第6節 「社会的な物」としての商品

 マルクス自身、「物的関係」というと既に自然物の間の物理的な関係のみを表象し、社会的な物としての商品の価値関係をそれと区別して人問関係として把え、あたかも物的関係が物理的関係のみを指し、人間関係、社会関係を指すことがないかのような言葉づかいの中に人間を物としてとらえたくないという偏狭なヒューマニズムを露見させている。人間の社会関係も人間が物である以上物的関係には違いなく、物もそこに凝結している抽象的人間労働の凝結としての価値を本質とする以上、物自身が人間であり、物的関係は人間関係、社会関係に違いない。ただ物理的法則ではなく経済法則に左右される物的関係=人間関係であるにすぎない。このようなマルクスヘの批判的視点を保持しつつ、次の文章を検討しよう。

 「物が視神経に与える光の印象は……物理的な物と物との間の一つの物理的な関係である。これに反して、商品形態やこの形態が現われるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的な性質やそこから生じる物的な関係とは絶対になんの関係もない。ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会関係でしかない。」(同上書135〜136頁)

 上記の批判的視点を持っていれば、この「諸物の関係」が文脈において効用間の関係として価値関係が幻想される事態を指していることは明白である。ところが廣松氏にとっては、この文面は商品間関係として幻想されるのは実は人問関係の投映なのだから従って商品関係は実は物的関係ではない。それ故、労働生産物が商品としてみられたり、価値を含むかにみられることは幻想である。商品なり価値なりは人間の社会関係を示すための機能的な術語にすぎないのである。この認識は廣松氏にはあまりに自明であり、わざわざ注釈を加えるまでもない程である。

 商品関係が実は人間関係だとわかっても、商品関係をやめられないし、労働生産物が商品でなくなるわけではない。人間関係は商品関係を離れて存在しない。商品関係として存在するのである。人間の労働は直接分業関係を取り結んで全体分のいくらだからこの商品の価値はいくらと決定されるわけにはいかない。集団や個人の労働が生産物に一たん凝結し、生産物相互の関係となってはじめて労働量も検証され、私的労働における分業体制が形成されるのである。

 経済学的には商品に内在した人問の関係のみが問題なのであって、人間関係はあくまで商品関係でなければならない。むろんこの商品も労働生産物として定在し、労働生産物が商品なのであって、商品のように見えるわけでは決してない。それ故人間関係は生産物の相互関係として商品関係なのである。だからマルクスが「諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会関係でしかない。」という時、効用間の関係のようにみえる価値関係は人間の社会関係であると述べているだけである。この人間の社会関係も価値関係である以上、商品としての生産物に対象化され凝結している社会的実体として抽象的人間労働の関係なのである。だから人間の社会関係は諸物の関係として現われなければならない。しかしマルクスはこの文脈では諸物を自然物としての効用の意味に使っている、商品としての、社会的な物としての諸物の関係という把握が「人間自身の特定の社会関係」では明確ではない。つまり一方的に諸物の関係を人間の関係に引き戻しているために、人間関係とし
ての労働の関係は諸物の関係ではないかのような誤解が生じやすくなっている。生産物の関係でないような人間関係は経済学の対象外である。

 

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