第14節 美と価値の存在性格の比較

 美と価値は関係規定であり、存在性格であるという点では同じであるが、美が対象と意識との関係で対象の側がとる存在性格であるのに対して、価値は生産物と生産物の社会的関係における双方の側の存在性格である。

 価値を措定するのは価値判断であり、その点だけ考慮すれば美と同様である。意識にとっての効用を持つものは総て価値存在であると言い得るが、これは価値に対する主観的判断であり、精神的価値判断や効用判断としては妥当性を持っても、こと経済的価値においては事情が異なる。

 経済的な価値判断は価値が自己を実現するための媒介であり、それが措定するものは価値と思われるものにすぎず、価値そのものではない。価値そのものは生産物相互の関係において既存するものであり、共同主観的な価値判断によって形成されるものは価格でしかなく、価値に近似的なものにすぎない。しかし価格は法則的には価値と一致するので、価値は価格として白己を実現するし、また、価格としてしか自己を実現することはできない。そ似意味では価値は価値判断によって措定されると言い得る。とはいえ価値判断の根拠としての価値そのものは判断の前から既存し、意識から自立的に存在していることも見忘れてはならない。

 かくして意識から自立的なものとしての価値は、生産物相互の関係が私的分業社会のもとでとる社会関係を反映して、抽象的人間労働の凝結量の量的比となるわけである。抽象的人間労働は各人の個別の人間労働が一人前の人間労働として、同一の人間労働に還元されたものである。それ故、価値は実体としてこのような社会的に承認された社会的実体を根拠に持つわけで、ここに価値が安定し(不変ではないが)、市場が形成されることになるのである。

 美があくまで特個的な美意識と対象的な対応関係にとどまっている以上、いかなるものを美的実体とするかは恣意的であることができる。その際、社会的根拠は絶対的要件ではない。それでも美的実体に関する認識は共同主観的に形成されるものである以上、美的実体にも社会的に承認されたものが有力となり、美意識を強く刺激することになる。ただ、やはり美意識と対象の関係の特個性は美の創造的契機として重要である。それは凡庸な美の限界を突破して新たな美的世界を形成し、共同主観的な美に反作用するものであるからだ。その点、価値意識と価値対象の特個的な関係を捨象するところに成立する価値とは対照的である。

 価値はあくまで抽象的な人間存在であり、その実体は抽象的な人間の現存としての抽象的人問労働である。抽象的人間労働が抽象的人間としての自己を表わしたものこれが商品である。だから、抽象的人間とは商品としての身体であり生産物である。このように解するとき商品、価値、抽象的人間労働の実体性についての廣松氏的な疑問はすべて氷解する筈である。

    ●第四章 第1節 に進む            ●第三章 第13節 に戻る       ●目次に戻る