第11章 価値の実体性

 価値が他商品に対する社会的な物的支配力を意味し、実体としては総労働に対する商品に凝結された抽象的人間労働の量的割合である以上、価値は個別的な商品が自立的に自分だけで示しうるものでないことは自明である。そこで他商品との価値関係に入り、価値形態をとることによって、他商品に自己の価値を映し出さなけれぱならない。価値や抽象的人間労働が優れて関係規定であるのは、このためである。

 論理的順序を考えると、商品が価値を有し、抽象的人間労働が凝結していることが価値関係、価値形態の前提である。とはいえ、価値関係なしに価値内在は証明されない。そこで廣松氏は価値関係を第一義的に考え、価値関係から、生産物が商品とみなされ、そこに価値が内在しているように扱われて、労働の凝結が立言されるとされる。しかし価値関係が何故生じるのかを検討すれば、商品の価値内在を仮定せざるを得ない。

 廣松氏は観念的に私的労働に基づく分業社会の機能的概念として汎通しうる限りにおいて、価値観念の有効性のみを認めておられるが、そもそも私的労働の分業関係は私的所有を前提として持っており、私的所有は実は商品交換を前提している。従って私的労働はあくまで商品をつくる労働の言い換えにすぎない。氏は私的労働という用語を使う際、いかなる労働として表象されるのか具体的に展開されるべきである。私的労働に基づく分業社会は、商品生産と商品交換に基づく商品(人間とその労働生産物)間の交わりの形態以外の何物でもない。決して私的労働という概念から商品関係を演緯したり、私的労働の概念から私的労働に基づく分業社会の機能的な関係を展開できるわけではないのである。

 廣松氏にあっては、規定性はあくまで共同主観的な形象であり、関係を示すだけであって、その物ではない。人間は身体であって、商品及び価値ではないし、リンネル商品はリンネルであって商品ではない。労働は具体的有用労働であって、抽象的人間労働などどこにもないのである。みな関係としてそうみられているだけであって、その物としてそうではないのである。ただそうみられていることによって、そのように取り扱われ、妥当性を持っているから、関係規定がその物の実体的規定であるかのようにみなされているだけである。このように物と関係を故意に抽象的に分離したままに止めておいて、物は結局規定されたものでしかないから、すべて関係に還元しようという策略にのってはならない。

 あらゆる規定が関係規定であるということは我々も賛成なのである。しかしだから関係が第一義的存在だとして、物の実体性を関係に還元し、仮現とされることに我々はどうしても承服できないのである。私がある人と友人関係にあったとする。しかし友人関係によって、双方の実体性は仮現とされるだろうか、逆に友人関係によって私も私の友人も双方の実体性はたしかなものになる筈である。我々は様々な人間関係や対物関係によって自已の存立を確俣しているのだから。関係なしで存立しうるものなど何もないのだから、あらゆる規定は関係において成立しうるものであるし、ある物の規定が実は関係規定だと解ったところで、その規定がその物の実体的規定でなくなることは決してない。また、そのことは規定が共同主観的に発見されたかどうかということによって、その物の規定が実体的であることに決して影響を蒙むるものでもな。いということである。

 例えば鉛筆が素材としては木と黒鉛で造られていることが解り、人間との関係においてだけ鉛筆として共同主観的に措定されていると解ったところで、鉛筆は人間との関係においては立派に鉛筆として実在し、字を書く道具として実体的に存続し続けることに何ら変りはないのである。廣松氏がいくら実体概念についての古典的、スコラ的な意味についての教養が深いからといって、鉛筆が鉛筆としての実体を持っていることを決して現代的な意味では否定し得ない筈である。

 廣松氏があくまで完全に自存的なものという意味で実体概念を使われるなら、そんな物はどこにもないから、この世に実体的なものはないし、従って物そのものも実体ではない。たしかに事的世界観に立てば、そのような実体概念を使って物の実体性を否認しつくし、事に還元する方法をとられるのは当然かもしれない。しかし我々は関係を物の関係として、事を物の様態及び運動状態、対立物の闘争及ぴ統一としての事態として把えているのだから、実体概念もこのような物の把握に相応したものになっている。

 現代的な意味においては、実体は事物の本質の根拠であるとともに、本質を構成している実質として汎通している用語である。机が使用者の体に合った大きさで、堅固な平板と四本以上の脚を持っておれば、机は机としての実体を持っているのであり、実体的に存在しているのである。また、鉛筆で書かれた文字は書いた道具が鉛筆としての実体性を持つこと、鉛筆が実体的に存在していることを証明している。日々行われている商品交換行為は商品の実体性の証明になっている。商品が商品としての実体を持っているかどうかは交換されうるかどうかで判断されるのであって、実際に交換された商品は商品としての実体性を持っていたのである。

  そして商品交換が価値法則に適っているという事実が、価値の実在を証明しているのである。価値が商品の本質である以上、これを商品の本質たらしめている価値の根拠が価値実体である。それを古典経済学は労働一般として把え、マルクスはさらに抽象的人間労働として把え返した。マルクスがその際優れて関係規定として分析したという理解は廣松氏の卓見であって、大いに賛成である。しかし関係規定であることは、実は抽象的人間労働が価値の実体的な根拠であるということを支えているのであって、抽象的人間労働が単に共同主観的に思念されたものにすぎないことを意味するものでも、凝結という立言が暫定的であるということにもならないのである。

 廣松氏は商品、価値、抽象的人間労働が単に関係規定だけでなく、実体的な規定でもあるのなら、それを見せろと言われるに違いない。感覚的に見えるものは形象、濃淡、色相、大小、遠近、明暗等であって、各個物は反省を介して見ていると考えることもできよう。形象や色相なども共同主観的な形成物である形象観念や色彩感覚によって見ているとも言える。従って特定の個物を見る際に、見えているのは形状にすぎず、内的規定性ではないという受け取り方も成立しうる。例えば鉛筆が見えているのではなく、10cmぐらいの細長い六角柱が見えているだけで、それが鉛筆であるというのは知覚像に対する判断であって、知覚そのものではないという考えである。

 この考えは、知覚の発達を考察すれば説得力が無いことが分かる。赤子の視覚、特に誕生直後の視覚は、明暗以外には見えないが、次第に生活実践によって物の形象が把握されるようになる。とはいえ、はじめは視覚像の地中に同一濃淡部の移動、或いは同一色相部の移動等が識別される程度であり、いわば形象以前的な知覚である。それが生活体験の豊富化によって、形象を区別し、形象に対する対応を区別するようになる。しかし、形象が物として把えられるのは言語の習得によってであり、言語の習得には不充分なものであっても、規定内容についての共同主観的な了解が前提されている。言語の使用は物と形象との一対一対応を形成し、それによってある形象はある物の形象としてみられることになる。形象の知覚がそのまま物の知覚であり、その間に反省の時間をほとんど要しないのはそのためである。このように知覚は形象観念や言語による形象と物の一致によって物を形象として知覚するのである。形象も物の形象からの抽象に昂まることによってはじめて明確に意識されるのであるから、形象の知覚と物の知覚を区別するのはあまり意味のあることとは言えない。言語とそれに対応する物的形象観念なしでは我々は明瞭な知覚像を形成することは困難である。

 我々は机についての物的形象観念を持っており、机がありそうな場所においてこの観念に一致する形象に出合うと、その対象を机として直感する。この場合、見えているのは机の形象であって、木及びスチールという素材ではない。素材は机を検証する際にはじめて見えてくるものである。しかも、この机は関係規定である。従って関係規定が見えるものであることは確かである。

 もちろん価値は物的規定と同様に視覚にもたらされるものではない。机が価値であるのは交換されうる限りにおいてであり、机が交換されうるものであるという知見があってはじめて、机は価値であるとみなされる。ところで商品社会では机は商品価値を有することは既知のことであり、それは新製品であれ中古品であれ、多少なりとも認められるものである。だとすれば机は価値物であり、机をみることはそのまま価値を見ることになる。もちろん、どれだけの価値量であるかまで見たければ、それが他商品とどれだけの比率で交換されうるかを見なければならない。しかし、商品社会はほとんどの生産物を商品化しているのであるから、任意の労働生産物(労働力を含めて)を見ることが即ち価値を見ることである。

 我々は美を見るとき、美しい物を見ることによって美を見ているのであって、美しいものを見ても美を看取できない人はあわれである。価値を知る人間は商品を見ることによって商品を価値としてみれる人間である。

 商品は視覚に映ずる像としては効用であり価値ではない、価値は不可視なものであるという立場に固執するのは実は誤っている。効用が価値を持っていることが分っておれば、そのような効用として価値は目に映じているのであり、効用は価値の形姿である。

 抽象的人間労働も当然ながら目に見えるものである。その凝結した姿は商品となっており、商品をみることが即ち、抽象的人間労働を現在完了の形でみることであろ。三万円分に当たる抽象的人間労働を見たければ、この腕時計を見れば凝結した形で見ることができる。実際に稼動している状態で是非とも見たいと望むなら、時計工場に行けばよい。そこでは抽象的人間労働なのに、それが具体的有用労働という形で行われているから、よく見える筈である。

 目にしているものはすべて具体物であり、抽象的規定や関係規定でないと考えるのは憶見である。というのは具体物は抽象的規定や関係規定であることによってはじめて本当に見えるからである。廣松氏は価値として存在しているのはリンネルそのものではなくて、上着との関係であると言われるだろう。しかし目に見えているのはリンネルであり、上着であるのだから、やはり上着との関係にあるリンネルが、リンネルが価値として見えているのである。

 廣松氏にすれば、社会の全体的な関係からリンネル・上着の価値関係が存立するようにみられ、これが主観、客観的に見る見方によってリンネル、上着に価値が内包されているようにみなされているのだということになろう。しかし個々の商品関係が基礎になって、商品集成の社会が形成されており、リンネル、上着の価値関係は社会の前提である。リンネル・上着が価値関係に立つ根拠はそれを第一義的に商品として規定している事情である。つまり効用としての具体的規定を与えられる以前に、社会的な物的支配力でまずなければならないという事情である。

 もちろん商品が商品であるためには具体的効用でなければならない。しかし効用は商品が商品であるための条件である。従って商品における本質的契機は価値であり、効用はこの価値関係の中で価値がとる形姿にすぎない。

 人間は他人の労働を支配するために、自己の社会的支配力を物として提示しなければならず、社会に通用する一人前の抽象的人間労働を物として示すことによって労働量を客観的な物として示すのである。この事情から、そのような物は先ず商品であって、社会的な物的支配力としての価値物であり、効用はそれがとる具体的形姿にすぎない。商品は物的支配力を示しうるためにはそれだけの根拠を自己の内に内包していなければならず、それが抽象的人問労働の凝結量である。仮にこの内包が仮現にすぎないなら、何故、社会的な物的支配力を示し得るのか不可解である。だから、価値は価値関係において成立するにしても、それぞれの商品が価値物である。

 もちろん、価値は自然的質料として商品体の一部分を構成するような意味での存在ではない。かと言ってリンネルや上着が価値ではなく、そう共同主観的にみなされるといった性格の存在でもない。たしかに価値は共同主観的に承認されることによって実現するとしても、やはり商品体としてのリンネル、上着が価値であることには変りはない。マルクスは価値をあくまで商品体に凝結された抽象的人間労働と考え、商品体そのもの、即ちリンネル、上着は価値ではないと考えていたようである。彼の商品の物神性論にはそのような見方が現われている。しかしひとたび凝結された労働は商品体に化成したのであり、価値が商品体と別物であるという論理には無理がある。抽象的人間労働はたとえ凝結してもあくまで人間であり、商品体は物であるから、物と人間が別物である限り、商品体と価値は区別されなければならないという固定観念、即ち、物と人間の抽象的区別への固執が災いしているのである。では価値はいかなる存在性格なのか。

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