第3節 労働生産物と価値の内在

 廣松氏はマルクスが価値を単純に、安易に使用価値の属性とみなしてはならないことを指摘した文章を把えて価値を商品に内属していると把えることに対する批判として把え、価値は社会関係であって、対象的関係の双方の側にそなわっているように仮現しているにすぎないとされる。「ところが商品次元の物神性は却って気付かれにくい。現に人々は、商品体はそれ自身で「内在的交換価債」を蔵しており、商品それ自身が「価値」という対象性をそなえているものと私念していないか?」(『哲学』200頁)もちろん、それ自身でという言葉を商品関係、価値関係抜きでという意味でとるなら、だれもそのような私念を抱いていないだろう。しかし商品関係のもとでなら、商品体に価値が内在していないと私念する人はむしろまれである。

 廣松氏の根本的な発想を推察すればこうである。商品形態をとらなければ内在していないものが、商品形態をとれば内在すると考えるのは奇怪な妄想である。商品形態をとると価値対象性を示すのは、特定の社会関係が労働生産物に投映して価値を映し出すからであって、言わぱ労働生産物は価値のスクリーンのようなものである。
 
 私は商品としての机と、商品でない机を同じものとは考えない。無論、机としては同じものであることは認める。しかし商品としての机は、机という自然物である以前に価値であり、人間の社会的支配力が机として現存しているものである。人間に対して机という効用でだけ関わっているものとはわけがちがうのである。

 マルクスはブルジョワ経済学が価値を使用価値の自然的属性と考え、それによって商品関係を超歴史的なものとみなす見解を徹底して批判するために、使用価値=事物の超歴史性、価値の歴史性を浮き彫りにさせる議論を展開した。その限りで、机の非商品的形態と商品形態の同一性は強調されてよい。しかし価値物としての机と単なる効用としての机を同一視することによって価値が机に内在しえないように解するとなると明らかに行き過ぎである。

 これは原始社会の人間も、市民社会(商品交換社会)の人間も、将来の共同社会の人間も人間としては同じであるという議論と同断である。人間として同じだということはもちろん正しいが、それは自明であって、なんら人間についての意味のある知見ではない。原始社会の人間と市民社会の人間と、将来の共同社会の人間の違いを明らかにすることにこそ意味があるのである。

 労働生産物も原始社会では人間の非有機的身体(器官、生体としては同じではないが人間の身体の一部になっている。)として人間自身から未分化なものであった。この本源的な所有原理をマルクスは『先行する諸形態』で詳論している。(拙稿「所有の二つの意味」日本哲学会機関誌『哲学』25号所収参照)商品の発生によって、人間は自然から、労働生産物から自己を切断して主体となり、主客分裂を行ってはじめて、事物は客観的な事物となり、人間の目的との関係で用在となった。人間は事物の他在を否定して自己の支配のもとに置き、自己の現存の圏として、事物に対する所有(私的所有)を形成する。かくして事物は人間の現存在として把えられるが、事物としての他在の形態は止揚されなければならず、効用は捨象されて価値となる。この価値は自已の他在の形式としての効用を自己でないものとするために、他者に譲渡することになる。この譲渡は自己の価値の実証であるから他者の所有する事物との交換でなければならない。このように労働生産物は商品である。以上はへーゲルの『法の哲学』の所有の抽象的規定の私なりの要約でもある。

 労働生産物は人間相互の他者性、人間と自然的事物、とくに労働生産物の人間に対する他者性とその観念的揚棄、他者間の交わりとしての交換等々を市民社会で運命づけられており、原始社会のそれとは存在性格がまるで異っている。むしろ労働生産物の効用としての契機は止揚されるべきものとして従属的な契機であり、価値としての契機すなわち主体との自己同一の契機こそが本質的な契機である。だから労働生産物はそれが価値の現存在として商品であること、即ち人間に還帰していることに根本的な存在性格があるのである。それ故、労働生産物があくまで効用であり、自然対象性であることに固執しては本質的な契機を見失うことになる。

 将来の共同社会では労働生産物は商品ではなくなる。生産が共同社会の総体的な結びつきのもとで行なわれ、共同社会の分肢としての構成員は共向で計画的に生産し共同的に消費するからであって、そこでは私的労働やそれに基づく交換は消滅するからである。だから労働生産物は商品のように価値として他人を支配するための手段ではなくなり、相互に支え合うための相互の生命発現となり、他者による享受は自己の能力の確証になる。このように人類史は、主客未分化な原始状態、商品交換の発生によって生じた主客分裂に基づく商品交換社会即ち市民社会、それに将来の共同社会の三段階に区分される。それぞれの人間の存在性格は根本的に異なり、それによって労働生産物の存在性格も異なるのである。

 ところで一口に市民社会と言っても、商品性の原理が貫徹されるのは資本主義社会をまたなければならず、それに至るまでは、労働生産物の商品性はいろんな変様や否定を蒙り、不充分にしか現われなかった。しかし私的所有が商品交換によって生じ、私的所有の本質が商品性にあることが論理的に見抜けるとすれば、私的所有の展開過程としての市民社会の歴史全体はやはり商品交換社会の歴史として見直されるべきなのである。しかしこの視点からの歴史哲学の展開は別稿に譲るしかあるまい。ここで重要なのは市民社会における人間(身体とその生産物)の存在性格が価値であること、かくして市民社会の人間は商品であるということである。

 このように把握すれば、労働生産物が価値を持ち、商品として現われるのは市民社会においては決して仮現ではないことがわかる。労働生産物が価値としてみえるのは商品関係を労働生産物が映し出すからであるというのはそれ自体としては正しい。しかし商品関係を構成しているのは、実は商品となったこれらの労働生産物なのであり、労働生産物を差し引いた人間の身体ではないのである。そのことは商品関係が身体問の直接的関係でないことからも帰結されるし、人間自身が人間の身体に限定しては把握できないことからも帰結されるのである。

 廣松氏はマルクスが「商品の神秘的な性格は商品の使用価値から」も「価値量の規定の根底にあるもの」「(生理学的能力)の支出の継続時問」「労働量」、「相互のための労働」としての「労働の社会的な形態」からも出てこないと立言したのを、価値が商品に自体的なもの内在的なものではないことの説明と受け止められているようである。(『哲学』201〜203頁)しかし、マルクスの意図は労働一般の対象化を価値形成とみなすブルジョワ的な古典経済学を批判するところにある。「価値量の規定の根底にあるもの」は対象化された労働を指し、「(生理学的能力)の支出」「労働量」というのも同じ意味である。これらを抽象的人問労働と考えることも論理的には可能であるが、商品交換、価値関係を前提にしない抽象的人間労働は単なる論理的抽象にすぎず、未だ労働一般から概念的に区別されたものとは言えない。「相互のための労働」としての「労働の社会的形態」も協業或いは分業を意味するにすぎない。

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