第2節 商品が繰り広げる奇怪な幻想

 マルクスは第四節の冒頭で、先ず「商品が使用価値である限りでは、……少しも神秘的ではない。」その理由として「使用価値」が感覚的なものであることをあげる。ところが商品としては、机は「感覚的であるとともに超感覚的であるものになってしまう。」ことを挙げ、「他のすべての商品に対して頭で立っている」と述べ、「奇怪な妄想を繰り広げる。」としている。

 この「奇怪な妄想」という立言から、机という商品が価値を持っていないのに価値物であるように振舞うとか、価値関係自体が商品体としての机から超越したもの、例えば手品の種が舞台のどこかに隠されているとかいうような意味で机に対して超越的であるように説かれているかに解することは早計である。

 あくまで机は効用としては感覚的なものなのにどうして超感覚的なものでもあるのか、これが難問であって、ブルジョワ経済学者たちに、役に立つから価値があるとか、相対的に貴重だから価値があるとか、労働(社会的実体としての抽象的人問労働まで反省されていない。)の生産物だから価値であるとか言う奇怪な幻想を惹き起している。その妄想たるや卓踊術よりはるかに奇怪だということをマルクスは述べているのである。

 廣松氏はこの冒頭文を補強するために『経済学批判』から次の条りを援用する。

「交換価値を措定する労働を特徴づけるのは人と人との社会的関連が、謂うなれぱ転倒して物と物との社会的関係として現われることである。一つの使用価値が他の使用価値に対して交換価値として関連づけられるかぎりにおいてのみ、人々の労働は同等で一般的な労働として互いに関連づけられるのである。それゆえ、交換価値とは人と人との間の一関係であると言うのは正しいとしても、物的な外被の下に隠された関係だという付言を要する。」(『哲学』199頁)(『経済学批判』岩波文庫版31頁)

  この条りでマルクスは人と人との社会関連が物と物との社会関連に転倒することを強調しており、人と人との社会関連が物と物との社会関連として見誤まれていることを強調しているのではない。人と人との関係は物と物との関係としてしか商品社会では現われないのである。だからこの関係は等量の労働が直接交換される関係ではなくて、使用価値どいう物どうしの交換であり、使用価値体に含まれた労働が、交換によって等量と評定される関係である。だから人と人との関係とほ言え、一たん物となった、物としての外被によって客観的になり、妥当性を持った人と人との関係である。この付言は積極的な肯定的な意味を持つ。この付言を落すと、商品関係は単なる人間関係とされてしまい、労働の等置が必ず商品関係を生じるかのような錯視に陥いる。この点を注意しているのである。

 スミスやリカードもたしかに商品関係が労働関係を隠しているということを発見し、商品関係を労働関係として把えた。しかし彼らは単純に等置してしまったために労働関係が物と物との関係として現われること、物と物との関係の下に労働関係が隠されることの積極的な意義を把えることもできなかったし、商品関係が特殊な歴史的な社会関係であることも見抜くことができなかった。
 
 次に廣松氏は「諸商品の交換価値というものは、実際には同等で一般的な労働としての個々人の労働相互の関連にほかならず、労働の特殊社会的な形態の対象的表現にほかならない。」(『哲学』199頁『批判』32頁)という文言を引用する。廣松氏は交換価値自身が商品に備っているのではなく、この相互関連から、商品に労働の一定量が内在しているように思われるだけであって、それが交換価値として取り扱われるだけであると言いたいのであろう。特殊社会的な労働の関連があって、それが諸商品の関連として把えられ、対象化される。従って交換価値は労働の関連の機能的表現であると解するのである。

 しかし労働の特殊社会的な関連が先ずあるのではない。商品の関連によって、労働の特殊社会的な関連が生じるのである。我々は商品の関連を分析しはじめて、商品の関連が実は労働の特殊社会的な関連を形成していることを知ることができる。商品の関連が実は労働の特殊社会的な形態の対象的表現であることが解ったところで、労働の特殊社会的な形態に商品を解消したり、還元したりできるものではない。何故なら、そのような労働の特殊社会的な形態は再び商品関係として措定される他ないからである。関係を第一義的存在としようとする廣松氏の試みは、それが関係であることによって再び第二義的存在に貶められざるを得ない弱点を持っているのである。

 更に廣松氏は次の文章を引用する。「一ポンドの鉄と一ポンドの金とが、物理的・化学的な諸性質を異にするにもかかわらず、同一の量の重さを表わすのと同様に、同一の労働時間を含んでいる二つの商品の使用価値は同一の交換価値を表わす。という次第で、交換価値というものはあたかも使用価値(物)のもつ社会的な自然規定性であるかのように、事物としての使用価値に属する一つの規定性であるかのように現象する。」(同書同頁)

 ここでマルクスが商品としての机や腕時計が三万円の交換価値を持っていないと言っているのではない。机や腕時計が三万円で売買される以上、それだけの交換価値を持っものであることはだれしも否定できない。そうではなくて、机とか腕時計とかの使用価値(効用)とは全く無関係に、机や腕時計がどれだけの社会的実体としての抽象的人間労働を凝結しているかだけが、価値を法則的に決定しているのであって、あたかも机や腕時計という使用価値体が取り引きされているかに見える交換の現場を目撃していると、机や腕時計の使用価値(効用)が交換価値を持っているかにみえること、このことを錯視として指摘しているのである。

 机や腕時計は商品としては第一義的に机や腕時計という具体的な効用であるのではない。何よりも先ず抽象的な価値物である。効用は価値が他在において現われるための場にすぎない。ところで価値は自己を価値としては具体的な姿で見ることができないから、他の商品の効用を鏡として自己を見ようとする。これが相対的価値表現である。机は腕時計に自己の価値を見るが、腕時計の姿を通して見ているのは、実は腕時計という効用ではなくて、その自然対象性を捨象した抽象的な価値であり、自己自身の価値が腕時計という価値鏡に写った姿である。だから使用価値体の交換として外見上みられているが、その実は価値関係である。それ故、使用価値の属性として価値があるのではなく、使用価値(効用)は実は価値のとる仮りの姿であって、使用価値(効用)からは価値は導出できないのである。その上、効用の属性として価値を把えようとすると効用間の需給関係のもとに価値は解消され、需給関係そのものの法則がいかに生じるかは措定できなくなるのである。

 「……社会的生産関係が対象の形態をとり、そのため、労働における人と人との関係がむしろ事物相互の関係および事物の人に対する関係として現われること、このことをありふれた自明のことのように思わせるのは、もっぱら日常生活の習慣である。」これは先の引用の続きである。マルクスが「社会的物」或いは「社会的事物」ということわりなしに単に「事物」と立言する際には、自然的事物を指している場合が多い。とくに人と事物を峻別しようという考えが働いているのかもしれない。商品においては、使用価値を事物としてとらえ、価値としての商品そのものは社会的な物として把えられるという区別がマルクスにはある。このように人と物との抽象的区別にこだわることにははなはだ低抗を感じる次第であるが、それは後に詳論するとして本論に戻ろう。ここで「労働における人と人との関係」とは労働価値説に基づく価値関係を指しており、「事物相互の関係」とは事物を商品としてみれば当然価値関係であるが、「神秘化」として把えられているところをみると、事物は使用価値を意味しており、机と腕時計という使用価値が価値を属性として持つかに思われることを指しているようである。そのことは後続の文章からも察することができる。

 さらに続く引用、「商品においてこの神秘化はまだしも甚だ単純である。……より高次の生産諸関係にあっては、この単純性の仮象が消失する。重金主義の幻想はすべて、貨幣は一つの社会関係を、但し、一定の属性をそなえて自然物という形態で現わすのだということを看取しなかったことに由来する。」

 重金主義は金という使用価値に価値があると幻想するイデオロギーである。しかし金という使用価値は、実は金という商品が一般的等価物として他の商品に対して立つ際に、他の商品価値たちが自分たちを価値として措定するための価値鏡にすぎないのである。このことが看取できないところに重金主義の錯視があるのである。ここでもマルクスの論旨は使用価値の属性が価値なのではなく、価値関係としての社会関係が金を一般的等価物とすることによって貨幣表現を自然物の形で得るということである。

 引用は更らに続く「重金主義の幻想を嘲る今日の経済学者たちにあっても、彼らがより高次の経済学的範疇、例えば〈資本〉を扱う段になると、たちまち同じ幻想に足もとをすくわれる。彼らがやっとこさ事物としてつかまえたと思ったものが社会関係として現われ、そして彼らが社会関係として固定しおおせたものが、今度は事物として彼らを愚弄する場合に、彼ら今日の経済学者たちの淳朴な驚嘆の告白のうちにそれが顕われる。」(同書同頁MEW.Bd.13.S.21f)

 価値増殖する商品としての資本は再び使用価値と価値の二重性を持ち、それぞれの使用価値が価値を属性として持っているかに思われたり、価値を産出するかに思われる。これが資本の物神性である。マルクスはここで事物という言葉で使用価値を表象し、社会関係という言葉で価値関係を意味している。しかも価値関係は社会関係として把えられているので、人と人との労働における関係として把え直されていると考えてよいだろう。

 廣松氏の立場からはこの長文の引用は、使用価値は事物であり、価値、商品、貨幣、資本は社会関係であること、特定の社会関係において使用価値としての事物が価値、商品、貨幣、資本であると物神化的に倒錯視されていることを明確に説明しているとみなされる。しかし我々はこの長文を商品、貨幣、資本の二重性(使用価値〈効用〉及び価値)の物神性論による説明と受け取る。

 社会的な物としての商品、貨幣、資本はマルクスによれば、事物としては使用価値であり、社会関係としては価値である。ところで価値は使用価値の捨象であるから、使用価値を価値表現の素材、価値鏡としなければならない。しかし価値は使用価値から決まるのではなく、価値実体は抽象的人間労働の凝結である。それ故、価値は実は労働における人と人との関係であったのであり、それが物と物との関係として表現されているにすぎない。これが物象化であり、使用価値をそのまま価値とみなすのが物神性的倒錯視である。この腕時計を商品とし、その本質を価値とすることによって社会関係に還元したところでこの腕時計は物在であることをやめるわけではなく、価値もこれに凝結している労働もこの物から離れていくわけではない。だから社会関係はこの物の外にあるものではなく、この物が取り結んで自己のものにしている関係であり、内的規定である。マルクスはこの物は商品としては第一義的に社会的実体である抽象的人間労働を凝結した価値であり、この価値はこの物がいかなる使用価値かということとは無関係であり、従って使用価値の属性ではない。このことを強調しているのである。

 しかしながらこの物とこの物の使用価値を区別するのは不可能ではないかという疑念が生じるのは当然である。このセーターの使用価値はもちろんセーターとして規定される。労働生産物は一般に人間に対する対象性、人間との関係における外面的本質をその本質的規定とするのであって、自然的事物としては効用(使用価値)が本質である。マルクスが事物を使用価値と同じ意味で使用しているのはそのためである。ところで使用価値は価値ではないのだから、事物としても、この物としても価値ではないことになりはしないか。とすればこの物は商品ではなく、商品とみなすのは物象化的倒錯だとマルクスも把えているのではないか。こう解釈するのが廣松氏の立場である。

 しかしマルクスが社会的物としての商品の存在性格を社会的関係からは価値として、人間に対する自然的対象性からは使用価値として把えていることはたしかであり、両者ともこの物の存在性格である。それならば使用価値を事物として措定しないで、自然的属性、自然的対象性等と規定すべきである。たしかにその通りであって、〈使用価値=事物〉はその通りであっても〈事物=使用価値〉とすると、この物は商品として、つまり社会的事物として措定し得なくなる筈である。マルクスは商品を社会的物として一方で措定し、使用価値を事物として把えている。これは矛盾しているし、混乱している。もし廣松氏のような解釈家が存命中にいたらマルクスは〈事物=使用価値〉という用語法を改めたであろう。

 それでも、この自然物、つまり使用価値が、この腕時計が商品であることが否定できない以上、価値は使用価値の属性であり、存在性格であることは否定できないのではないか。このような疑問にも道理がある。マルクスは価値は使用価値の自然的属性ではないということを強調しているのであり。使用価値が労働生産物であり、商品となるものであること、従って社会的な存在性格として価値存在になることまで積極的に否定できないと思われる。しかし、マルクスの問題意識は価値を使用価値の捨象によって措定するところにあったから、価値が措定された時にはそれが使用価値であったことは忘れられており、その為に使用価値の属性として価値を理解することには強い抵抗感があったと思われる。そして後に詳述するように使用価値は超歴史なものであるのに対して、価値は歴史的なものである、従って使用価値そのものは価値ではないという論理が固執される。このような観点から価値を使用価値の属性として把えることを極力排そうとし、いわゆる物神性論が形成されたのである。

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