第2節 関係規定としての価値

 「価値」とは何か、この言葉は日本語および中国語では「価(あたい)」「値(ね)」の合成によって出来ている以上、語源的には「価格」と同義と孝えられる。ラテン語の「axios」もそのような意味であったと考えられる。(岩波講座『哲学―価値』p.27)しかし「value」はラテン語の「valere(強い)」から来た言葉であり、支配力の大きさを意味するところから支配労働価値的なニュアンスや重要性を意味する言葉となつたと考えられる。「Wert」については御教示を仰ぎたい。これから察するに価値は経済的にはある商品が他の商品のどれだけに当たるかを指示していると考えられる。その意味では確かに関係規定である。廣松氏にすれぱ、関係規定であるから内在していることはありえないことになるが、私からみれば関係規定であるが故に内在的な規定、あるいはそのものの規定でなければならないと考える。語源的に価値は交換価値であるが、価値は交換価値を示す根拠として商品に内在しているものとして把え返され、その実体として凝結した労働量が措定されている。それが古典経済学の成果である。関係の根拠は関係するものに内在しているものとして求められなればならないのである。

 廣松氏は重量について「当該の物体と地球との間の引力、厳密に言えば、宇宙の全物体との間の万有引力という関係的な規定性であり、自存的な実体ではない。」(p.178)と述べている。しかしだからと言ってもし諸物に質量が内在していなければ引力が生じないわけで、重量関係は内在している質量の相対的表現であることは認めないわけにはいかない。価値関係においても同断で、20エルレのリンネルが一着の上着と等価である以上、双方には共通のものが内在していなければならず、これが価値である。この等価関係はたしかに厳密に言えばリンネル、上着間で決定されるものではなく、全社会的な生産諸関係の諸事情を反映したものである。しかし、絶対的な意味で自存的な実体ではないということは、相対的な意味でそうであるということを決して排除できるものではない。物体の重量はその物体と地球との質量比で算定しうるのであり、宇宙の全物体を捨象してもかまわないし、捨象してはじめて算出可能なのである。

 二種商品間の交換が総社会的な商品の総体的関係に前提されていても、価値関係の原基的なアトミックな関係をそこから抽出し、その複合として社会的諸関連を展開することなしに、社会関係を正しく把えることはできない。

  もっとも経済的価値の意味を「抽象的人間労働の凝結物」と解するのは誤りである。「抽象的人間労働の凝結」はあくまで価値の実体であり、価値の意味ではない。意味としては価値はある物がどれだけの他のものに相当するかを示しており、ある物の価値はそれに相当する他のものの量によって示される。しかしそれは価値が内在していることを示しているのである。

 関係規定が事物に内在しうるか否かは実は水掛け論に終る。世界観的な了解の次元をはっきり異にしているからである。物体的世界観からみれば関係はあくまで物と物との関係であり、物は関係規定の総和を自己の内的規定にすることによって対象的な実在となっている。事的世界観からみれば物は事態の契機を物象化的倒錯視によって実体化、自存化したものにすぎないから、関係規定が内的規定とみなされること自体、物象化的倒錯視の特色なのである。

 例えば石をつかんで固いと感じる。では固さはどこにあるのか。固さは手の感覚であり、感覚に属するという感覚論はそれなりの説得力を持っている。しかし固さは手と石の関係において生じる感覚である以上、手と石の関係であると考えることもできる。また、固いという限り、手と石の密度の相異に対する知覚であり、相対的に手が石より密度が薄いところから固く感じる以上、より固いのは石の側であり、固さは石の密度の手による相対的表現だと考えることができる。その意味では固さは石に内属している。感覚主義、関係主義(事的世界観)、唯物論の世界観の相異がこれらの見解の相違となって現われているのである。

 

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