4存在と意識の関わり

 存在と意識を二元的に把え、存在を客観に据え、意識を主観に据えて、主・客図式によって認識を問題にすれば、意識は意識にとって現われる存在のみ、即ち現象のみを相手にすることが出来、従って存在自体、物自体は把握できないという構図になる。
 
 現象しない本質、対象性でない物の属性等は、自体的存在を仮定することになる。又、意識も、存在に対峙して主観として把えれば、自立的、自存的に把えられるが、意識は、対象と意識主体を取り巻いている諸連関が現相している姿である。

  廣松氏は、存在を意識された存在、意識を存在の現相として把える事によって、存在と意織の二元論を超克される。そして、存在は個々の個物として現われるにしても、それは諾連関を物象化的に倒錯したものにすぎない、又、意識も個々人の意識として現われるにしても、共同主観的な作用であると把え返される。

 我々も、存在が対象性として現象するものでしかない事を認めないわけではない。ただし、対象性として現象するのは決して人間の意識に対してのみではなく、対立物間の相互浸透に普遍的に見られると推論する。

 だから、世界が人間に対して存在する面を我々が垣間見るだけであって、大部分の存在は、我々の許に現われない。我々が不可知論をしりぞけるのは、決して知が無限、無制約なものであることを主張するからではない。知は、我々と対立物との本質的な連関によって、措定され、実践的に確証し得る性格を持っていることを主張するからである。

 物は、我々が認識する対象としては、我々に示される諸性質の統合である。そして、我々との連関においてそのように定在している。そのような物として物は可知なのである。もちろん、物自体という議論を立てれば、ミクロ的には汲みつくせないし、突然不可思議な力を発揮するかもしれない。しかし、ミクロ的な考察は、物の構成、素材の考察であり、より下位の物、別の物の考察である。その物は素材の研究によってより理解を深められるとしても、その物自体の対象性によってその物を規定する他ない。又、物が何か異なる対象性を発揮して、その面が主要な性質となれば、別物に変質したことになる。だから、物を対象性の統合として把える限りにおいて物は不可知ではない。

  人間の意識、人間に現前する事態は、全宇宙的連関の現相である。その事は、全宇宙的連関が人間の意識に媒介されて成立するという面を持つ、しかし、その局面を過大評価して、すべての現象、事態が人間の意識に媒介されていることを強調すれば、人問存在が宇宙の中で芥子粒程の存在であり、その連関が極めて限局されており、意識に現相する連関、事態が、全宇宙連関のぽんの一局面にすぎないという事実を歪めることになる。

 全宇宙連関は、無限の階層を成す物質の運動連関であって、現象・事態は諸物質の様態、連関として成立している。人間もその中に組み込まれた物質であって、その諸性質、諸能力の範囲で、諸物と連関し、ひいては全宇宙連関の構成に参加している。このようを限界性を踏えた上で、意識は、人間に関わる諸物の連関としての事態であり、意識された存在としての事物の現象、現存在である。

 人間の諸物との関わりが、物質的であり、実践的である限りで、意識は諸物の連関を自己の内容にするから、意識は単なる混沌ではなく、諸物の意識、連関の意識として論理的であり、思考となる。従って、思考は諸物の連関が自己を意識の形式において対自化したものである。それは単に人間の身体が思考しているのではなく、諸物が人間の身体を媒介して、自覚に達しているのである。人間の側から把えれば、自己を思考によって諸物の主体へと昂めているのであり、諸物の中に自己を定立しているのである。かくして人間は自己を自然の中に、人間的自然として定立する。存在と思惟の同一性、意識と事態の同一性、主体と客体の同一性は、人間と人間以外の諸物の実践的連関によって、始めて成立するのであり、まさに、実践的連関を必要とする諸物との対立関係、相互前提関係を前提している。もし、諸物の対立、相互前提がなければ、諸物を他者として把え、その他者性を止揚する実践は成立しえない。実践的連関があって、諸物を区別するというのは認識の成立についての議論である。認識の成立をもたらす実践的連関自身はやはり諸物の対立、相互前提に根拠を持っている。だから、唯物論を、実践的唯物論として把える際、物質や諸物の根拠に実践を置くという議論は警戒を要する。(もっともこれは廣松氏の議論ではない。)

  5「物」の認識と個人の成立に進む  3主体=実体としての「物」   ●目次に戻る