第7節 抽象的人間としての商品

商品生産社会においては、人間は自己を商品として示し、そのことによって先ず商品として認められなけれぱならない。そうでなければ、彼は何物(何者)としても認められないのである。いかなる風体をもって、いかなる威厳をもって、いかなる体格をもって、いかなる心情をもって自己を示しても、そのことによって人間は商品社会において独立した人格となることはできない。彼はたとえどんな種類の効用でもよいから、ともかく商品として自己を先ず示さなけれぱならない。私はリンネルである。私は労賃である。私はサービスである。ともかく人間は商品とならなければものともされないのである。かくして商品は人間であり、人間は一人前のものとしては商品なのである。

 もちろん商品であるという抽象的な現存のレベルでは各個人の人称性は消去されている。従って各商品は人間としてはだれであるかは必ずしも示す必要がない。実際、複雑な分業体制のもとでは各商品はだれによって作られたかは示すことはできないし、無名の多数の人間の共同作品である。これを肯定的に把えるならぱ、各商品の無人称性は商品が品質においてのみ優劣をつけるべきであるという公正さの保証でもある。とはいえ各労働力の発現の現場においては各人の労働がどれだけ商品の品質を左右し、価値を産出しているかはある程度知ることができるし、各人の労働は商品のでき栄えによって評価される。ところが商品となってしまえばそれはだれが産出したかには最早無関心である。従って、人間労働もそれに対応して、何を産出したかではなくて、どれだけ労働時間を凝縮して凝結したかだけが問題である。それ故このような人間労働力は商品の種類には無関心な流動的な労働力である。労働のこのような流動性は人間を同一の人間労働の主体として把握するのを容易にする。これが商品としての人間の無人称性である。

 このような人間一般、抽象的人間への各個人の還元によって、各個人は無人称で無差別な商品としての現存を与えられ、そのことによって社会人としての資格を得る。社会人はそれぞれ個別の特殊な効用しか産出していない。にもかかわらず、かかる個別性、特殊性は捨象され、単なる抽象的な社会的実体としてのみ彼の産出物は承認されている。そこであらゆる種類の効用に対して、抽象的な社会的実体としては同一であるとみなすことによって、社会的実体の量に照応して、これらを自己のものとする権利を有することになる。彼らは自分では全く手を下していない労働生産物をあたかも自已の生産物であるかのようにみなしている。彼らは自分の衣食住を自分の甲斐性で手に入れており、他人のお陰で手に入れたとは思っていない。衣食住を他人が生産したという事実は捨象されているわけである。

 彼らは他人と自己の区別を捨象し、同一の抽象的人間に自己を還元しているのである。各個人がこのような抽象的存在者であることによって、どの商品に対しても同等の抽象的な権利を有するものとなる。かくして自由な商品流通の論理が展開されうるのである。

 商品の本質としての価値は、抽象的人問が自己を労働生産物の形姿において示しているものであって、労働生産物となった抽象的人間の現存そのものである。従ってそれは純粋に人間関係であるとともに、労働生産物の物的関係でもある。ここでは、人間と物の抽象的対立及び区別は見事に止揚されているのである。

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