第5節 効用としての労働生産物の本質

 人間実在しうるためには諸個人が自然的諸事物(他人も含めて)と総体的な関係を取り結ぷことが必要であり、この総体的な関連が社会である。かくして杜会も総体としては一つの事物である。人間社会という総体のもとで諸事物は社会的諸関係を自己の本質的規定として持つことになる。従って諸事物は、自然的な属性とともに社会的属性を自己のうちに持ち.互いに関係することになる。労働生産物が私的労働の分業関係のもとで持つ独特の社会的性格もこのような社会的属性の一つである。

 労働生産物は私的労働の分業関係のもとになければ人間にとっての有用物であるにとどまる。机、上着、自動車.パン、本等々は人間の有用物である。これらの有用物はその効用を自己の本質にしている。これらは人間を離れて観念的に実在しているのではなく、人間との関係において、人間にとっての効用として実在している。その意味では有用物は本質において人間に属している。人間に対する対象的性格のみを自己の本質規定にしているからである。しかしこれら有用物は人間の効用であるに
しても、あくまで身体から外的に存在し、そのことによって人間に対して対象的な存在となっている。それゆえ客観的な(客体的な)実在である。従ってその効用は有用物が発揮するのであって有用物に内属している。例えばカミソリの切れ味は人間がそれを使用することによって発揮されるものであっても、あくまでカミソリの能力である。床屋はそれを素人よりもより多く引き出す能力を持つにすぎない。
 ところで森信成氏は安部隆一氏の「使用価値=物」説を批判して、使用価値は人間にとって存在するにすぎないから物ではないとされる。(森信成著『史的唯物論の根本問題』」p.123〜152)例えば机は物でなく木やスチールが物であるとされる。これはレーニンが物質を「思惟から客観的に自立して存在しているもの」と規定したのを「人間から客観的に自立しているもの」と改釈したものである。事物はすべて相互に前提し合い、対立し合っているのであり、人間が創造した物はもちろん人間に属する物としての規定性を自己の本質にしている。そうでなければ人間が創造したものとは言えないだろう。とはいえ、それは人間との関係において立派に対象的に存立している物である。そのことは人間が日々これを使用していることによって確証されている。人間にとっては木やスチールが対象的な物なのではなくて、机が物なのである。机にとっても人間は自己を使用している物であり、人間に勉強するように仕向けているのである。

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