第8節 身体および生産物としての〈商品=人間〉

 我々は人間と言えば人間の身体を思い浮べ、労働生産物や商品はあくまで人間の生産物であり、人間そのもののではないと憶い込み勝ちである。しかし人間の身体そのものは医学の対象でしかない。ビーバーが壮大なダムを建造し、自然を改造して、巨大なテリトリーを形成しているのを観察して、はじめてビーバーが何であるかを知ることができるように、人間も、その文化と切り離して、身体だけで人間の何たるかを知ることはできない。ビーバーのダムをビーパーの歯の鋭さに還元できないように、人間の文化を人間の脳随の容量や手の形に還元することはできないのである。

 ビーバーとはビーバーが生産したダムであり、その中の快適な家屋であり、彼らのほほえましい家族生活であり、それらの総体である。人間とは目白台の豪邸であり下町の文化住宅であり、巨大な石油コンビナートであり、家内工場であり、広大な小麦畑であり、狭い水田であり、摩天楼であり、人民公社であり、難民であり、核兵器であり、スモン病である。人間とは何かはまさに人間が産出している広義の労働生産物がそれを示しているのである。従って人間の抽象的規定を得ようとするのなら、労働生産物の抽象的規定を捉えなければならない。私的労働の分業体制においてはそれは商品に他ならないのである。かくして人間は商品であり、商品は人間の現存である。そして人間は先ず商品の本質として、即ち価値として抽象的に存在し、常に商品に内在することによって、
自己を価値として示さなければならない。

 価値の存在性格は従って商品として現存在し、しかも商品に内在する人間の抽象的性格である。それは決して商品に商品ではない、商品の他者としての人間をみることではなくて、商品としての人間をみることなのである。

 もちろん、身体として人間に固執する限り、商品は人間に外在的であると言える。しかしその場合でも、人間の身体は実は商品性を持っているのである。人間の身体は奴隷でない限り売買されえないという意味においてはたしかに断じて商品ではない。しかし、単に抽象的に身体は自己の自立性を主張することはできない。身体は自己を常に身体的な力能として発現させなければならない。

 ところでこの力能の発現が社会的に商品価値を認められない限り、一人前の社会人としては無能力者であり甲斐性無しである。知力にしろ、技術にしろ、物理的な力量にしろ、身体の諸能力は価値として発現され、商品化されなければならない。その意味で身体は能力としては商品となり得るものであり、商品となってはじめて一人前である。その意味では身体としての人間も又、商品であ
る。

 しかし、身体がこのように直接的に商品であることは賃労働者によって初めて対自化されることである。賃労働者でなければ身体自身を一定時間売りに出すことはないから、自己が価値であることは自己の生産する商品において自己の身体から外在化して示すしかない。賃労働者にあっては、身体は能力として商品価値を認められ、発現の以前に買いとられ、資本家の支配に委ねられる。そのことによって賃労働者としての労働力商品の価値はその労働力が産出する価値量との直接的なつながりを失ない、これが搾取の源泉になる。そのことは人間が賃労働者となって初めて商品化したことを意味するものではなく、賃労働者の存在によって、人間の商品性が直接的な形で初めて対白化されたことを意味するにすぎないのである。
価値はたしかに人問の性格であり、人間が白己の力を社会的な力として規定しているものである。人間は相互に価値として措定しあうことによって、自己を他人の支配に委ね、他人を自己の支配下置くのであり、価値は従って他人に対する支配労働量を意味することはアダム・スミスが既に示している。しかし、この人間は単に人間の身体のみに限定されるのではなくて、人問社会は巨大な商品集成であり、人間社会の細胞形態は商品であるのだから、価値は、身体にも労働生産物にも内在しているのである。

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