第7節 「商品世界の物神崇拝」論とその問題点

 「宗教的世界の夢幻境」では「人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身の間でも人間と間でも関係を結ぷ独立した姿に見える。同様に商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は物神崇拝と呼ぶのであるが、それは労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである。」(同上書136頁)

 ここでマルクスは「商品世界では人間の手の生産物」「それ自身の生命を与えられてそれら自身の間でも人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える」ことに留目している。労働生産物は人間が創出したものであって、人間によって使われるものである。だからいかに人間から独立した関係を持つように見え、また、人間に対して独立して、ある場合には人間を生産物が支配するように見えても、それは実は人間の社会関係の屈折した表現であるに違いない。人間からの独立性は仮現であり、あくまで独立的なものと思い込むのは物神崇拝である。

 イギリスでダッライト運動という機械打ち壊し騒ぎが起ったのは、労働者たちが機械に支配され、機械が自分たちを苦しめる元凶だと考えたからである。しかし機械がなくなることは労働者にとって露頭に迷うことでしかなく、資本家の蒙むる打撃は部分的であり、一時的なものにすぎない。階級関係そのものの止揚にはならないのである。

 現代では核兵器が人類を滅亡の淵に追いつめている。しかし核兵器は現代が科学技術の最高水準を用いての総力戦の時代であることを示しており、核兵器の廃絶は実は国家間対立の緊張が根本的に解消しない限り不可能であるし、仮に核兵器が廃絶されたとしても、別のさらに強力な兵器がそれにとって代わるだけである。もっともかといって、栗本慎一郎のように核兵器廃絶運動をナンセンスと考えるのは暴論であるが。

 機械や核兵器は実は人間とは別物なのではなくて、人間の化身であり、他者に対する支配力なのである。だから機械や核兵器を人間からの物の独立、人間に対する物の支配と把えるのは幻想であって、機械は資本家の非有機的身体であり、核兵器は国家権力の肉化、物質化したものであると把握すべきである。

 だから労働生産物どうしの関係である商品関係も実は価値関係であり、社会的実体としての抽象的人間労働の量的関係なのである。それは人間の抽象的現存である抽象的人問労働の間の関係であり、人間の社会関係に他ならない。ただし、それは最早、身体としてだけ把えられた人間の社会関係ではなく、労働生産物となつた人間の社会関係なのである。もし人間を身体としてのみ把えるならば、労働生産物は人間の五体ではないのだから、その関係はあくまで人間から独立した関係と思われてしまう。労働生産物も結局は人間の現存であり、その相互関人間の社会関係の一つであることを洞察すれぱ、人間か らの独立性も仮現であったことが理解できるのである。

 もちろん、労働生産物どうしの自然的関係や、人間に対する自然的対象性を注視すれぱ、労働生産物は、身体の外部に立ち、自然的関係を身体から独立して取り結ぶ 主体として認知されうる。しかし労働生産物の商品とし ての対象性は価値対象性であり、商品関係は価値関係である。しかも商品である労働生産物の第一義的存在性格 は価値であるのだから、商品関係としての労働生産物の相互関係や人間に対する関係における独立性は仮現なの である。

  問題はマルクスがこの労働生産物の人間からの独立性の仮現を「物神崇拝」と表現しているが、そのことの是 である。物神崇拝は物を神として、或いは神的なものと して崇拝することである。物自体は物である限り、神で はありえないにもかかわらず神として崇拝される。「呪 物信仰」と訳し改えても物が霊力を宿すと憶い込むこと であるから同じことである。だからそれは幻想であり、非合理的な信仰として批難されている。商品に関して言えば、労働生産物はあくまで自然物である、にもかかわらず商品形態では価値になる。そこでは効用(=使用価値) が価値とみなされる。だから物神崇拝(呪物信仰)であ るというわけだ。

 ところが商品社会では、労働生産物の第一義的存在性格として価値が あるのだから、労働生産物が価値であること自体は決して幻想ではない筈である。もし商品に抽象的人間労働が実際に凝結しており、価値も内在しており、しかも商品が労働生産物であるならば、労働生産物を価値物とみなすことには錯視はない筈である。ところが「物神崇拝」(「呪物信仰」)という言葉にははっきりと批判的な響きが感じられる。マルクスは労働生産物は価値ではなく、効用にすぎないと考えているわけであって、商品となってはじめて価値物となると考えているようである。商品となった労働生産物は最早、労働生産物であることは捨象され、忘れられており、この忘却によってはじめて価値存在になると考えているようである。このように労働生産物(=効用)と価値は絶対矛盾的に把えられている。

 ところが商品はやはり労働生産物であり、価値も労働生産物に凝結した労働量であるのだから、労働生産物(=効用)の存在性格として価値が措定されざるを得ない。従って労働生産物と価値は絶対矛盾的自己同一の論理構造を持つと梯氏は西田哲学を援用してマルクスの論理を見抜かれたのは見事である。(梯明秀著『へーゲル哲学と資本論』参照)

 私としては商品となった労働生産物は第一義的には価値存在であるから、これが人間の現存であり、人間関係を取り結ぶこと自体は少しも錯視ではないと考える。たしかに物が人間となると考えるとこれは物神崇拝と同様の論理を持つことになる。私はそのような批判をむしろ喜こんで甘受したい。なぜなら、物が人間であることを幻想と考えるのは、物と人を抽象的に区別し、その区別に固執しているからであって、価値となった労働生産物は人間労働を自己の本質としている以上、立派に人間になっていることを見抜いていないからである。(拙稿「物と人間」『立命館文学』所収参照)

 価値が効用の捨象においてはじめて措定されるという事情は、決して商品が労働生産物であることの捨象によって成立することを意味しない筈である。労働生産物の存在性格として効用も価値もある。一方で効用はその自然的属性であり、他方価値は社会的属性である。価値は労働生産物が商品社会において存在資格を得るための優先的な存在性格であり、効用はそのために価値が取らざるを得ない仮りの姿にすぎない。価値はこの効用の具体性を捨象したところで労働生産物が抽象的な価値として把え返されたものである。それ故労働生産物が商品となっても、労働生産物でなくなる必要はない。むしろ抽象的人間労働の凝結物としての抽象化された労働生産物は、商品の実体性の根拠である。労働生産物を使用価値としてだけ把えるマルクスの論理は、商品の実体性を仮現とする廣松氏を勇気づけるだけである。

 ところで「物神崇拝」という表現から、価値が労働生産物の存在性格でなく、抽象的人間労働の凝結もだから「物神崇拝」に基づく幻想だとしたら、価値は労働生産物から離れ、逆に外的に労働生産物を規制し、機能的、函数的に社会関係の中に位置づける量的比となる。つまり社会関係は労働生産物とは別に存在し、この社会関係が機能的に労働生産物を取り扱うための機能的概念として商品・価値・抽象的人間労働という言葉が使用されていると廣松氏は解釈してわられる。

 廣松氏にすれぱ、労働生産物も人間との対象関係や様々な自然的対象関係などの関係、事態に還元されるものであり、その意味で労働生産物に内在するとされる価値も関係に還元され、社会関係の投映にすぎないわけである。

 しかるに社会関係なるものがあるためには人間の身体や生産物を包摂する様々な人間的自然がなければならない。関係の第一義性を説かれても、たかだかそれらを構成する諸物をあくまで関係の契機にとどめよと云う要求にすぎない。諸契機をあくまで契機であり自体的でなく実体的なものでないと叫んだところで、それぞれの契機が契機たりえ、それによって社会関係というどでかい生々しい現実を構成するだけのものであるためには、それ自身余程しっかりした存在根拠を自己自身に持たなければならない。結局、社会関係は諸物の関係として把え返されざるを得ないのではなかろうか。実際に商品として交換されているものに対して、これは関係から商品と思われているだけで、そのものとしては労働生産物であり、価値が内在しているように思われているだけですよ、といくら叫んだところで、それが立派に商品として価値物として通用するからには、その物に社会関係を投映するだけの立派な根拠がある筈であり、その根拠を価値と云ってるのだから価値は内在的だという主張と水掛け論になるだけである。

 マルクスは労働生産物が商品であることを検討する際、先ず第一・二節で社会的実体としての抽象的人間労働の凝結が価値であることを論証し、それを前提として価値量・価値形態を展開した。そうすることで労働生産物が商品形態をとり、価値関係を取り結ぶ事態を人間労働の相互関係として把え返すことに成功したと考えたのである。だから価値関係は実は人間関係だと確信した。しかし労働は労働生産物に凝結し、価値はその存在性格になってしまっているから、今更、価値や抽象的人間労働を労働生産物から引き揚げることはできない相談であり、あくまで生産物に内在した人間の現存であり、人間関係である他ない。そうすると労働生産物は人間になってしまいこれは困るとマルクスは思った。そこで労働生産物は使用価値であると把え、価値はその捨象によって成立するから、この捨象によって物と人間の等置を避けようとしたのである。かくして価値は商品に内在はしても物(=使用価値)ではない、という論理で労働の凝結を前提とする投下労働価値説と、価値は生産物の属性ではないという議論を調和しようとしたのである。

 廣松氏は投下労働価値説と物神性論の矛盾を厳しく批判的に把えた、その点は高く評価すべきであろう。ところが氏は物神性論の中の弱点を改めるのではなく、逆に商品の価値内在まで仮現とすることによって投下労働価値説を根底的に否定し、それに基づく叙述をすべて物象化的倒錯視に陥っている読者への叙述の便法としてしまったのである。しかしマルクスはただ〈労働生産物自身が価値なのではなく、そこに凝結している人間労働の抽象的な姿が価値対象性を示す実体なのだ〉と言いたかっただけである。廣松氏は抽象的人問労働の凝結を実体的に把えることからくる矛盾をいくつか挙げられているが、それについては逐一反論しておいた。従ってここで問題にすべきなのは、この価値実体の存在の場所である。労働そのものはたしかに身体的活動であるが、それが価値であるためには生産物に凝結したものでなければならない。だから凝結し物化したものとしてはそれは労働生産物でなければならない筈である。それ故価値は労働生産物の抽象的性格である。抽象的であるという意味においては効用(=使用価値)は捨象されているが、労働生産物であることまでは捨象されていない。従って価値関係を人間労働の間の関係とするならば、それは労働生産物となった人間労働の間の関係であり、物と物の関係としての人と人との関係である。だから、これを物象化として把え、物のくせに人として振るまうので物神だと把えるとしても、だから倒錯視とすることはできないのである。

 マルクスは価値関係を効用関係ではなく人間労働の関係であると把え、効用関係と思われていることを倒錯視と考えた、これは正しい。しかし人間関係であるから物と物の関係ではない筈なのに物と物の関係になっていることを物神崇拝とした、ここに物を人として把えることができない弱点があるのである。

 しかし、物と物の関係として人間労働の関係が定立される根拠を抽象的人間労働の凝結が価値の実体であるという命題に持っている以上、マルクスの投下労働価値説は物神性論においても貫徹されているのであって、その確信は少しも揺いでいない。とは言え、物と物の関係を人と人の関係の倒錯視と把えれば、価値は物に内包されず、従って抽象的人間労働も物に凝結していることにはならない筈だという廣松氏の解釈はマルクス批判としては核心を衝いたものである。ただ残念なことに廣松氏はこれを論拠に抽象的人間労働の凝結の否定へと進まれる。ところが抽象的人間労働の凝結こそはマルクス商品論、価値論の大前提であり要諦であって、この否定は実はマルクス経済学の全面的否定を帰結せざるを得ないものである。

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