第13節 価値と価値意識

 価値とは私的な社会的支配力としての労働主体とその労働生産物の存在性格である。労働主体も生産物も価値存在としてともに〈商品=人間〉である。従って価値は〈人間=商品〉として実在するものであり、その根本的、第一義的な規定性である。これに対して価値意識は価値の自己意識であって価値とは区別されなければならない。主観的、或いは共同主観的に形成されるのは価値意識であって価値自身ではない。

 価値は意識としては価値意識によって措定されるが、決して自己自身にそのまま忠実に措定されるのではない。何故なら、商品としての人間は必ずしも自己の本質としての商品価値を肯定的にのみ把えているとは限らず、かえって自已を否定的に把え返し、価値を価値なきものとして否認することさえあえてできるからである。というのは人間は経済的価値追求の悪無限やはかなさをいやという程体験させられているからで、かえって真無限としての神や、かけがえのない愛情関係、真善美などを真の価値として措定し、経済的価値を低位の価値、真の価値のための手段、或いは必要悪、さらには偽価値として措定する者もいるからである。

 このように価値は一見、主観的、恣意的なもの、或いは共同主観的形成物として汎通するが、かかる価値判断を下す主体としての人間の存在性格が価値なのであり、人間は価値存在としては商品なのである。したがってあらゆる価値意識は経済的価値を士台にして、それを直接あるいは間接に反映しており、それに対して肯定的あるいは否定的対抗的に価値を措定するのである。

 価値概念を抽象的に規定する際、このような士台と上部構造の複雑な反映関係を無視して、無理やりに一般的意味を導出すると欲求充足手段とか、効用とかになるようである。ところがこれでは物的な社会的支配力という経済的価値にも、精神的諸価値の深遠な意味にも棹さすことはできない。価値は元来、経済的価値を意味していたと考えられるが、精神的価値は経済的価値における価値の意味(交換価値、他の効用に対する支配力)を否定して、新たな価値の意味を形成しているのである。二義的なものを一義に統一したところで二義性が見失われてかえって価値が何であるかは理解できなくなるだけである。この価値の二義性の構造を価値存在としての人間自身の分析を通して明らかにすべきなのである。この仕事は『人間学的商品論』(『資本論の人間観の限界』参照)に譲ることにしよう。従って本稿では一応経済的価値だけを取り扱うことにする。

 

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