第12節 存在性格としての価値

 価値の存在性格を論ずる以前に、価値が一つの存在性格であることに注目すべきである。リンネル・上着は社会的な物的支配力としての価値を有するものであり、従ってリンネル、上着は価値としての存在であり、価値はリンネル、上着の存在性格である。価値が自然的質料か観念的主観的なものか、共同主観的なものかという問自身に問題があるのだ。

 存在するものには、それが実体を持つかどうかを度外視すれば、物質的なものもあれば、観念的なものもあり、感情的なものもあるだろう。たとえば神は物質的な存在ではないが、観念として存在している。丸い四角形は観念としても表象できないが、言葉としてだけなら存在できる。そして、存在するものがいかなる存在者の連関を形成し、その中でどのような役割を担い、どのような契機となって他の存在者に影響を与えるかによって、その存在性格が決まってくる。例えば美はバラという花であってもよいし、やさしさという感情であってもよいだろう。

 価値自身、神、真蓋美、愛、効用、交換価値などを有する様々な存在するものにこの呼び名が与えられているのも、価値が存在性格であることを示しているのである。自然物質の存在性格にも触媒、還元剤、電導体、絶縁体等々が挙げられる。このように存在性格として把えれば、リンネル、上着がそのものとしては価値ではないという議論そのものが的を得たものでないことが明瞭になる。

 ただそれでは価値が商品に含まれている、内包されていると言うのも的を得ていないのではないかという疑問が生じるかもしれない。たしかに含まれているとか、内包されているという立言自身、全体に対する部分の形成を連想されるとすれば正確な表現ではないだろう。しかし或る商品体がどれだけの社会的な物的支配力を持つかが考察の対象なのだから、その商品体が持っている価値量をその商品体に含まれている価値量と把握することは、あながち比喩的表現とは言えないだろう。

 労働生産物が価値としての存在性格を持つということは、労働生産物が人間の社会的支配力の現存となっていることである。かくして労働生産物は商品としては人間としての性格を持っているのである。従って、価値としての存在性格は労働生産物にとって、自己が商品社会の中で現存するための第一義的な前提であり、決して単に一つの属性でしかないのではない。だから商品社会としての人間社会の構成物である限りにおいて、すべての構成物は、第一義的には価値存在でなければならないのである。かくしてはじめて価値の存在性格を次のごとく規定することができる。

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