第三章 「価値」とは何か、その存在性格

           
第1節 商品の「価値」とその判断


  私は抽象的人間労働の実体性を証明することによって廣松説を崩そうとしてきた。しかしそれも、それが凝結した「価値」がそもそも実体性を持たなければ議論は総て水泡に帰することになる。価値は評価によって存在が承認されるものであって、目に見えるような自然物の形姿ではない。価値が目に見えるのはそれが既に評価されたものである場合だけである。(価値が見えるかどうかは後に詳論したい。)そこで価値は評価によって形成されるものであり、評価対象自体に先在的に内在しているものではないという主観的価値論と、評価される以上、評価される対象にそれに対応する性格が内在している筈だという客観的価値論の対立が生じる。

 廣松氏によれば、経済的価値は市場において形成されるから、人々が共同で形成するものであり、いわゆる間主観的に一致したものである。人々はそれが一定の価値で客観的に通用するところから、その価値が客観的に内在しているかに思念する。しかしそのことが実際に価値が内在していることの証明には実はならない筈で、そう考えることが客観的な妥当性を持つにすぎない。では間主観的に価値判断が一致する根拠は何か、廣松氏はこのように論述を進め、「いかなる価値判断が間主観的に一致して存立するかは、歴史的、社会的な具体的諸条件によって定まる。それは個々の判断主観と客体との一対一対応の関係で定まるのではなく、総社会的な諸条件の屈折的媒介によって定まるのであって、この意味で、それは総社会的な諸関係の一結節というべきである」(『哲学』p.195)と結論する。

 この議論は一応もっともな議論である。価値評価する人々の意識を対象として分析すれば、たしかに氏の立論は説得力がある。実際、価格形成するのは人々の交換の繰り返しであって、その都度、評価しているのは人々の意識であり、これらが間主観的に一致して決定されていき、人々はそれを客観的に妥当すると認め、かくしてそれがその商品に内在する価値と一致すると思念する。しかし、それは決して価値内在の証明とはならない。というのは単にそれは人々がそう考えて一致したにすぎないし、それを強制したのは必ずしも当該の商品だけでなく、杜会的な諸条件によって媒介されたものである。

 これに対して我々はでは何故、その商品が総社会的な諸関係の一結節となり得たのか、それは社会的実体としての抽象的人間労働を凝結しているからではないか。その凝結している姿が生産物に現われているものとみなしてはじめて人々はそれを価値評価するのだし、間主観的な一致が生じる必然性があるのではないか。だからこそマルクスは抽象的人間労働の凝結が価値の実体だと言っているのではないか。と反論できる。

 しかし、廣松氏は価値評価の主体を人々に認めるのだったら、その原因を当該の商品とそこに凝結している労働との一対一対応に帰するのは不当であり、人々が取り結びそこから拘束されている総社会的な諸関連から把え直すべきであり、あくまで人々の機能的関連から把え直すべきであると反論されるだろう。その際、氏が念頭におかれているのは、既に論じた〈もう一つ再生産に必要な労働時間がその商品の価値を決定する。〉というさわりである。それについての再論は不必要だが、価値はたとえ内在しているとしても、それを表示しているわけではないから、どうして人々を間主観的な一致に導くことができるのか論証が必要であろう。

 先ず商品は具体的有用物の姿をとるから、同一品質の同一種類の商品の価値は同じであり、それは同一の人間労働の同一量の凝結であるとみなされる。これは既述したように、主観的な労働時間が実はこれだけの労働時間であったことを平均的な必要労働時間で示しているのであり、決して異なる労働時間を同一労働時間とみなしているわけではない。みかけの労働時間が実の労働時間に還元されているのである。

 次に異種類の有用物が等置される場合の価値評価の問題に移ろう人々は二十エルレのリンネルは一着の上着と等価だと評価が一致したとする。この評価の一致は果して二十エルレのリンネルの労働時間と上着一着の労働時間が一致していることを証明しうるのかが問題である。

 もし二十エルレのリンネルの本当の労働時間が上着一着のそれより多いのに等価とみなされたとすれば、リンネル生産者はリンネル生産に不利を感じる。というのはリンネル生産者は自己の労働時間をリンネルにだけ費やしているのだから、他の必需品をつくる労働を他人にまかせなければならず、リンネルが労働時間を少なく評価されれば、他人以上に長時間働かなければならないはめになる。そのような不利から逃れるためにはリンネルをより高く売るか、リンネル生産を他の商品の生産に切り替えるか、リンネル生産の時間を凝縮して上着との等労働時間に近づけるかしなければならない。このように等労働時間へ近づける努力がリンネル生産者の側からなされることになる。 逆に上着の生産者は有利を感じ、より多くのリンネルと取り替えようとし、それに対してリンネルは売り惜しみをするから、結局、等労働時間に落ち着くことになる。むろん、リンネルの労働時間が上着より少なくて済む場合も、同様に等労働にしようとする力が働くのであるから、たとえ商品に労働時間が表示されていなくても、等価交換へ市場を導く力が、商品に内包されている労働時間である価値には備っているのである。

  だから、間主観的に一致した人々の価値評価としての価格は、常にその商品に内在する価値と一致しているのではなく、一致するように法則的に上下させられるのである。間主観的に一致しているのは価値そのものではなくて、価値の間主観的な評価であり、価値判断にすぎず、判断される当の価値は商品の側に内在しているのである。客観的妥当性、客体に内在しているように間主観的に思念されているもの等を廣松氏は価値と考えておられるが、それは実は価格であって価値ではない。あくまで価値と思われているものにすぎない。価格には売手が主張する定価、売り手と買い手間で協約される売価、市場で間主観的に一致する相場(市場価格)等があり、これらは日々、刻々変動するが、価値自身も変動しており、変動しているかどうかが価値と価格の区別ではない。廣松氏の議論では価値と価格の区別はきわめてあいまいにならざるを得ない。

  しかしそれでは価値は形而上学的な実体ではないか、そんな価値などどこにもないではないか、見せれるものなら見せて欲しいものだと反論されるだろう。そのうえ既述した議論、価値が抽象的人間労働の凝結であるならば固定している筈であり、変動するのはおかしいとか、価値が不等価の際、等価にしようとする努力は生産者が行うのならば、それこそ生産者の間の機能的な関係であることを意味するにすぎず、別段、凝結していることの証明にはならないとかのそれこそ水掛け論になりかねない反論が次々出て来るに違いない。

  凝結していることの論証は既に行っている。労働は対象化され、凝固するということは第一章で論証したし、抽象的人間労働のレアールな存在も第二章で議論されている。生産者間の機能的な関係は、労働量が商品の量的比として顕示され、商品が体化して表出してこそ可能なのであるから、凝結は前提である。価値内在は論決済みであって、それがいかに人々に判断されるかが問題であった。残された問題は「価値」とは何か、またその存在性格はいかなるものかという議論である。

 

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