第四章、「商品」の物神的性格をめぐって

                     第1節 商品の物神性とは何か

 商品の価値関係は商品間の関係であり、その意味で物と物との関係である。ところがマルクスは商品の物神的性格を検討する際、「諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかない。」(『資本論』136頁 国民文庫版)と宣言している。というのは商品の価値関係、価値対象性は「労働生産物の物理的な関係とは絶対になんの関係もない。」(同書135頁)からである。マルクスにとっては物理的関係(もちろん化学的、生物的関係も含まれるだろう。)を結ぷものが物なのである。ところが労働生産物の関係としての価値関係は、そのような自然的関係ではないからこれは「諸物の関係」ではなく「人間自身の社会的関係」でしかないということになる。

 マルクスにとって物とはこのような自然的属性を示すものであるから、自然物としての労働生産物が効用としての自然的属性を示す他に、商品としては、超感覚的な価値性格を示すことを、「神秘的」であると受け止めるのである。目に見えるのは自然物の形姿であり、価値はその存在性格である。従って価値は生産物の形姿をとって現われている限りでは目に見える感覚的なものであると言ってよい。しかしマルクスは後に詳論するように、労働生産物そのものは使用価値であって価値ではないと把え、商品としての労働生産物の本質を価値とする。価値はあくまで使用価値の捨象によって措定されるために〈労働生産物=使用価値=事物〉という視点によって、価値は内向し、そのことによって自然的形姿に蔽われて超感覚的なものになる。しかし、ここでは価値は自己の使用価値体によって自己を表出できないという意味で超感覚的であると把えておけばよい。労働生産物が自然物であるのなら、感覚的なものである筈なのにどうして超感覚的な性格を持つのか、これは不思議ではないかと考えるのである。こうしてマルクスは労働生産物に超感覚的な性格が付着する原因を、それを産出する労働の社会的性格に求め、特定の社会関係において、労働生産物が人間の私的労働に基づく分業関係を反映する仕組を解き明そうとする。

 この問題意識は明らかにブルジョワ経済学に対する批判から出発している。何故ならブルジョワ経済学は労働生産物が価値性格を持つのは、労働或いは労働一般を対象化しているからだと考える。ところで、労働生産物は常に労働を対象化したものであるから、労働生産物が価値性格を持つのはごく自然なことで、超歴史的なものであると考えてしまう。たしかに労働生産物は常に労働を対象化したものである。しかし、労働生産物が価値対象性を示し、商品となるのは特殊な社会関係のもとでである。だから各商品体が価値を持つのは労働生産物であるからではない。それらが私的労働に基づく分業関係を自己の関係として引き受ける限りにおいてである。

 ところで労働生産物がそのものとして超感覚的な性格を持っているように思われ、価値関係が単なる労働生産物相互の関係として現われるのは、商品関係がリンネルと上着、小麦と机といった労働生産物間の、つまり具体物相互の交換としてしか見えないからである。このように商品交換は物と物との関係として現われ、それが私的労働間の分業関係であるということを隠している。そこで単なる労働生産物であるリンネル、上着、机等がそれ以上のもの、つまり価値対象性を持つようにみなされるのである。マルクスはこれを商品の物神性と呼ぶ。リンネル、上着、机はそのものとしてはただのリンネル、上着、机でしかないのに、そのものとしても価値であるかのように見えるからである。

 以上のマルクス理解には廣松氏ははなはだ不満足の筈である。というのは私の理解では労働生産物が価値を内包した商品であることは少しも傷つけられないからである。何故なら、諸商品は私的分業関係を反映し、自己のものとする限りでは立派に商品として価値でもあるからである。ただ労働牛産物としてだけ見られる限りで、つまりそれが特定の社会関係を反省させることなく、先験的に固定観念で習慣的に価値とみなされ、何故価値であるかを見失わせる限りで商品の物神性が問題になる。商品の社会的背景を了解して、労働生産物が何故商品となり価値性格を持っのかが解れば、労働生産物が商品であり、価値存在であることは事実として承認されるのである。秘密が解かれればそれは秘密ではなく、何ら神秘的ではない。ただしマルクスは商品としてはその本質は価値であり、これは使用価値を捨象しているから、労働生産物=使用価値という見方から、労働生産物は価値ではないという区別に固執しているようにも見受けられる。とは言え、このものが労働牛産物であり、商品として価値を本質とするものでもあると把えていることは疑えない。

  廣松氏にすれば、マルクスは「諸物の関係」ではなく「人間自身の特定の社会関係でしかない。」と明言しているのであるから、労働生産物が商品として価値存在であることや、それが抽象的人間労働を凝結していることは特定の社会関係からそのように見えるにすぎないことである。これはマルクス自身によって疑問の余地なく示されているということになる。この問題はマルクスが「諸物の関係」と立言するとき、この「物」という意味をどう受け止めるべきかという点にかかっている。この問題を解くためにも「第四節」を最初から検討していこう。

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