第3節 美の客観的実在性について

 類似した議論が『文化評論』の誌上で十年程前に展開されたことがあった。「美の客観的実在性」に関する論争である。美は主観にあるのか対象にあるのかという議論である。現在手許には当時のものはないので、本格的にその論争を総括できないが、永井潔氏を批判する形で私見を叙述しておきたい。ただし本書の一部として展開するのはあくまで関係規定が内的規定でもあることの論証のためである。

 その際、最も活躍されたのが永井潔氏である。氏の説は『芸術論ノート』(新日本出版)にまとめられている。彼はある物を美しいと感じさせるものが内在している筈であり、だから美は客観的に実在するという単純素朴な考えを批判する。そのような考えは「人間は美しいと感ずる、ゆえに美は客観的に存在する」と言うことと同じであって美的感情を対象の性格に押しつける議論であると批判されるのである。

 永井氏は美は感情であり、愛や憎しみと同じであるから、美の客観的実在(美が対象に内在すること)は「愛は客観的に存在する」というのと同じように馬鹿げていると考えておられる。しかし永井氏のこの感情一般に還元する議論は非常に乱暴な混同である。何故なら、愛や憎しみは主観の対象に対する態度に伴っており、あくまで主観の心の様態を示している。愛しているのは主観であり対象ではない。ところが美しいのは主観ではなく対象なのである。美的感情はあくまで対象を美しいと感じることである。たしかに美しいと感じるのは感情であり、それは主観的な心の働きである。だから美をあくまで主観的なものと解し、対象に内在しないとすれば「バラは美しい」のではなく「バラは美しいと感じさせる」と言うべきであって、万人が言葉の使用を誤っていることになる。永井氏はたしかにそう考えられておられるようである。もちろん言葉の誤用も万人が共有すればそれなりの意志疎通になりうるのだから別段構わないのかもしれない。

 永井氏に対してバラは主観に美しいと感じさせる形象を備えていればこそ美的感情を喚起した筈だから、この形象はバラに内在する美的実体の筈で、やはり美はバラのうちに客観的に実在していると言えるではないかという反論が可能である。ところが永井氏にすればこの形象は実は対象に内在する形象ではなくて、主観が実践的に造り上げてきた形象的思惟であり、例えば「平たい」「正三角形」「対称性」等々という形象的観念であり、対象がこれらの形象的思惟を触発し、美的感情が喚起されるのだから、形象的思惟のうちに美的感情の心理的実質が存すると考えられておられるのである。 

 「美という概念は美的感情が対象(=認識)に与える心理的な実質として理解される時にのみ、正しい実際的な効用を持つであろう。美は美的感情と同義語的に使用されなければ実際的ではない。−−−(中略)美が美的感情を生むのではなく、美的感情がある種の形象を美と思いこむのだ。『美的なるもの』とは美的感情を満足させるもの以外ではない」(『前掲書』p.111) 

 もちろん氏のこのような美の概念規定が、美の客観的実在論を論破しうるものではないことは明らかである。たしかに形象の観念は実践の末、人間が平たいものや対称的なものを造形しえたときにやっと獲得したものであって、この造形によって得た満足感が美的感情を生み出したという歴史的経緯が仮に実証しえたとしても、形象的観念に照応する自然的形象は客観的に実在しているのである。たとえ人問の造形物であったとしても、自然の中に造形されたものであり、やはり客観的実在であり、対象になっている。それを美と感じる限り、やはり、美は対象に内在しているとしか言えない、美は対象の性格規定であるのに、美的感情という主観の心理と同一視するところに混乱のもとがあるのである。
 
 そこで彼は人間だけが美を感じるという事実に依拠する通俗的な議論も併用している。

 「美を物質的実在とみなせば、何ともつじつまのあわぬ奇妙なことがたくさん起きてくる。人間に関係のない、人間の外に、人間に意識されない「美」などという実在を想定することは、私には馬鹿ばかしい無意味に感じられるのである。人間のいないところで美があらわれたなどということは過去にも一度もなかったし、未来にもありえないだろうと私は思う。犬や猫が美を感じているとは思えない。それは美が客観的に実在し、人間のみでなく犬や猫にも平等に作用をなげかけているのに、ただ犬や猫がそれを知覚しないだけだといえるだろうか。」(同p.102)

 犬や猫に美的感覚がない以上、美が犬や猫に感知されないのは当然であり、犬が色盲だからと言って、光に色彩がないことにはならない。色彩は光の波長を実体として持っており、色彩感覚は光の波長を区別する感覚である。色彩は感覚であるから客観的な実在ではないと老える人もいる。しかし、対象を赤、青として措定する限り、赤、青は感覚による対象の性格づけ、区別であり、対象について言われている。光を出す、或いは光を反射する当の対象は光そのものではないとか、受光する感覚器や、光を伝える媒質等々によって異った色に見えるとかの諸条件は、色が客体に備っているということについて疑念を生じさせている。しかし特定の諸条件においてある物がある色に見えること、これが対象についての色別であり、対象の色による措定であること、対象は自己をその色に見させる何らかの性質を備えて、見る側に対していることは否定できない。色を感じるということは対象のこの性質を見ているのであって、対象が主観に対してこの性質を示すことを、特定の環境においてみているのである。

 特定の振動数の音は犬には聞えるが人間には聞えないこともありうる。永井氏の議論ではそのような音も客観的に実在しないことになってしまう。音についても音である限り、聴覚であって、客観的実在である空気の振動は音ではないと唱える人もいるだろう。しかし我々が聞いているのは特定の空気の振動であり、空気の振動を音として知覚しているのである。

 たしかに幻覚や幻聴、夢における知覚等を根拠に、知覚を感覚中枢における生理的作用に還元し、対象としての客観的実在についての知覚ではないと解することも可能である。しかし人間が知覚によって客体を知覚し、客体との相互作用を行うことによって生きていることは否定しえない。知覚を身体の実践的活動として把える限り、知覚が対象についての、客観的実在についての知覚であること、仮にそうでない場合があっても、対象との関係において成立する知覚はそうであることは否定しえない。

 人間だけが美を感受しうるという場合の人間は美的感受性を持った感覚主体として把え返されなければならない。宇宙人(正確には異星人)は地球人のような哺乳動物ではないだろうし、それが人間と呼ばれるのは知性的生物であるからである。このような異星人が美的感受性を持つことは充分考えられるし、優秀なロボットにも美的感受性が生じる可能性がある。

 美は優れて関係規定であって、美的なものが客観的に実在すれば、あらゆる主観に美と感じられるものではなく、逆に美的感受性さえあれば、いかなる客観的実在も美しいと感じられるものでもない。また、あらゆる美的実在が美的感受性のすべてに美と感じられるものでもない。対象的な関係を離れて議論すること自体無意味なのである。

 美は感情という次限で把えれば、確かに主観的なものであり、美は美的感情であるというのはその限りで説得力がある。また、対象と主観の関係の仕方とみなせば、美は関係であるとも言えよう。しかし美的感情を喚起する対象の作用に視点を移せば、対象の側に美的実体が内在していると考えることは少しも不自然ではない。要するに世界観的な了解の相異に根ざしたものであって、世界観そのものの当否が議論されるべきなのである。

 美をあくまで美的感情と考えられるならば、美的感情は対象に美が内在すると思い込む物象化的倒錯視と考えなけれぱならない。例えば、円は円でありて決して美ではないが、円を美と感じる人が円を美と思い込んでそうみなしているだけであると、しかし、このような議論は円に美を感じる人に円に美が実在しているという主張、円は美であるという主張を取り下げさせるのに何の役にも立たないだろう。何故なら、その人には円が美しいのであり、美しいのは自己の感情ではなくて、あくまで円であるからだ。美の起源や、美意識の生じる場所等々の議論は決して美の客観的実在性の素朴な確信を崩せるものではない。

 これは直接、永井氏の議論ではないが、美の客観的実在性に対する批判は次の形でも現われている。即ち、美が客観的に実在するという意味は、客観的に美として妥当するという意味である。その意味でなら、美には客観的な規準があり、人々は社会的に汎通している規準に拘束されて美を意識する以上、美は客観的に実在すると言ってよい。しかし決して美的実体が即ち美なのではなく、美として歴史的、社会的に妥当しているのであるという批判である。

 この議論は、同じ対象を見ても、歴史的、社会的関係によって美意識は異なるし、個人問の差もある。しかし歴史的、社会的なイデオロギ―的環境によって美意識が形成されるのだから、美的評価は一定の歴史的、社会的基準があるという事実に根ざしていて有力である。美意識をイデオロギーとして把えるこの視点の一定の有効性は否定しえない。特にこの議論は美意識の個人差による美の客観的実在性への懐疑をカバーしうる点で説得力を持っている。

 Aはバラを美しいと感じ、Bはバラを醜いと感じることは可能である。そのことはバラがそのものとして美しいのではなく、だからあくまでバラは一定の形象(芳香・感触も総合して)であるに止まり、即目的に美ではないことを示している。この形象はたしかにAにとっては美的形象であり、Bにとっては美的形象ではない。とすれば形象に美的性格を付与するのはあくまでAの美意識であり、従って美は主観的なものである。しかし、バラに対する美的評価は社会的に汎通的なものであるから、バラが美しいと感じるAの美意識には客観的な妥当性がある。多数のものがパラに美的形象を承認することによって、バラは美的形象であるという思念が妥当性を持ち、バラ自身が美であることが社会的に承認されている。その意味ではたしかに「バラは美しい。」或いは「バラが美しい。」のである。このような客観的妥当性による美の客観的実在性の承認の構造は、廣松氏の物象化的倒錯視による価値の事物への内在の論理と同じである。

 このようなイデオロギーとしての美意識の把握にもとづく美の客観的実在に対する批判に対しても、反論は可能である。たとえ美意識が社会的、歴史的な関係によって規制された意識であっても、それはそのような意識であることの説明にすぎず、やはり美意識が対象的な意識であることは少しも否定されていないのだから、美的対象が美であること、或いは美を内在することは少しも否定できない。また、同一の美的対象がAに働きかければ美的感情を、Bに働きかければ反対の感情を引き起したとしても、Aに関する限り、美であることはたしかだから、その美は美的対象の側にあると言える。Bにはその感受性が欠けているだけである。

 美が対象と意識との個別的な関係において成立するものであるという事実は、美意識がいかに社会的な規準に左右されるか、また、社会的な規準に媒介されるかという舞台装置を背景に持っていたとしても、否定しえない事実である。なぜなら、このバラとこの人との特個的な関係において美を感知するからである。バラであるこの花に触発されて、バラは美しいという教養が想い起こされ、この教養に刺激されて美的感情が生起したという評論家的な説明はAがこの花に美を見い出したという事実を、美しいのはバラであって、バラに関する教養的な美的形象の観念ではないという事実を否定しうるものではないからだ。もちろんAの意識aをA als〈A〉の意識a als〈a〉として把える廣松氏の哲学では、Aは社会人として〈A〉であり、その意識も社会的意識として〈a〉としての個別的意識にすぎず、Aに内在する個別的意識とは区別がつかず、社会的意識がaとして表出されているにすぎないと考える。

 廣松哲学においては主・客図式そのものが物象化的倒錯視に基づくのであり、対象(客体としての)に美が内属するという立論自身が倒錯視的な妥当性しか持ちえないことになっている。我々は言うところの共同主観的な意識を共通的意識のレベルで把えており、Aの美意識と社会的美意識の同一性は特定の社会関係における諸個人の意識の共通性であると考えるから、Aの意識の個別性は確保しうると考える。また、主・客図式を倒錯視ではないと考える我々は、Aと美的対象の特個的対象関係をあく
まで堅持する。この点に関する廣松哲学との本格的対決はここでの課題ではない。

  Aがこのバラを美しいと感じ、Bが醜いと感じたということは美的感覚の優劣を決めるものではない。このバラに美を感じるAの美的感覚は大変凡庸であって、このバラの醜さを喝破するBの美的感覚の方がはるかに鋭いのかもしれない。しかしバラの形象はAにとってはやはり美的形象であり、しかも客観的に、対象的に実在する美的形象である。

 ところでAは美意識でこのバラを美と感じたが、Bは感じない、ということは実はバラが単なる形象であり、Aが勝手に自己の美意識からこの形象を美的形象としたのではないか、あくまで美を付与したのはAの感覚ではないかという疑念が生じる。客観的な対象は同一である場合、Bはこのバラを写実的に観察して、シミや汚れ、しおれを見抜き醜いと感じたかもしれないし、Aは想像力を補って美的形象に仕立てあげたかもしれない。その場合、Aはバラの形象に美的性格を付与したと言えるだろう。しかしこのバラを美しいと思い込んでいる限り、その美の要素がバラにあることには違いないのだから、美しいのはバラの方である。

  つまり、このバラはAの描く美的形象の素材、一部、構成要素として役立っている以上、美的実在を形成しているのである。同様にA、Bが写実的にみていてなおかつA、Bの見解が岐れる場合は、このバラはそれ自身でAにとっては美的形象であり、Bにとってはそうではない。しかしBにとってそうでないということはAにとってそうであることを否定する根拠にはならないから、Aとの対象関係においてこのバラが美的形象であることは、だれも否定できない。美が特個的な対象関係において成立する関係規定であることを見忘れるから、混乱が生じるのである。美は、受動的な感覚によって生じる意識である以上、対象に美的性格を主観から付与するというのは背理であり、幻想や想像力の次限で問題になるだけである。

 ところで永井氏は「美の他在を信じてその本質をつきとめようとした歴史上の人々は、理論家であろうと芸術家であろうとことごとく失敗した。」(同p.111)と述べている。万人に共通する美の規準を求めようとすれぱ必然的に失敗することは私も否定しない。しかし美の実体は調和、均斉、和含、流動、乱調、均衡、比例、幽玄、もののあわれ、等々として見出され、立派に創出することに成功し、共感を与え続けている。これらは対象の内にあって、我々は対象のうちにそれらを見出し、「これこそが美」であると感嘆しているのである。

 ところが永井氏は「合目的な構成の表象が美しいということと、合目的構成を美と命名することとは別のことである。ミニスカートが美しいと感じたからといって、美とはミニスカートである、などといえるはずがない。」(p.110)と言われる。美とはミニスカートであると美を定義する人は恐らくいないが、ミニスカートに美があると感じる人は多いし、ミニスカートをはいた女性を美しいと感じる人や、ミニスカートをはいた女性の中に美を発見する人は多いのである。たしかに美的実体が美であるのだが、それは非対象的な即自的な性格において美であるのではなく、あくまで美的感党を触発する限りで、対象的な、対他的な性格に
おいて美なのである。美的実体が美であると言うと、形象は形象であって美ではないという反論がすぐに返って来るが、これは即自的性格と対象的性格の区別を見忘れているからなのである。美的実体はナルシストではない。美を感じる者に対して美なのである。

 客観的妥当説を含めて美の主観性に固執する議論は、美を主観のうちにある美的世界とみなしており、形象が主観の中で美的形象に転化して美意識を構成するという構図になっている。だからあくまで対象は美的世界の外にあって外的に刺激を与えるにすぎず、美はあくまで主観内の美的世界での出来事なのである。だからこのバラを美しいと感じるのは、このバラが主観内でのバラについての美的形象観念に一致した場合であり、美しいのはこのバラではなく、バラについての美的形象観念であるということになる。もし、主観がある美的形象観念を持っていなければ外的対象は働きかけることはできず、従って美的感情は生じ
ない。主観の美的形象観念は社会的、歴史的環境から存在被拘束性によって与えられ、陶冶され、訓練され、形成されたものである。従って美的世界は間主観的な被造物であって、美の客観的妥当性の根拠はその形成過程にある人々はバラが美であると感じるように訓練されてきたから、バラに美が内在すると思い込むのであって、実際はバラは主観の美的世界に与んる外的刺激にすぎない。永井氏は主観内の意識は総て客体の反映でなければならないという反映論の教条主義解釈を批判して、美は
客観的実在ではないとされる。

 主観が個人的主観であろうと、共同主観的に形成されたものであろうと主観であることは否定しえない。美的形象観念があって美が感受されるという議論は、実は形象観念があって形象が知覚されるというのと同じ議論である。もちろん形象観念が共同主観的な形成物であることは言うまでもない。我々は様々な形象観念を持っており、対象の形象を形象観念によって把えている。もし形象観念が訓練され豊富でなけれぱ対象の形象を的確に把えることは困難である。しかしこの形象観念は先天的なものでなく、後天的に培われたものであり、対象との実践的関係によって対象から学びとり、教養化されたものである。従って形象観念が客観世界の形象の反映であることは否定できない。

 自然物が形象を構成していることは、視覚に映ずる自然物が様々な形象をしていることからわかる。太陽や月が丸いとか、水滴が球形であるとか、湖面が平面であるとか、これらは形象はあくまで自然物の形象であり、対象の形象である。人間が造形した形象もやはり自然物として客体化して実在している。もし自然に形象がないならば我々は観念の中だけで形象をつくり上げることは不可能であった筈である。
 ある形象を美しいと感じるのも、美的形象観念が主観にあって、それに照応するものが対象として見出されるからと決めつけるのは誤っている。平面が美しいのは湖面が美を感じさせたり、磨かれた石器が美を感じさせたりしたからであって、平面を美的形象とするから湖面が美しいのではなく、湖面が美しいから、平面をその実体として美的形象として見出したのである。彫刻家が自已
の観念の中に美的形象を構成していても、それが本当に美的形象なのかどうかは自然物として対象化した造形物の形象が美を感じさせてはじめてわかることである。だから美的形象はあくまで客観的な実在であり、美しいのは客観的に実在する火的形象であって、又的形象観念ではない。
 美意識は洗練されるものであり、種の教養である。しかし美に対するこの感受性はあくまで対象の中に美的形象を見出す能力であって、対象に美的形象がないのに美を見出せるものではない。バラに美がないのに多数の人間がパラを見て美を感じる訓練を行える筈はないのである。
 美意識が人間の対象に対する心理であり、美の起源は人間の形象に対する心理の分析によってのみ解明され得るという事情そのものは決して、美が対象の側に実在することを否定するに足る証拠にはならない。美が主観的内面的、感情的性格を持つということは美意識としては自明である。美の実在性について問題なのは、何故対象が美と感じられるかではなくて、何が、対象の中にある何が美として措定されているのかである。美意識の起源その他については稿を改めて論じることにし、価値の問題に戻ることにする。

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