第5節 「倒錯視」とは何か

 「このような置き換えQuidproduoによって」と続くが廣松氏は「置き換え」とは訳さず「倒錯視」と訳される。Quidproduoが「取り違え」や「錯視」の意味も持っているらしいので廣松氏の訳は誤訳とは決めつけられない。人間労働の社会的性格や、人間の社会的関係を反映するのは商品の効用(使用価値)ではなくて、価値の方である。マルクスにすれば労働生産物は事物としては効用(使用価値)であるから、これは価値ではない。しかし価値は抽象的な性格であって、労働生産物の効用(使用価値)の捨象によってのみ見出される。従って価値は、眼前する労働生産物(自然的事物としては効用としてしかみえない)の対象的性格とみなされる。その意味では価値は価値でないものに取り違えられることになる。だからここでは決して価値が商品の対象的性格でないとか、商品関係が価値関係でないとかが立言されているのではない。また、労働生産物もそれが第一義的に価値存在であると把えられていれば、即ち商品として把えられていれば、労働生産物が価値を対象的性格として持ったり、価値関係を取り結ぶものであることまで取り違えとされているわけではないのである。ただマルクスは、商品となった労働生産物を、その商品の従属的契機、即ち使用価値として把え返すため、労働生産物が価値として把えられることも取り違えとしてしまうのだ。

 ではいかにして人間関係が商品関係として現われるのか、商品関係は実は労働生産物の関係ではなくて人間の関係であることをマルクスは言いたいのではないかという反論はもっともである。しかし商品となった労働生産物は最早、労働生産物そのものではない。それは既に人間の労働の社会的性格、即ち他人の労働に対する支配労働量として自己を規定しているのである。それは人間の他人に対する支配力として価値になっている。人間とは商品社会においては相互支配力として第一義的に存在しているものであるから、労働生産物も商品としてはそのような価値存在として既に人間そのものなのである。マルクスが労働生産物や商品を人間そのものとして把えることができず、かえって価値を人間と把える(価値関係は実は人間関係である)のは、抽象的人間労働の凝結を人間の現存として把え、即ち商品の本質としての価値を商品(商品となった労働生産物と身体)の存在性格として明確に把握しなかったからである。だから商品の本質は人間であるのに、商品そのものは人間でないという奇妙な論理になっている。

 何故、労働生産物が人間の労働の社会的性格や社関係を代表することができるのかは、労働生産物が商品形態をとることによって、実は人間そのものに還帰しているからに他ならない。労働生産物はあくまで労働生産物としては自然物であり、使用価値だということに固執していては、決して労働生産物が価値物として商品となることは説明できない。そのことは人間はあくまで人間の五体であつて、労働生産物でないことに固執していては何故、労働生産物に自己の社会的性格を代表させることができるのかが解明できないのと同様である。

 再確認しておくと、倒錯視は効用(使用価値)としての労働生産物がそのまま人間の労働の社会的性格を自己の対象的性格としたり、社会的関係を効用としての労働生産物の社会的関係として取り結ぶかに取り違えることである。

 「このような置き換えQuidproduoによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。」(同上書135頁)

 労働生産物は商品形態をとる限り、その第一義的な存在性格は価値であり、効用ではない。しかし、この机やこの腕時計ははじめからこれこれの価値であると手前勝手に主張することはできず、先ず机や、腕時計として立派な効用であることによって市場に登場してくる。このように効用に先ず商品という形態が与えられ、あたかも「価値実体」や「価値量」をこの効用が代表し、価値関係を効用が取り結んでいるようにみえるのである。このような仮象は商品交換にはどうしても必要である。この仮象が仮象であって、実は効用が価値ではないということがわかるのは価値法則の貫徹を見抜く学問的な営為にによってである。従ってこのような倒錯視によって労働生産物が商品になる。だからこの時の労働生産物は末だ価値存在であることの反省以前であって効用そのままである。

 実は商品の価値関係は効用が取り結んでいるのではなくて、商品に内属する、より正確に言えば商品の第一義的存在性格である価値が取り結ぶものである。しかし眼前するものとしては商品は効用であり、商品関係は効用関係として仮現している。物を眼前するもの、自然的物理的対象性に限定して把えていると、商品間の関係は物と物との関係であって、人間間の関係ではないかのように見える。しかし、効用は実は価値が現われ出るためにとる仮りの姿であって、商品は第一義的には価値であり効用は衣裳にすぎない。この価値は実は労働生産物が人間の現存在であることを意味しているのであるから、物と物との関係として現われているものは、価値関係としては人間関係であったのである。この関係が人間関係を物と物との関係に「置き換え」る関係である。それは価値法則が交換を支配している事実の認識によって発見の手がかりを与えられるのである。

 しかるに、この置き換えでは価値が人間の現存在であること、価値関係が人間関係であることは蔽われている。そこで、価値はあたかも人間でない自然物としての労働生産物の対象的性格であるかに思われるのである。労働生産物を人間の現存在として把握してはじめて、この関係が人間関係であることがわかるのである。ところがマルクスは価値の実体を抽象的人間労働の凝結として把えることによって、価値関係を人間関係であることまでは把えたが、労働生産物を人間として把えていないために、価値関係が労働生産物の関係として置き換えられる論理が、単なる反映、置き換え、倒錯視で終っている。労働生産物の第一義的存在性格を人間に還帰した価値として把えておいてはじめて、労働生産物が使用価値を捨象した価値を本質とする商品になりうる論理が明確になるのである。原始社会と市民社会とでは労働生産物に変わりがないことに固執することが彼の誤りなのである。

 こうして商品は「社会的な物」である。物理的な関係でなく、社会的な関係を取り結んで相互に支配し合う物的関係であるのだから社会的な物なのである。このことは商品として労働生産物の第一義存在性格が効用でなく価値であることを意味してわり、商品が人間として人間関係を取り結ぶことを意味している。商品は商品社会の細胞形態なのであり、この商品社会は実は特定の人間社会なのであるから、人間社会の細胞としての人間は商品なのであり、商品も人間なのである。

 人間に人間の身体を商品に身体以外の自然物を表象するという固定観念が災いする。この固定観念は実は人間を物として把えることに対する根源的なタブーから来ている。身体もそれ以外の自然物も共に自然物であり、双方とも自然対象性とともに、それらが社会的に取り結ぶ関係によって社会的な物としての存在性格を示すことに変わりはない。労働生産物が効用でしかなく自然対象性でしかないことにいつまでもこだわり、社会的な物として振まうことに奇異の念を抱き続けること自体、固定観念に災いされているのである。

 

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