第9節 社会的な物的支配カとしての価値

 価値が意味としては支配労働量であるということと、実体としては抽象的人間労働の凝結量であるということとは決して二元的なものではない。商品としての人間が、他人の労働を商品として支配するためには、自己自身が社会的実体としての抽象的人間労働の凝結量として商品のうちに内在しなければならないことを意味するにすぎない。マルクスがアダム・スミスを評して、価値が支配労働量であるということは交換価値の概念にすぎないといったのはその意味である。ここでは機能的な関係としての相互支配が、その根拠として相互支配されうる労働量の内在を前提していることを確認しておけばよい。

  人間を抽象的人間として、抽象的人間を商品として、商品としての人間の本質を価値として把え返すことによって、我々は人間の存在性格を抽象的には、他人に対する物的支配配力として把え直したことになる。かくして人間関係は相互支配に基づく利己的関係となり、市民社会の実相が如実となるのである。私的労働の分業社会では、諸個人は単に一種類の効用しか産出できず、彼らの衣食住はほとんどすべて他人の労働生産物を支配することによってまかなわなけれぱならない。そのためには何よりも先ず、彼は他人に対する抽象的支配力として社会に通用する価値でなければならない。そして価値としての自己を価値物としての労働生産物によつて示さなければならない。このような関係が人間の抽象的規定を先ずもって価値とするところのものである。しかし、読者の中には人間が価値を有するというならまだしも、人間が価値であると規定するのは納得しがたい向きがあるかもしれない。

 人間についての概念規定は無数に与えられてきた。いわく「考える葦」「労働するもの」「道具を使う動物」「社会的動物」「有限者」「実存する者」「言語を使う動物」etc.なにしろ人間に概念規定を与えること自身、人間学という学問を形成するぐらいである。もちろんどの規定もそれなりの根拠がある。

 ここで私は人間は本質として価値であり、それ故商品であるというのだから、商品性があたかも永遠の本質であるかのように把えられ、結局、ブルジョワ経済学の赤裸々な立場表明とも受け取られかねない。そうではなくて、私は人間は商品としての存在構造を持つことによって初めて動物と完全な意味で自已を区別する存在となりえたのであり、又、商品性の克服こそが人間が人間としてかかえた問題を真に解決し、新たな人間へと自已を超克する鍵であることを本気で説いているにすぎない。しかしこの問題はここで詳論するべきではなかろう。人間学としての商品論の本格的な展開は近著『人間学的商品論』で果したい。(これは『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』青弓社、1985年刊で一部果たしている。『資本論の人間観の限界』と改題して本ホームページに収録している。)

 人間が先ず価値であるということは、抽象的に〈他人に対する物的・社会的な支配力〉でなけれぱならないという意味にすぎない。そこで人間は自己の価値価倣を労働生産物という物の形で示すために、自己の身体から出て対象的な自然の中に自己の価値の塔を打ち樹てる労働をすることになる。とはいえ彼が生産者でなければ自己の価値を別の仕方で示すことになる。ある者は略奪によって、ある者は政治的手腕によって、ある者は詐取によって、ある者は家事や育児を受け持つことによってそれを果すことになる。しかし非生産者の創出する価値は、比喩的には生産者の労力との同一視によって抽象的人間労働の凝結とみなすことができるだろうが、生産物の価値として交換の対象にならない事情を考えれば、経済学的考察の対象からひとまず除外しておくべきであろう。

 

  ●第三章 第10節 に進む      ●第三章 第8節 に戻る        ●目次に戻る