第10節 抽象的人間労働の論理構造

 価値が価値であることを、価値物としての実を示すことなしに繰言している段階では、価値は単なる抽象物にすぎず、末だ何ものでもない観念的な存在である。価値はこの観念的抽象にとどまっていては何物も得ることはできないから、自己の抽象性を否定して具体物としての自己に目覚めなければならない。かくして抽象的人間は具体的人間に、観念的存在は自然的対象的な身体に目覚めることになる。彼ば自己の身体的能力を発揮することによって自然的対象に働きかけ、具体的有用労働を行う。他人の必要を充足させる何物かを創出することによって自分がいかに他人にとって必要な存在であるかを示すのである。

 しかし単に有用物を造り出したからといって.それに対する見返りがすんなりともたらされ、自己の必要が充足されるような甘い世間ではない。この有用物は他人が産出した有用物を支配しうる力を、即ち価値を内在していなければならない。しかも自已の必要を充足するだけの有用物を支配しうるだけの価値を内在しなければならないのである。ここにおいても、価値の意味は商品の他商品に対する物的支配力である。このような物的支配力を形成する労働として、即ち価値形成的労働として具体的有用労働は行なわれなければならなかったのである。

 このような価値形成的労働はどの商品も価値を示すために造られているという事情によって、労働の具体性には一切無関心であり、また、どの価値も生産者でなく商品が示すという事情によって、だれの被造物であるかにも一切無関心である。従って同一の人間の抽象的労働であるとみなされる。それ故労働王体としての価値が自已を示す労働は抽象的人間労働として現存する。とはいえ抽
象的人間労働が抽象的であるためには具体的労働の抽象である他ないから、抽象的人間労働は具体的有用労働として行わなければならない。そのためやむを得ず労働主体は価値である自已を否定して具体的な身体的能力となったのである。

 しかも抽象的人間労働は直接自已を自然物として凝結させることはできない。というのは価値は有用物が商品としてもつ社会的な力、他の商品に対する支配力であり有用物に内在する力としてはじめて経済学的考察の対象になるからである。つまり価値であるためには先ず有用物でなければならないのである。従って抽象的人間労働は具体的有用労働として具体物を形成する。具体物の形成そのものにおいては労働の抽象性は否定されている。できるだけ品質のよい、効用の大なる有用物をつくることが問題なのである。

   しかし生産物は商品としては再び具体性が捨象され抽象的な価値に還元される。そこでは、どんな、どれだけの効用かは顧みられない。ただ同一の効用は社会的な平均的必要労働時間で生産されたものとして把え返され、すべての商品はその中にどれだけの抽象的人間労働が凝結しているかだけで評価される。労働の評価は従ってどれだけ巧みに効用を産出したのかではなくて、一定時間内でどれだけ多くの労働を行ったか、労働の凝縮度が評価されるだけである。

 抽象的人間労働が具体物の形成にあたって行った自己否定は実はみせかけであって、具体的有用物の否定的契機となるための自己否定であったにすぎない。なぜなら抽象的人間労働は主体である価値が自己を価値として示すための営為であり、有用物を自己否定的に産出したのは、実は有用物の有用性を非本質的なものとして捨象し、価値としての自已に還帰するためにすぎない。そのことによって人間が他人に対する物的支配力を示すために、自己を商品の持っ他の商品に対する物的支配力に対象化しようとしたのである。従って労働生産物は、商品社会の関係においてはもっぱら価値物として取り扱われ、価値物として本質的に存在するのである。

 価値が労働主体の本質であり、商品としての労働生産物の本質でもあるという関係は自已還帰である。というのは主体としての価値は自己を、即ち社会的な物的支配力としての自己を、商品の社会的な物的支配力として示したのであり、この関係においては主体としての価値は商品の価値以外の何物でもなくなっているからである。つまり主体が対象の中に自己の現存の圏を形成したのである。労働主体の価値というものはそれが産出した商品の価値である。そしてその実体は彼が一人前の社会人として行った抽象的人間労働量、即ち総労働時間に占める彼の労働時間の割合、彼の分業への公認された貢献度である。

  なお「抽象的人間労働の論理構造」は既に十年程前の修士論文「労働概念の考察」の一部分で詳しく展開したものを関西哲学会の個人研究発表用に印刷したものに詳しい。

 

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