第6節 商品は人間の抽象的な現存である


 では労働生産物は私的労働の分業関係においてどのようなものとなるのか。人間はそこでは自己の労働生産物を他人の労働生産物と交換することによって、必要なものを入手しなければならない。その際、彼は自分が分業関係の中でどれだけの労働を分担したか、ひとりよがりに主張し、それを根拠に他人の労働生産物を勝手に自分のものとするわけにはいかないのだ。当然自己の労働生産物によって自己の労働量を示さなければならない。だから労働生産物は労働量を示す唯一の手段である。

 たしかにある社会において必要な有用物の量は決まっているし、それに要する労働量は生産力水準によって決定されているから、労働生産物は同一の人間労働の産物とみなすことによって特定の労働量を示すことができる。とはいえ、生産物自身は労働量を表示できないので、生産物間の交換比率の形で労働量を示すことになる。

 このようにして労働生産物は自己に内包する労働量を代表するものとなり、交換行為によって法則的に価値が実現する。その際、マルクスによれば、交換比率のもとになる価値は、あくまで同一の人間労働とみなされた社会的実体としての抽象的人間労働の凝結であり、物理的な対象性ではない。

 価値は自己を抽象的な人間の労働量として示しているのであり、その意味で価値は人間自身が自己の現存を示しているものである、従って労働生産物は価値としては人間の幾時間かの労働という抽象的現存に還帰しているのである。つまり労働主体は自已の価値を労働生産物のうちに対象化して示しているわけであって、労働生産物を自己自身の抽象的現存として取り戻しているわけである。

  労働生産物は具体的な効用であり、人間に対する自然的対象物である。それは人間の生命発現が豊かになればなるだけ多くの種類に岐れて豊富になっている。しかし、交換においてはそれは単に同一の人間労働の抽象的な発現に還元されて評価されるから、人間の労働の抽象的な姿を示すだけのものとなる。商品としては人間がどれだけの労働を抽象的に行っているのかを示すにすぎない。その意味では無差別であり、同一である。そこで物ではなく人間が問題になっているとマルクスは把え、本質においては物と物との関係ではなく、人間と人間の関係であるとみなしているわけである。しかし、この人間は実は物となった人間である。

 商品は本質において価値であり、それは実体としては抽象的人間労働の凝結である。各人の労働を同一の人間労働に抽象したもの、ただ量としてのみ把えられた労働、社会的な平均労働時間として表わされる労働が抽象的人間労働であるから、その凝結は人間の現存である労働の抽象的な一定量であり、その意味で抽象的な人間の現存である。だから商品は実体としては正に人間の抽象的現存である。ここから商品は人間であると言うことができる。しかし、商品は人間であって物でないというわけではない。そうではなくて、人間は自己の抽象的な現存を商品として示しているのであって、人間は自己を一定量の商品にすることによって、抽象的な現存を示し、社会に先ず商品としての自己の抽象的な現存を認めさせているのである。従って商品は物となった人間なのである。

 

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