汰されなければならない。弁証法的唯物論もこの格闘の炉の中で流動化し再生される必要があろう。既に政治思想の分野ではマルクス・レーニン主義という用語すら死語化しつつあり、プロレタリア独裁という観念でマルクス主義を象徴させることもできない。哲学思想においても弁証法的唯物論はその内外から問いかけの前に大いに動揺を見せるに違いない。「物から事へ」という廣松氏のスローガンはその際無視できない意義を持つことになろう。私が廣松哲学との対決を極めて重大なものと考えるのはその為である。

 『資本論の哲学』の批判を通して私が得た最大の収穫は物神性論に対する再検証であった。廣松氏が最大限に依拠したマルクスの〈事物の価値内在の否定〉の命題に対する批判的検討を通して、私は「人間=商品」論の立場を更に確固とすることができたのである。この点に関してマルクスを全面的に擁護する立場からの批判が頂ければ幸いである。

 なお本書の叙述は批判論文であるにもかかわらず、廣松氏の叙述を直接引用し、逐一これを批判するという体裁をあまり採っていないという欠陥が指摘されるかもしれない。そのため、氏の見解に対する私の浅薄な理解が露呈し、後で冷汗をかくことが多いかもしれない。氏に対する誤解が読者に悪影響を与えるとしたら、ひとえに非才の為せる業であり、御寛恕を願うしかない。ただ氏の叙述の引用があまりに冗長にすぎると紙幅が膨大となり、読者にとって苦痛ともなりかねない事情も勘案してのことである。もちろん賢明な読者は私の氏に対する理解をそのまま信じ込むことはなかろうし、氏の『資本論の哲学』を熟読されるに違いない。そのことによって氏に対する理解が助長されるとすれば、本書は廣松氏自身にとっても有益である。

 もちろん本書の意義は廣松説に対する批判ということに加えて、自説を廣松説との対決の中で練磨し、豊富にするということであって、そのことの方により大なる意義を認められる読者がありとすればこれ以上の幸福はない。そのような有難い読者には近く上梓を企図している『人間学的商品論』に御期待を乞う次第である。ただし浅学非才に加えて、研究者としての社会的地位を認められていない私の出版計画であってみれば、それがいつ実現の栄誉に与れるか天のみぞ知るところではある。

 最後に本書の出版にあたって、経済哲学研究会の仲間の暖かい支援と励ましに厚く謝意を表したい。特に発行人を引き受けて頂いた藤田友治氏には大変御尽力を頂いた。本書は藤田氏の御尽力と茨木教材社の良心的な仕事によって支えられているところ大である。改めてここに謝意を表する次第である。

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