第4節 事物と関係の関係について

 価値や美(美を真・善などとともに価値に包摂することの当否はここでは問わない。ここで価値とは経済的価値、特に商品の本質としての価値である。)が自然的質料ではなく、事物の対象的性格であるという事情から.その客観的実在性を否定したり主観にとっての客観性(対象性)にすぎず、対象に内属しているように思念されるものにすぎないと考え、結局は主観的、或いは共同主観的なものであるとみなすことは、関係規定に対する不当な解釈である。

 現代唯物論は事物を対立物の統一として把える。それは神のごとき純粋に独立した自体的存在者を認めはしない。事物は互いに関係し合い、前提し合っている。しかし、そのことは関係を存在の第一義的性格として把えることを決して意味しない。また、現代唯物論は個物を総体的な連関の系の中に位置づけ、個物を諸関係の総体として把える。しかしだからといって、個物に対する諸関係の存在の第一義性を説く教説でもない。

 事物は関係する主体としては、主体としての相対的独立性を持っている。対立物の闘争、対立物の相互浸透、対立物の統一という唯物論の把握は事物を関係する主体として、主体性に力点を置いており、その点、事物を事態の諸契機の物象化的倒錯視による実体化として把え、事物の主体性を視圏に入れない事的世界観とは好対照を成している。従って唯物論における事物の相対的独立性は独立性が仮現であるという意味での相対性ではないのである。たしかにこの独立性は諸関係によって前提され、支えられた独立性であり、諸関係の変化によって独立性は侵され、崩壌する性格のものであり、関係の優越はその意味では首肯されうる。

 しかし主体に即して把え返せば、関係は自己の存立のための諸条件にすぎず、諸前提にすぎない。逆に自己の存立によって主体的に諸関係を自己のものとして取り結んでいるのであり、諸関係はかかる主体的な諸事物の相互関係であるにすぎず、連関であるにすぎない。その意味では、主体的な諸事物は諸関係の前提であり、関係に対する事物の優越性も承認されなければならない。関係の第一義性と共に事物の第一義性も共に承認するところに弁証法的唯物論の特色があるのであって、いずれかの優越性のみに偏寄ると、客観主義的偏向、主観主義的偏向を生じることになる。

 弁証法的唯物論は事物と関係を決して固定的に抽象的に対立させて把えたりはしない。それらは相互に移行しうるものであり、事物は内的矛盾としては対立物の統一としての関係であり、外的矛盾としてはこの関係が事物として主体となり、客体的事物と相対している。事物が実在するためには、それは関係規定を内的本質としなければならず、関係が実在するためには事物の内的本質として現出しなければならない。また、事物の内的規定はすべて関係規定でもあるが、関係は事物として主体的に把え返えされてはじめて関係するものとなりえる。関係はあくまで事物の関係であって、そのことは関係という立言そのものの内に既に主張されている。その意味では唯物論(ゆいぶつろん)は唯物論(ただものろん)である。しかし事物は正に規定性において措定されうるものとしては関係として把えられる。このことから帰結されるのが物質の階層性である。

 物質の階層性においては、事物は事物の関係として措定され、関係は総体としては事物である。かくしてあらゆる事物は自已を構成する諸事物の総体的な連関からなり、また、あらゆる事物は総体的な連関を取り結んでより大なる事物を構成する。かくしてマクロ的にもミクロ的にも悪無限的な物質の階層性を構成する。この物質の階層性の思想を形而上学とするなら、弁証法的唯物論も一個の形而上学であることを認めざるを得ない。

  廣松哲学はレアール、イデアールの意味成体の分析においてこの物質の階層性を取り扱い克服しようとしている。あらゆる物は質料としてはレアールであるとみなされるが、それが規定されるとイデアールな意味を持ち諸関係の函数的、機能的な役割を演じる。しかるにレァールな質科と見なされているものも実はイデアールな関係規定であり、レアール.ノデアールな意味成体である。例えば本はイデアールな関係規定であり、レアールには紙と活字である。紙もイデアールな関係規定であってレアールには繊維質である。繊維質もイデアールな関係規定であってレアールには蛋白質である。このように位階的な関係を一応認めている。

  しかしこのような物質の階層性は物を第一義的存在として把えない事的世界観にとっては暫定的な定言であって、物を実体化することから生じる倒錯視であるとされる。

 廣松氏にとって真に第一義的存在であるのは諸関係の総体、連関自体であって、事態そのものである。物はこの事態解釈の機能的、函数的な項の実体化であり、倒錯視的な了解にすぎない。従って物質の無限の階層性も物の実体化という倒錯視による論理的な要請にすぎない。

 もちろん物質の階層性の思想が実証的に追跡しうる物質の階層はマクロ的には星雲宇宙であり、ミクロ的には素粒子及び基礎粒子程度であり、それ以上は推論にすぎない。それぞれの限界においては場の理論その他で事態的に把える必要があるし、事態的な把握はあらゆる場面で一定の有効性を持っている。とはいえ、我々自身が身体として物体であること、我々が実践的に関係し合っている事物もまた、物体的存在として相互に対立し、作用し合っていること,このことは我々が日々実証していることであり、これを事態的に解釈し直したところで、諸物の主体的な関係論理を没主体的な、極端に客観主義的な、或いは恣意的なものにしてしまうだけである。我々が物体的な世界観を持たざるを得ないのは我々が身体として物体であるからで、環境世界と物と物との関係として対峙しているからに他ならない。物質の階層性もそこからの必然的な推論である。唯物論は人聞が自己を物として自覚するところに発する世界観であり、観念論はそのはかなさに対する自覚から発する世界観である。廣松哲学の画期点な意義は自已の物としての自覚を超克しえていることであり、決して我々凡人がなまはんかに追従できるような代物ではないのである。

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