第8節 自然的規定と社会的規定

 労働生産物そのものは原始社会でも市民社会でも、また将来の共同社会でも労働生産物であることに変わりがない。だから、労働生産物が商品であるということ、また商品になるということは労働生産物という規定からだけ導出できるものではない。そこでマルクスは労働生産物(使用価値としての)はそのものとして価値ではないと考え、そこに含まれ、凝結している抽象的人間労働が価値であると考えた。そうすると価値は労働生産物(=事物)に内属する規定性ではなくなってしまう。事物に凝結していながら事物に内的な規定でないとするのは一見矛盾しているが、事物を効用(=使用価値)と把えるマルクスにあってみれば、使用価値の捨象が価値である以上、この事物は抽象的人間労働の凝結に還元され止揚されてしまって事物性を喪っているのである。

 廣松氏は『経済学批判要綱』での「固定資本と流動資本」に関するマルクスの見解を取上げ、マルクスがいかに事物の内的規定として社会的規定を把えることに反対したかを紹介される。「経済学者たちの粗笨な唯物論、人間の社会的生産諸関係ならびに物象が受けとる諸規定性を当の諸関係に下属せしめられた(包摂された〈大月書店版〉)ものとして、事物の自然的属性として考察しようとするのは、同様に粗笨な観念論でもあり、まさに物神崇拝である。この物神崇拝は、社会的諸連関を事物に内在的な規定性とみなして事物に所属させ(のせいにし)こうすることによって、事物を神秘化してしまう。」
(Grundrisse,Dietz Ausgabe,S.579)

 事物の自然的属性として社会的諸連関を把えることを事物に内在的な規定性として諸連関を措定することとマルクスは考え、これを事物の神秘化、物神崇拝と把えている。この場合の事物もやはり使用価値である。

 ある事物が固定資本であるか流動資本であるかは、生産過程でその事物が果たす役割によって決まるものであり、固定資本、流動資本が事物の自然的属性であるわけではない。事物そのものをはじめから、固定資本、流動資本と考えることはできない。

 マルクスによれば、あくまでも資本というのは関係規定にすぎない。事物を固定資本と流動資本に振り分け、生産過程を構成するのは人間であって、事物そのものではない。だから事物そのものがあたかもその自然的属性によって生産の社会的諸連関をつくり上げるかに考えるのは物神崇拝である。

 その上、資本として取り扱われる以上、自己増殖する価値であり、固定資本と流動資本の相違はそこに投下されだ労働量が徐々に生産物に転入するか、一ぺんに転入するかの相違でしかなく、あくまで凝結した労働の関連を言表しているにすぎない。その意味では事物は固定資本でもなければ流動資本でもない。そもそも資本ではないのである。事物は生産過程で徐々に或いは一ぺんに消滅するが、資本は融解し流動状態に戻って新たな生産物に凝結していく抽象的人間労働を実体としている。資本とはあくまで価値であり凝結した労働量なのである。マルクスは資本にもやはり抽象的人間労働の凝結を前提しているのであり、廣松氏の解釈はやはり的を得ていない。ともかくマルクスはこうして資本を事物の内的規定と考えないことになる。

 ところで私はマルクス流にはまさに粗笨な観念論者、粗笨な唯物論者、物神崇拝者である。生産を構成しているのは原材料であり、機械であり、その他の工場施設であり、人間の労働力である。それらはその自然属性によって生産を構成し、生産物を産出している。製鉄において鉄鉱石の自然属性は、鉄の原料であるということにある。溶鉱炉の自然属性は鉄を溶かす炉であるということにある。このように自然物の相互関係として生産関係がなければそれは自然的関係となりえず生産物を産出することはできない。生産関係に包摂された諸規定性をそれぞれの事物の自然的属性、内的規定として把えてはじめて生産過程を正しく作動させることができるのである。

 価値増殖過程として生産過程を把え返せば原材料は流動資本であり、機械及び工場施設は固定資本であり、これらは不変資本である。これに労働力が可変資本として稼動して、価値増殖過程として生産過程が活動する。仮に鉄鉱石という事物が資本でなければ、資本は凝結した抽象的人間労働なのだから、鉄鉱石に凝結した労働は価値とは言えず、鉄に転入することはできなくなる。もちろんマルクスは鉄鉱石に凝結しているのは採鉱という具体的有用労働であって、抽象的人間労働は価値に凝結していると考えている。しかし少なくとも鉄鉱石という具体性を捨象したこの労働生産物には抽象的人間労働は凝結していなければならない。そうでなければ価値を持たないものを集めて価値増殖を行なうというとんでもない背理になる。

 だからマルクスは事物の効用(=使用価値)に価値を内属させるのは物神崇拝であると言うに止めるべきであった。事物(=労働生産物)が価値を有し、労働力の稼動と結びついて全体として価値増殖を行っているというのはまぎれもない事実であって、これが事実でなければ資本制的生産も事実でなくなる。原材料、機械、諸施設労働力は生産諸関連において、社会的な物として諸連関を構成し、そこで社会的規定性を自己の自然的属性に相応して受け取り、内的規定としているのである。鉄鉱石は鉄分を高度に含むが故に、鉄の原料となり製鉄工業を担っており、これが価値増殖過程である限りで、社会的規定として流動資本として関係する主体である。価値増殖過程としての生産過程を立派に担っている以上、鉄鉱石はあくまで鉄分を含む鉱物にすぎず、資本というのは人間の手前勝手な規定でしかないと言ってもそれは大して意味のある立言ではない。鉄鉱石は採鉱の際に抽象的人間労働をたっぷり凝結したのであるから価値物として商品になり製鉄資本に買い取られたものであり、製鉄の過程で立派に原料となり価値増殖のための流動資本となっているのである。抽象的人間労働を体化していること、価値を含んででいること、このことの立言、主張こそが意味があるのである。

 マルクスのこのような把え方は、自然物としての事物と人間の現存としての労働をあくまで別物として把える把え方である。機械は自然物としてはあくまで自然物であり、人間の労働の凝結したものとしてはあくまで資本であり、資本である以上、それは事物ではない。価値増殖過程はあくまでこの資本の関連であって、自然的過程と混同してはならない。混同すれば価値増殖過程は自然過程となり、物神崇拝となる。つまり、永遠に価値増殖過程は止揚されなくなってしまうと考えたのである。ところが、価値増殖過程は現実には自然的過程として実現される他ないから、実は同一過程の表裏の違いでしかない。梯氏言うところの絶対矛盾的自己同一である。

 同じ自然的過程が資本制的生産様式では価値増殖過程ともなり、共同体的生産様式では単なる効用生産過程でしかないということはいかに解すべきなのか。価値増殖過程は自然的過程が人間の労働量の視点から把え直されたものであるということ、この認識には異議はないだろう。資本制的生産様式、商品生産はこのような人間の労働量の視点からの把え直しを法則的に要請している生産様式である。ということは自然的過程を人間の労働の凝結過程として把えるように我々に迫っているのである。

 自然的過程が価値増殖過程として機能する社会的諸関連にあっては、その中ではこの自然的過程をあくまで自然的過程としてだけ把えていたのでは、どうにも経済的諸関連はつかみようがないのである。これは現実であって、この現実を無視することはできない。だから我々はマルクスのように事物は資本ではないという視点にいつまでも止っていることはできない筈である。たとえ事物が資本でなくなり、商品でなくなり、価値存在でなくなる社会が以前に或いは将来にあるとしても、その時はその時であって、現実においては事物は資本として把えなくてはならない筈である。自然過程は不変であり、社会過程は可変であるという教条を振り回して、人間と自然をあくまで別物と考えるところに混乱のもとがあるのである。

 人間も自然も一体であって、共に変化していく、人間が共同体的結合のもとにある時は、自然過程は単に効用生産過程でしかなかったが、商品生産社会となって価値生産過程としての性格を示すようになり、資本制社会となってそれは価値増殖過程となった。将来、新しい共同体社会になれば、自然過程は価値増殖過程であるという性格を止揚することになるだろう。このように把えるのが一番自然ではなかろうか。

 生産物が商品として人間にとって外的存在者として現われ、その価値が盲目的な法則によって規定され、それに人間が翻弄されていると考えられていたものを、実はその商品の価値は人間の労働量によって規定されていると見抜いた古典経済学の業績は偉大である。そのことによって人間に外的に対立している商品関係は逆転して、人間の労働の諸関係として把え直されることが可能となった。労働の生産物は最早単なる自然物ではなく、人間の労働量の凝結物として把え直されたのである。かくして我々は労働の生産物を人間の現存する姿として、人間自身として把え直すべきである。労働の生産物は商品になることによって、かえって人間に還帰しているのである。

 もちろん諸個人の意志から独立し、価値関係を取り結び、諸個人を翻弄するという商品の本性はこうした認識によって解消するものではない以上、諸個人にとってあくまで商品は外的であり、対立物である。しかし、このような経済法則の盲目的支配、そのもとでの諸階級の対立、大多数の人民の窮乏化という現実的矛盾にもかかわらず、価値の源泉が労働であるという認識は、労働生産物が実は人間の現存している姿であるという認識を照らし出すものである。

 労働の生産物は商品としては一定量の労働の凝結物である。自然的生産過程を労働量の視点から把え返す商品社会の経済法則のもとでは、労働の凝結物であるという性格が自然物であることの自然的規定性に先行する。それ故、労働の生産物は特定の自然物であるまえに抽象的人間の現存として商品であり、社会的な規定が自然的な規定に優先するのである。このことは人間と自然、人間と事物をあくまで別物と考えると正しく理解できない。それこそ絶対矛盾的自己同一となるのである。梯氏的解釈はマルクスの弱点をそのまま見事に論理化したという点で、梯氏こそマルクスの唯一の正統な継承者である。

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