3主体=実体としての「物」

 物は、たしかに形而上学的実体として自存するものではない。従って、物の諸性質(諸属性)は対象性でしかない。つまり、対立物との連関において措定される。この連関が事態として現われる。この連関=事態を離れて物が在るわけではなく、この連関=事態が対立物の統一として物である。このように、物が事態として把え返えされたとしても、物が物でなくなるわけではない。それ故、事態を物として把える事が倒錯視であるわけでもないのである。

 廣松氏は、物と言えば、自存的実体でしかあり得ないと懸念きれる。だから、あえて、事態と物を峻別され、物を事態の物象化的倒錯視と考えられるのである。もちろん、氏は我々が、物を事態の統合、諸性質の統合と見なし、形而上学的実体としての物を認めない立場に立っていることを理解しておられる。(『もの・こと・ことば』参照)要するに、物を実体=主体として世界を構成すれば、人間の意識に媒介されない物の実在性を推論せざるを得ず、結局、実在としての物に意識は不可欠ではなくなり、主・客図式の超克は不可能となることを懸念されているのである。

  我々も、素粒子でさえ、観側装置によって媒介されて把えられ、それ故、自体的存在者ではなく、事態として把捉されることを知っている。だから素粒子は事態を説明するための機能的・函数的概念である、しかし、素粒子によって事態が構成され、世界が構成きれているという推論は決して不当な推論とは思われない。

 素粒子が認識主観との事態連関の中で把捉されるということは、認識にとって素粒子の主観との事態連関が不可欠であることを意味するにすぎない。素粒子を認織するための連関が創造される以前にも素粒子はあった筈だし、我々が素粒子を知ると知らないに関係なく、素粒子は世界を構成している筈である。廣松氏には認識論と存在論の同一性に固執する傾向が見受けられると言わねばならない。(『論理』)認識論と存在論の同一性は、廣松氏の場合、世界を事、事態によって構成しようという意想と深く関わっている。

  ミクロ、マクロを問わず、世界が事態でしかないとすれば、物は、事態を主・客図式によって二項化し、物を主観の対極に立てたり、事態を物と物に分極したりすることによってのみ成立する。だから、主観抜きに物は絶対に存立しえない構図になる。

  ところで、事態が物と見なされるのは、主・客図式に基づく。これは、主体が客体に対して物として対峙するところに原因するのである。人間の場合、個人が身体的主体として自己を意識している場合に主・客図式が認識図式になる。物と物の対象的関係を認識すろのは、人間であるが、それは、人間が身体として一個の物であるからである。人間以外の物は、物と物との対象的関係に立ち、相互に前提し合い、措定し合っているが、この関係を認織することは人間の意識に依らざるを得ない。だから物と物の関係があるということとそれを認識するということは別である。

 物と物の対象的関係、これは主体―客体関係である。客体は主体を超越した他の物として主体によって措定されている。しかし、主体は諸客体を措定することによってのみ主体であるから、主体は逆に客体によって措定されている。同時に客体は主体であり、主体は客体である。主体は客体の措定によって措定されるという意味では諸規定の統合、対立物の統一であり、客体も、諸規定の統合、対立物の統一として主体=実体の構造において把握されなければならない。(船山信一『人間学的唯物論の立場と体系』未来社1971年)

 身体にしても、物質代謝を考慮すれば同一物ではないという議論がある。廣松氏は近世的な物的世界像にアニミズム的世界像、生態論的世界像を対置されており、生物体を物として把えるのは近世的な想い入れによるとされている。廣松氏にはニュートン力学的物体観念に基づいて形而上学的実体として物体を把えられるから、生物体は物体としての物の概念に適しくないことになる。

 形而上学的実体としての物を否定すれば、物は生成消滅する無常な存在であるから、むしろ、質料的不変性は物の概念に適わしくない。物は対象関係を取り結ぶ主体として、関係主体であるところに、世界を構成する実体としての契機が認められる。その意味では、常に代謝関係によって他者から措定されることによって同一性を保つ生物体の方が物の概念に適合していると言える。

 世界を構成し、現象として生起し、事態を惹き起している当のものを実体と名付けるとしたら、実体は主体でなければならない。もちろん、それが世界と別に存在したり、現象や事態と別に存在する形而上学的実体である必要はない。しかし、連関や事態そのものを第一義的存在と考えると、連関や事態そのものは形式や表象にすぎないから決して主体=実体ではありえない。そして、それらを構成する成素も第二義的存在と把えられ、説明のための機能的・函数的概念と把えられると、決して主体=実体ではありえない。従って、廣松氏は、要素主義的・実体主義的世界観を端的に超克されることになる。

 現象、事態及び連関が単なる形式ではなく、実質即ち質料であり、しかも、それらが主体として世界を構成する実体として把えられる時、それらは物として把えられていることになる。だから、物は現象としての諸規定の統合であり、諸事態の統合、連関として事態にすぎないが、世界を構成する主体=実体としての要素的な事態である。そしてこの要素的な事態、事態函数の項としての事態は、対立物を措定することによって措定される実体として主体的な事態である。

 措定や規定を人間の意識の営為に限定することはできない。認織という形式の措定や規定以前に、対象関係は、物理的、化学的、有機的に措定し合っている。認識はこれを対自的にしたものである。だから措定し、規定する主体=実体は、あくまで物なのである。例えば鹿を餌食として措定するのはライオンである。人間はこのライオンの措定を措定するのである。

 世界を現象や事態として把える事に誤まりがあるのではない。ただし、現象や事態は世界の言い換えにすぎない。それらが何によって構成されているかが問題なのである。廣松氏の立場は所与としての世界を事態函数として記述すわば足りるという立場に帰着する。その際、世界=事態函数の項、成素を実体化する必要はないとされる、しかし、我々は、物として現存し、対立物を措定し、対立物から措定きれて現存している。我々は個体と種の維侍のために実践的に世界と関わり、世界を構成している。その我々が、世界を我々と我々が措定し、我々を措定している諸物によって構成しないわけにはいかない。そうしないことは、我
々の現存から離れることにはならないか。

  個物が主体=実体であるというと、個物の領域や規定は思惟が決定するとか、函数的な項にすぎないとか、個物の実体性についての様々な反論が予想される。しかし、対象的な関係が様々なレベルで実在し、これが事態を構成している以上、その両極は、相互に前提し合い措定し合う主体=実体である。個物は、諸対立物との間に各種の対象的関係を取り結ぶ。言い換えれば、いくつかの対象性が統合される関係にある時、この統合が個物である。

 個物は諸対立物から措定されるが、それは対象性として措定される。同時に、個物は諸対立物を対象性として措定している。個物は自己が示す諸対象性の統合以外に別の実体を持つものではないが、諸対象性の統合である限りで、諸対立物から実体性を承認され、そのことによって、諸対立物の根拠になっている。この関係を、関係を第一義的存在と見なすことによって諸物を関係の単なる契機であり実体ではないとすると、関係自身が、単なる実体になってしまう。関係は関係する諸主体の関わりの中に存在するのであって、関係する諸主体が関係の根拠である。そう把えてはじめて、関係は形式でしかない状態を脱することができる。かく把え返された内容を持つ関係は、再び関係する主体即ち物として定在することになる。

 関係の項に対する第一義性、事態の物に村する第一義性の主張は、悟性の偏狭に起因している。関係はより大なる閥係に対して項であり、項によって構成される。関係とは関係する当体の関わり方、存在性格、規定性以外の何者でもない。関係の実体的根拠は常に、関係する当体のうちに求められる、他方、項は関係によって前提され、関係のうちに止揚されてむり、自己の規定性の根拠を関係のうちに持っている。だから関係と関係する主体は相互に前提し合い、移行し合う。

  事態は物の関係、様態、運動以外の何かではありえない。物も事態の統合として、統合的な事態にすぎない。事態自身が事態の統合として把えられた時、事態は物として把えられている。だから、関係や事態が先か、項や物が先かという議論の立て方自身が一面的なのである。
 

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