第3節 価値的諸関係の「四肢的」存立構造と関係規定

                a、交換において商品所持者が捨象される意味

 本章、第1節・第2節で廣松氏が宇野学派に同調して商品所持者を登場させたり、単純な価値形態に一方的な前提として展開された価値形態を置いたりすることに批判を加えておいたのは、それらが廣松氏が抽象的人間労働を氏独自の仕方で論ずる際に不可欠な道具立てになっていたからである。本節ではこれらの誤った枠組を使って氏がいかに抽象的人間労働を把握され、「価値形熊」の対自、対他的四肢構造とやらを組立てられるかを拝見し、私見を対置することにしよう。

 マルクスは第一、二節で二種商品が交換される根拠を分析し、そこで価値を、さらには抽象的人間労働を析出した。第三節はそれを承けて、では商品自身がいかなる仕方で関係し、自己の価値を確証し、抽象的人間労働の凝結物として互いに労働を交換するのかを展開している。従ってマルクスにあっては、価値の内包、抽象的人間労働の凝結は、価値形態論を論ずる際には既に前提されていたものであって、それがいかに商品自身に反省されるかが問題意識であった。

  廣松氏は第一、二節では抽象的人間労働は単に生理学的労働力能の支出としてしか、即ち実体主義的な規定としてしか積極的には論述されておらず、社会的な関係規定としては第三節をまって展開されることになるとされる。第一、二節における「社会的実体」の結晶という立言は単に伏線にすぎないと見られるわけだ。

    第一、二節において抽象的人間労働が析出される根拠は商品交換関係において(即ち社会関係としての交換において)、具体的有用労働が同一の人間労働に還元されて、社会的に把え返えされることにある。そのことによって抽象的人間労働とされるのだから、この抽象的人間労働は社会的実体の措定であり、また、抽象的人間労働は社会的実体として把え返えされた労働である。かくして抽象化された人間労働の共通性として生理学的労働力能の支出という規定が導出されたのである。従って廣松氏が強調されるような、実体主義的な規定を先ず与えておいて、後に関係規定から把え直しているという把握は重点としては正しいかもしれないが、第一、二節が商品関係を分析的に解明しているのに対して、第三節が商品自身に即して関係論理を把え返しているという論理的な考察次元の差異を考慮されるならばその一面性に気付かれるだろう。

 第一、二節を読めば明らかだが、抽象的人間労働というのは交換を前提すれば必然的に導出されるものであって、マルクス自身の抽象的思惟への反映である。ところが廣松氏はこれを仮言とされるのだから、価値・抽象的人間労働は特定の社会関係において物神崇拝的な意識に生ずる幽霊のようなものでなければならず、価値形態論にお呼びでない商品所持者をわざわざ登場させてその意識に対自化させようと試みられるわけである。

 もっとも、廣松氏が展開される「〈価値形態〉の対自対他的四肢構造」の論述自体は実に素晴しい切れ味であって、いつもながら氏の学才には感服させられる次第ではある。論理展開の見事さ、おもしろさに魅惑されてつい無自覚のうちに同化させられてしまうような魔力を廣松氏は持っておられるようで、氏が頭脳明晰な学生達に入気を博するのもよく理解できる。

 価値形態論における最大の論争点の一つは、いわゆる「廻り道」の論理をいかに解するかであった。単純な価値形態において相対的価値形態であるリンネルが上着を自已の等価形態、即ち価値鏡とする論理である。廣松氏はこれについてリンネル生産・所有者A、リンネル商品a、上着生産・所有者B、上着商品bの関係で説明される。

  「ところで、Aにとって相手Bはいかなる存在者であるのか?眼前にいるのはもとより自分と同様に具体的な人物である.しかし、当血の関係においてAが関心を寄せているのは、上着という物(使用価値物)なのであって、相手Bの人格的個性ではない。上着の生産、所有者でありさえすれば、相手の人格などどうでもよい。……(中略)、この意味では、AにとってはBは没個性的な人格、単に上着の生産・所有者というかぎりでの人物たるにすぎない。もちろん眼前のBが具体的な人物であることをやめるわけではない。正確にいえば、眼前の具体的な人物Bが、Aにとってfür sich単なる上着の生産・所有者と者いう没個性的な謂うなればdas Manとして(B als das Man)、二肢的二重性において眼前する」(『哲学』p.140)

 価値形態論は交換関係における商品に即した、商品自身の関係論理であって、決して商品所持者の関係論理ではないということ、つまり交換過程論ではないということは繰り返すまでもない。宇野学派の欠陥はこの相違に無頓着なことである。貨幣も価値形態論では価値形態としての貨幣形態であって、商品自身の価値形態の発展したものであり、商品自身にとって必要なものである。これに対して交換過程論での貨幣は商品所持者が商品交換を行う際に必要な貨幣商品である.貨幣を導出する際に商品所持者の交換行為を媒介した方がよく説明できるからといって価値形態に商品所持者を登場させるのは価値形態論における貨幣が貨幣形態という発達した価値形態であることの意味をよくのみ込めていないからである。もっともこれは廣松氏の議論ではないが。

 ところでこの廣松氏の論述は、生産物上着には上着生産者の個性は捨象されていることを把握している点で評価されるべきである。ピェール・カルダンの意匠による上着は、これと同品質の無名のデザイナーによる上着よりも商品価値が高いというのは確かにフェアーではない。上着そのものの値うちは上着の品質によって決まるべきである。つまり同品質の上着には等量の労働が凝結していると見なされるべきである。 

  しかるにAとBという人格的関係によっては、互いの人格に左右される危険が生じる。たとえ関心が商品にだけあるとしても交換相手が眼前し、自已に積極的に働きかけてくる以上、「相手の人格などどうでもよい」という訳にはいかなくなる。AはBの口車に乗せられるかもしれないし、Bの品格に接して、bの価値を見誤るかもしれない。Bを完全に無視しえるのはAではありえないのである。aとbの価値関係を純粋に問題にするのだったら、AやBは舞台裏に引っ込んでもらい、aとbを直接つき合わせて関係させるしかない。ところが廣松氏にとってそもそも価値はaやbに内在的なものではなく、bの価値はAに現われる意識であり、aの価値はBに現われる意識である。aとbの直接的関係からは決して価値は生じないのである。これに対して私は後で詳しく考察するが、価値は価値ありとする価値判断と同一ではない。ある物の価値は人によって様々でありうる、しかしそれらの判断した対象は一つであって、内在的なものである。価値は対象の側にあるのであって意識の側にあるのではないと考える。

 もちろん上着やリンネルに意志や意識があるわけではないから、直接関係すると言っても商品所持者の交換行為に媒介されていることは言うまでもない。しかしx量のa商品とy量のb商品を所持者に交換させる根拠はa商品とb商品に共通に内在しているものであり、結局は法則的には商品交換は等価交換として行われている。そこでは商品所持者が媒介することによって生じる不等価性は相殺されている。従って商品所持者の役割はa商品がb商品と等価交換を行うのを手伝っただけであり、客観的には交換は商品間の関係であったことになる。

  あくまでも商品交換行為を所持者の行為としか見なし得ないところに偏見がある。物は常に受動的でしかなく、主体的ではありえないというのは偏見である。価値を内在している商品の立場に立って、その主体的な関係行為として価値関係、商品交換を把え返して初めて、客観的に価値法則を定立し得るのである。だから商品所持者に交換行為に際して生起する知覚や判断は、商品自身の持つ効用や価値に導かれたものであり、それを代弁するものである。それ故、商品自身の関係行為として把え返す際には、それらは各商品が相手商品を知覚し、判断する助手である。例えばリンネルは相手を上着として知覚できないがリンネル所持者がリンネルを上着に関係させることによって、リンネルは所持者の知覚を我がものとし、上着を知覚することになる。リンネルが上着の価値を判断する際もやはり所持者の判断を自己の判断にすることになる。

  だとすればやはり所持者の知覚、判断が不可欠となり、それに左右されることになるではないか、それ故、商品所持者が価値形態論で重要な主体的役割を演じていることは否定できないのではないかと思われるかもしれない。たしかに現実の個々の交換は不等価交換であり商品所持者の知覚、判断によって行われている。しかし法則的に等価交換であるということは、商品所持者の知覚、判断を商品自身が規制し、支配しえていることを意味し、商品自身の知覚、判断となし得ていることを意味する。知覚、判断をあくまで所持者のものに固定してしまうと、商品所持者が法則的に捨象され、商品間の関係として客観的な価値法則が貫徹される事態を論理化できないのである。

  物と物の社会的関係は常に人間が媒介している。しかし物と物との関係として人間を捨象して把えることも必要であり有効である。車は道の上を走行する。車と道の関係は物と物との関係である。しかしこの関係は人が運転することによって助けられている。人の目は車の目の役割をし、人の手は車が道の上を走行するのを保障する。しかし、道の上を走行しているのは車自身であり、カーブするのも車自身である。道が車をカ-ブさせるのであり、車の大きさや性能が道幅や道の硬度などを決定する。それを媒介する人間はその際車と一体化し、車の一部になることによって、一応捨象されているのである。交通事故は人の手や目が車の手や目になりきれないことによって発生する。

 aはbを効用として把えるが、この効用は自已の価値を映す鏡でしかない。aとbは物理的関係にあるのではなくて、交換という社会的関係にあるのだから、aはbとの等価関係において、先ずbの価値を感知するのである。所持者Aの目がbを効用として把え、bの価値を感知しているとしても、Aの目や頭脳はAのものであるということを離れ、aのものとなっているということが、客観的、法則的には意味があるのであって、あくまでAのものでしかないなら、aとbの価値関係は措定できない。

 aはそれ自身抽象的人間労働が凝結された価値物なのだが、bに等置されていなければそれを自己の内容として未だ自覚できていない。ちょうどてんびんの片方に自己が乗っているだけでもう一方は空であるのと同様である。価値てんびんにbを乗せて、aは平衡を感知する。その時aが先ず感知するのは自己の価値ではなくてbの価値である。ちょうどシーソに相手が乗った時に感じるのは、自己の重さではなく相手の重さであるように。そして次にbにつり合う自已の重さを反照し、自覚することになる。もちろん価値てんびんという交換関係が前提され、実体的にa,bに労働が凝結していることが前提されている。それらを前提した上での自覚の論理が展開されているのである。

 aはこのようにbという有用物の具体的性格を捨象し、かくして平板で単に価値を写すだけの鏡にしてしまうのである。bはたしかに上着という有用物である。しかしこの有用物はそのままaの価値鏡である。aにとってbが上着という有用物である必要があるのは価値が有用物の有用性の捨象において成立する抽象概念であるからで、もしbが単に価値であるだけなら、aはその有用性を捨象することができず、従ってbを価値として措定できないからである。

              b、商品における人称性の捨象と抽象的人間労働

 廣松氏は、Bを抽象的人間として措定するのはAであるかのように立論されるが、即自的にbがBの労働を止揚して凝結していること自体がBの人称性の捨象なのである。もちろんb自体の有用性においては人称性は捨象されても労働の具体性は捨象されておらず、その意味では、上着は裁縫によって造られ、裁縫労働の主体たるBの具体性も又、保存されている。Bは差し当り上着製作者という次限での抽象的人間でしかない。しかし、価値関係によってbは単なる価値鏡とされることによって、bの有用性とともに、その労働の具体性も捨象されるから、Bの人格も完全に抽象化され抽象的人間にされるのである。従って抽象的人間労働はこのような抽象的人間の労働である。廣松氏も抽象的人間労働を抽象的人間の労働として把握されておられる。抽象的人間労働は単に論理的な抽象にすぎないのではなく、現実の生きた抽象を繰り返す中で、人間が抽象的人間として存在せざるを得ない事態を労働に反映しているものなのである。この事態を追求している廣松氏は高く評価されてしかるべきである。(『哲学』第七節)

  残念な事に廣松氏は抽象的人間の労働という視点を持ちながらも、これを実体的に凝結するものとは見なそうとはされない。抽象的人間がAals〈A〉、Bals〈B〉としてとして措定されながら、その労働が生産物に価値性格を付与する事態をあくまで仮現としての枠にとどめようとされている。

 又、廣松氏にあってはAals〈A〉、Bals〈B〉、つまり抽象的人間としての〈A〉、あるいは〈B〉、それらのものとしてのA,Bという把握は二種商品間の価値関係から導出されるものではなくて、全社会的な規模での抽象であり、社会的関係規定から把え返され、抽象化された〈A〉、〈B〉である。そこでは私的労働による分業関係の生産物への反照という面ばかりが強調され、二種商品間で成立する、相互支配と自己喪失の論理を、抽象的人間労働の論理構造の中で浮彫にさせることができない。ここで本論からはずれるが廣松氏による抽象的人間やその労働の実在性の否認に根本的な批判を加えておこう。

                C、抽象的人間と抽象的人間労働の実在性

  廣松氏の論理の核心はAals〈A〉、Bals〈B〉とされる時、Aは必ずしも〈A〉と同一のものではなくて、Aの方は生身の人間という実体であり、〈A〉の方は社会関係の函数的な一契機としての〈A〉である。Aがレアールであるのに対して〈A〉イデアールであるというところにある。イデアールと言ってもいわゆる観念が真実在であるという意味ではなく、Aという実在が〈A〉とみなされる、あるいは、Aが特定の関係の中で〈A〉としての意味を持ち、役割を果すという程の意味である。

 Aが行うレアールな労働、これが具体的有用労働である。そして抽象的人間としての〈A〉が行う労働、これが抽象的人間労働である。しかし〈A〉がイデアールである以上、抽象的人間労働もイデアールであり、レアールな具体的有用労働と別物ではない。Aが行う具体的有用労働をあたかも〈A〉が抽象的人間労働を行っているかに見なされるにすぎない。つまり社会関係からイデアールには抽象的人間労働として受け取られるだけである。

 このようにレアールとイデアールの表裏関係において「存在と意味」を一たん区別して、合成し、事物を意味成体(レアール、イデアールの合成体)として一般的に把えるのが廣松哲学の特徴の一つである。(『世界の共同主観的存在構造』での議論を参照されたい。)例えば文字は物としてはインクのシミにすぎないが、特定の文化圏において文字としての役割を果たす。文字においてレア-ルなのはインクのシミであり、文字は社会関係によって規定し直されたインクのシミ以上のもの、レアールなインノクのシミ、以上のものとしてイデアールなものである。かくして文字としてのインクのシミはレアール、イデアールな意味成体である。机として木材、上着としての布、夫としての男の身体、海としての水の集まり、哲学者としての廣松氏、この世に存在するものすべてがこのような意味成体と見なされる。

 この廣松哲学の立場からすれば、抽象的人間労働と、その凝結を実体的に把えることなど士台できない相談である。実体的規定(そのものの規定、レアールな規定)と、関係規定(氏によればイデアールな規定)は硬貨の表と裏のようなもので、関係的規定は決して実体的規定ではないし、実体的規定も関係規定として把え直されるとき既に別の規定になっているからである。

 ともかく廣松氏は私的労働に基づく分業社会における労働主体を抽象的人間として把える。これについては私も同意見である。そしてこの抽象的人間が行う労働だから抽象的人間労働であると見なされる。これも正しい。だから私は抽象的人間が実在していると考えるわけである。ところが廣松哲学が干渉する。

《抽象的人間と言っても生身の人間の関係規定である事をお忘れなく、具体的人間が社会関係に拘束されてイデアールにそう見なされているだけなのですよ。抽象的人間労働にしてもしかり、決して具体的有用労働と別物ではありません。現にあるのは具体的有用労働だけです。抽象的人間労働というのはそれが社会の分業関係を反映して、同一の人間労働と見なされていることからイデアールにそう把えられるだけですよ。》

   ああレアールな廣松氏の前頭葉は折角抽象的人間、抽象的人間労働をリアリスティックに把握しようとしていたのに、イデアールな哲学者〈廣松氏〉がイデア―ルな注文をつけて邪魔をするのである。

  しかし廣松氏が単なる身体としてだけレアールで、マルクス解釈に画期的な業績を挙げられ、今や廣松哲学の開祖としてその名も高い哲学者廣松氏は、哲学者としては社会的にそう見なされ、レア-ルな身体がイデアールな哲学者として粉技しているなどと廣松氏の愛読者は考えているのだろうか。哲学者廣松氏の実在は今や哲学界、思想界では動かし難い事実であり、氏の物質的実在は氏の身体に止まらず、氏の名著となって日本全国の店頭や知識人の書棚を占有し、次第に新しい思潮にまで成長しようとしていることを顕示しているではないか。

 我々にとって廣松氏の実在はスラリとした長身の紳士然とした体つきや柔らかい人当たりの優しい物腰にあるのではなくて、哲学者廣松氏の方である。廣松氏にお目にかかったことのない読者にとっては廣松氏の実在は廣松氏の著書の方であり、氏の身体はかえってイデアールに表象されているにすぎない。もちろん廣松氏は『資本論の哲学』を廣松氏のレア―ルな姿とは見なされない。かえって『資本論の哲学』は廣松氏のレア―ルな身体を社会的に拘束してイデアールな哲学者にしている一契機にすぎない。この契機たる本も実はレアールには紙と活字のかたまりにすぎないのであって、社会的な役割から本とイデアールにみられているだけである。紙の実在性(実際にあるもの)も実は暫定的であり、本のリアリタスであるという意味においてであるにすぎない。紙もレアールには繊維質であってそれが紙として使用されて、イデアールに紙とみなされ扱われているだけである。

 このようにあらゆる規定性において把えられる定在は、あらゆる規定性が関係規定であることを免れない以上、イデア-ルな存在であって、純粋にレアールな定在というものはありえない。あえて求めるとすれば質料そのものということになろう。しかし質科そのものはいかなる規定性も身に受けないならば、質料のリアリタスはイデアールなリアリタスであり、その実在性に対する確信は形而上学的であり、観念的である。

 氏によればレアールな規定性が暫定的であり、規定性一般、意味一般がイデア-ルな存在性格である以上、このようなレアール、イデアールな意味成体として物の定在そのものが実は暫定的な了解であったことになる。そこで氏は物が第一義的な存在ではなく、関係(こと)が第一義的な存在であり、物は関係の函数的な項を自存化し、実体化したものにすぎないという事的世界観に連らなるのである。

 これまでの論義で用語自身に対する広松氏と我々との把握の仕方における越えがたい溝を感じとられた読者も多いことと予想される。我々は質料をレアールなもの、形相をイデア―ルなもの、というように決して分けてとらえない。だから机がたとえ木でできていようがスチールでできていようが、机自体をレアールな規定性として把える。もちろん机が関係規定であることを否定するつもりは毛頭ない。その机は物としては木ではないかなどという発想自体、物は関係規定ではないという前提によるのであって、なぜ物が、レアールな物が、関係規定であってはならないのか納得しがたいのである。

  我々は又、木が机として見なされているとは考えない。木材は木材として存在している限り、決して机ではないのであって、机を構成している木材は机の素材にすぎず机自身ではない。机を木材として見ている限り、机という物は対象ではないのだから、意識にとってレアールなのは木材だけである。机を対象にする意識にとっては机がレアールなのであり、木材は従属的な存在なので素材にすぎない。机のレアールな性格は人間との関係において机が人間に読書をさせたり、書き物をさせたりするという実践的な有用性において示されているのである。人間がその前に座り、読み書きする以上、机は堅固な平板と数本の脚で出来ていなければならず、このような特色を持った物を机と呼んでいる。従って机がレアールであることは机を使用している人間によって日々たしかめられている。なぜこの段階でレアールであることを確認できないのか不思議である。机は木材、スチールといった素材への反省によってレアールであることを確かめられるわけではない、木材やスチールのレアール性自体が問い返えされ、この問は悪無限的に続けられることは、廣松氏が先刻御承知である。我々はパントマイムをやっているのではないから、我々の実践で机がレアールな定在であることを確証しているのである。
 
 文字がレアールにはインクのシミであるということも、我々は認めない。インクのシミは文字ではないのであって、もし私が今書いている文字をインクのシミと見なす人がいるとすれば、その人は日本語をよく知らないか、遠くから見ていてインクのシミのように見えるのか、私の字が悪筆すぎるかのいずれかである。文字が素材としてはインクのシミであるとしても、文字と成ったインクのシミでなければ文字としては読めないことは自明である。インクのシミがインクのシミである限りではそれは文字ではないか、文字であっても文字として読まれていないかのいずれかである。インクのシミは文字という物の素材となってはじめて、文字を構成するのであって、文字がインクのシミとして反省されるのは素材への反省にすぎない。文字のレアールな性格が素材への反省によって基礎づけられると考えるのは、廣松氏の術中に陥ることになる。文字がレアールであるのは人間との関係においてであり、人間に対して視覚的に音や意味を伝達するという実践においてである。

 もちろん、机や文字にしても反省的意識の意味づけの後に知覚される物である。しかしそのことから机が木材の意味であり、文字がインクのシミの意味であるということにはならない、机の木性は実は木材ではなく、木性は机の素材であることを捨象すれば既にイデアールなものとなる。机でもなければ他のものでもない木製品の木性はイデアールに想定されるにすぎず、木材という定在はは未だ木製品になっていない前の物であって、製材所や材木商、あるいは家具工場にある木製品の材料である。

 インクのシミも文字の素材にすぎない以上、インクのシミとしては文字とは見なされない。文字とみなされた以上、最早インクのシミではありえない。文字とみなされない場含に限ってインクのシミなのである。だからあくまでインクのシミはインクのシミ以上のものではありえないのである。

 我々が物を意味成体(所与と所知の統一)として把えることに反対し、(廣松氏にとってもこれは暫定的である。)机や文字を人間との実践的関係によってレアールなものとして措定する時、その実在性は感覚的なものであって、かえって人間の意識相の実在性にすぎぬと反論が予想される。しかしこの反論自体、感覚を事物間の相互関係の反映として把えていないことによって成立するのであって、各対象間のレベルでの対立物の統一、相互浸透を相互的な実在性の確証とみなす唯物論にあっては、物どうしが自己の実在性を根拠に他者の実在性を措定し合い、他者の実在性に根拠づけられ規制されて、自己の実在を維持しているのである。感覚の次限に限定すれば錯覚によって対象の位置や形状その他の取り違えがおこり得るが、人間の自己活動としての実践のレベルで相互関係を措定すればこの確証行為そのものが検証されることになり、対象の実在性も信頼できるものになる。

 従って我々の見解では廣松氏とレアールな契機とイデアールな契機が反対である。かえって形相的契機の方がレアールであり、質料的契機の方がイデアールであると我々は把える。なぜなら質料は質料である限り、それは何ものでもあり得ないのであるから、その実在性はイデアールに想定され、前提されているにすぎない。机は素材への反省によってそれが木でできているかスチールでできているか明るみになるのであって、木、スチールという形相として質料が把え返されてはじめてこの質料の実在性が検証される。反省以前的には素材の実在性は机の実在からの推論にすぎないのである。だから唯物論はこの推論の必然性に立脚する世界観であると言い得る。

 廣松氏の議論に立ってもレア-ルな質料は常にイデアールな関係規定として把え返されることによって存立しており、純粋にレアールなものは形而上学としてしりぞけられているのであるから、イデアールなものしか実在せず、逆にイデアールなものこそレアール(実在的)であることになりはしないか。物と事の関係にしても物は事の契機にすぎない以上、この世に存在するものはすべて事であり、従って事こそが存在する(運動している)物なのであり、事が物であるとは言えないか。物は自存的であり、恒常的に自己同一的であることを錯視とするなら、物は事と成って、事を起していなければならず、このような事に成ってはじめて物に成っているのである。従って事こそは物である。

 その意味でなら我々の物的世界観は決して事的世界観を排棄しているのではない。我々も物は事であると把えている。しかし事となった物は物でなくなる訳ではなく、事こそが物の姿であると把えているのである。しかるに廣松氏は事を物として把えないで、物を相対的に自存的、自己同一的に仮現するものとして事に対する説明の機能的概念、倒錯視とされる。結局、物を事から切り離し、抽象的に対立させることによって、物を第一義的存在である事ではないから倒錯視と見なし、そのような物によって世界を構成する物的世界観をしりぞけられるのである。しかし物の関係として事が措定されない限り、事的世界観は事態の解釈学に陥いり、事そのものの関係づけ、発展を正しく説明できないだろう。関係づけそのものが事を物として把え返すところに出発するのだから。

 人間は実は生身の身体としてだけレアールなのではない。逆に身体としてだけ実在すろと把えるのは一面的である。身体は自然との代謝において実在しているし、自然から身体の実在だけを切り離して認めることはイデアールな作業であり、身体が本当にレアールに存在しているかどうかは自然との対象関係で実証が必要である。個人の身体が実在するには、その個人が自ら構成する社会の実在によって前提されており、社会が実在しないのに個人だけがレアールであるわけにはいかない。社会にしてもそれを構成する個人の実在が前提されており、そこではじめてレアールである。また、個人は単に身体としてのみ社会を構成するのではなく、社会の一分肢としては社会的役割を担って、社会的な実在でなければならず、社会人として実在しなければならない。

 私的労働に基づく社会においては、人間は社会人としては、私的労働生産物、即ち商品を創出する労働主体であることを要請され、彼の労働は社会的実体として立派に一人前の人間としてどれだけの労働をこなしたかを評価されることになる。このような一人前の人間としてどの人間も同じものとみなされるところから抽象的人間となる。この評価は商品交換の場で行われるわけだから、労働量は従って生産物に対象化されていなければならない。ともかく人間はこの杜会ではこのような抽象的人間として現存しており、抽象的人間でなければ現存しえないのである。

 具体的人間はこのような抽象的人間が自己を抽象的人間として現存させるためにとる姿であって、その具体性はとりかえがきくものである。寿司屋になろうが、旋盤工になろうが、哲学者になろうが、抽象的人間としては自已を一人前の社会人として認めてもらえるならばどれでもいいのである。だからレアールなのは寿司屋であり旋盤工であり、哲学者なのであって、抽象的人間なのではないと把えるは事態を逆にみているのである。先ず抽象的人間として実在しなければならないから、即ちレアールでなければならないから、彼は自己のリアリタス(実在物)たることの維持のために〜屋、〜工、〜者になるのである。抽象的人間がレア―ルであり、実在するから、その実在する姿として彼は身体的存在としてヒトであり、〜屋として職業人なのである。

  廣松氏にすれば抽象的人間は〜屋に対してイデアールであり、〜屋は身体的存在に対してイデアールである。しかし、もし廣松氏が特異な学才を発揮する哲学者としてレアールでなかったら、廣松氏のレアールな存在はどこにあるのか、単に食物を消化し排泄する廣松氏の身体のレアール性など世人の注目するところではない。(氏の容貌のハンサムなことは私の羨望の的ではあるが。)廣松氏のレアールな存在はむしろ関係規定としてあるのである。教師は生徒に対する関係規定だからイデアールな規定とはなにか、生徒にとって教師の身体は教師そのものではないか。ある人が単に五体としてレアールで教師としてはイデアールというのは詭弁にすぎない。五体は実は教師がレアールに存在していることを証しているではないか。教師でも何でもない五体などは実は医学の実験材料としてレアールであるにすぎない。しかもその際でも実験材料という関係規定においてはじめてレアールなのである。

 我々は関係規定こそがレアールな規定であるという視点に立たなければならない。しかし、それは関係のみが実在し、物は実在しない、或いは関係が第一義性的実在であり、物はその契機として第二義的実在であることを言わんとするのではない。それならば全くミィラ取りがミィラになる例え、やぷ蛇である。

 例えば木綿の布地は人間との関係において、ワイシャツになり、レアールに存在するものになる。しかしそのことはワイシャツが関係になって物でなくなることを決して意味しない。この関係においてワィシャツは人間に外的で対象的な物になっており、それを着る人間にも人間としての実在性を与えているのである。何も着ない人間は浴場なり、その他特殊な自然物によって実在性を与えられない限り、実在しえないことは自明である。

   関係である限り、それは物と物との関係であり、物の関係に対する第一義性は前提である。しかし物が物として実在するためには、他の物と関係し得る規定性を自己のうちに持っていなければならないのである。事、事態を関係として措定するや否や、第一義的実在は物に逆転する。事、事態の第一義性に固執するならば事、事態を関係として措定することはできない筈である。物と裏の抽象的区別に執着する限り、このアポリァは解消しない。

 かくして、我々は抽象的人間は私的労働に基づく社会関係によって規定されて存在している社会人として把えられた人間であるのだから、実在しており、つまりレアールな存在であり、その労働を指すのだから抽象的人間労働も又、レアールに実在していると考える。この社会では抽象的人間労働として評価されないならば具体的有用労働はレアールな存在ではなくなってしまう。抽象的人間労働でない裁縫、織布は社会的実体としての実在性を失ない、単にイデアールに考えられるだけのものである。

 むろん抽象的人間労働もその実を示すためには具体的有用労働の姿をとらなければならない。このように労働の両性格は個々に取り上げればどちらもイデアールであるが、同一労働の両契機として互いに実在性を支えあっているのである。抽象的人間も、抽象的人間労働も単なる論理的抽象ではなく、人間が私的労働に基づく分業社会で先ず取得すべき資格であり、労働の性格である。例えば日本国民としての様々な権利、義務を享受するためには日本国籍を持たなければならないとか、車を運転するためにはどんな車を運転するかにかかわらず、先ず運転免許を取得しなければならないとかと類比されうる。

                                                         d、商品関係に包摂された分業関係

 現に抽象的人間労働がレアールに存在しているからこそ、それが生産物に特有の価値性格を与えて、商品交換が生じるのである。もし生産物が抽象的人間労働によって生み出されたものでなく、従ってそれを凝結していなければ商品とはならず、交換も生じない。商品交換が全物資の流通を支配している社会では、生産物は先ず商品でなければならず、商品ではない生産物はかえってレアールな存在性を持たない。

 しかし商品は交換される以上、その資格として価値物でなければならず、そのためには有用物の有用性を捨象したものでなければならない。商品は有用物として自己を他の商品に示し、その有用性を捨象したものでなければならない。商品は有用物として自己を他の商品に示し、その有用性を捨象して価値に還元してもらわなければならない。この関係が価値形態である。

 リンネルは上着と関係することによって上着に価値を認め、それと等値関係にある自己の価値を自覚し、自己を商品として認識する。ここに価値や抽象的人間労働や商品が関係規定であることが明確となるが、そのことによってリンネルは商品としての実在性を確証するのである。もしリンネルや上着が単に有用物であるだけなら、それは互いに関係することは出来ない、上着やリンネルは互いに引き合うことも反撥し合うこともないし、対象的に関わり合うことなど出来ないからである。

 ところが私的労働に基づく分業関係のもとで、それぞれ一人前の労働として立派に認められた社会的労働を実体として含んでいる場合は事情が異なる。それらはそれぞれ抽象的人間労働を体化して代表する物となり、それぞれ自己がどれだけの体化物であるかを競い合うことになる。かくして価値関係を取り結ぶことになり、関係することができるのである。

 ここで関係し合っているのはたしかにリンネルであり上着であるが、それは商品としてのリンネル、上着であって、リンネル、上着という具体性、有用性は抽象されて価値に還えるためにとる仮の姿にすぎない。あくまで価値てんびんに乗っているのは体化された社会的実体、即ち抽象的人間労働の凝結量である。ということは抽象的人間がどれだけの労働を社会的責任において果したかが評価されているのであり、物と物との関係ではなく人間と人間との関係であるとはその意味である。だから価値は生産物に物質化された人間である。商品はその本質においてこのように人間なのであり、商品関係は人間関係である。

 抽象的人間はその労働によって価値としての自己を示し、社会の評価を受け、社会的に存在を認容され、価値に見合う社会からの分配を享けなければならない。それ故、価値関係とは社会分業をどれだけ担ったか互いに承認し合う関係であり、そのことによって相互に支配し合い、支え合う関係である。従って廣松氏が価値を特定の分業関係の反照としての関係規定として説かれているのは正しいのである。しかし生産者相互の直接的な関係ではなく、あくまで商品となった、生産者を離れた関係なのであり、この価値関係に生産者は止揚されており、顔を出すことはできず、価値形態に余計な首をつっこんではいけないのである。商品関係では既に生産者は死んでおり、生きているのは商品自身である。社会関係は商品としての人間関係である。ところが廣松氏にあっては商品自身の関係と思われるのは実は生産者相互の分業関係だと把えられており、あくまで商品に即した価値関係は仮現なのである。

 廣松氏は商品生産者〈A〉としてのA氏をA als 〈A〉と表し、商品〈a〉としてのaをa als 〈a〉と表す。同様に商品生産者〈B〉としてのB氏や商品〈b〉としてのbもB als〈 B〉やb als 〈b〉として表現している。そして商品交換関係をA als 〈A〉とB als〈 B〉とが、a als 〈a〉とb als 〈b〉を交換しあう関係として価値形態の四肢的構造を把えられている。そう把えられるのは、a als 〈a〉とb als 〈b〉の直接的交換と見られるのは、実はA als 〈A〉とB als〈 B〉の分業関係すぎないと考えておられるからである。a als 〈a〉の中にA als 〈A〉が止掲されてしまっているという事態を、また元に返えしてしまったから、そのように考えられたのである。しかしA als 〈A〉とB als〈 B〉の関係として分業関係が成立するのは商品交換社会ではないのである。商品相互の関係の中に分業関係は止揚されており、あくまでa als 〈a〉とb als 〈b〉の関係として把えなければならないのである。

 A als 〈A〉とB als〈 B〉が直接生産者であり、商品所有者でもある関係を想定してみよう。a als 〈a〉とb als 〈b〉が相互に交換し合ったとする。この交換で分業関係が価値関係として成立したのであるから、A als 〈A〉とB als〈 B〉はこの分業関係に従わざるを得ず、間接的に分業関係に組み込まれたのである。A als 〈A〉とB als〈 B〉の関係を直接的な分業関係とみなすと、a als 〈a〉とb als 〈b〉の商品関係は成立する余地がないのだ。

 ところでこの分業関係でAはbを享受し、Bはaを享受するから、A als 〈A〉とB als〈 B〉が分業関係の主体となっているとする反論も予想される。しかしこの享受は、A als 〈A〉やB als〈 B〉が生産主体であったからではなく、専ら所有関係に関わっているのである。だから、a als 〈a〉やb als 〈b〉をだれが生産したかは交換の場面では忘れられているのだ。同一の抽象的人間の労働とみなされているのである。それゆえ分業関係はあくまで無人称となった労働の分業関係であり、それがA als 〈A〉とB als〈 B〉の分業関係であるということは間接的に立言できるにすぎない。

 A als 〈A〉とB als〈 B〉がa als 〈a〉とb als 〈b〉をそれぞれ所有主体として交換する以上、この交換の当事者がA als 〈A〉とB als〈 B〉であるということは否定しがたい事実関係には違いない。しかしa als 〈a〉とb als 〈b〉の関係は価値関係である以上、この交換は法則的にはa als 〈a〉とb als 〈b〉の間の論理的関係であり、A als 〈A〉並びにB als〈 B〉はこの交換の後景であるに止まり、内在的な価値法則を左右することはできないのである。従ってa als 〈a〉とb als 〈b〉を交換の論理的主体として把え、A als 〈A〉とB als〈 B〉をこのお膳立てとし把えてはじめて価値形態論を把握できることになる。

 個々の実際の交換に定位するのではなく、商品交換の全体を法則的に解明し、そこに貫らぬく価値法則の解明に焦点を当て、商品関係を価値関係として把え返し、交換の論理的主体を浮び上がらせているのが価値形態論である。この観点からは、交換の主体はa als 〈a〉とb als 〈b〉であリ、その労働もa als 〈a〉とb als 〈b〉に体化されたものである。だからそれは無人称な抽象的人間労働なのである。人間だけが能動的で物は受動的であるという固定観念を払拭して、交換においても物と物との能動的な論理関係を見究めることが、価値形態を明るみにするのである。

 ここで問題なのは分業関係であってa als 〈a〉とb als 〈b〉の中に内在している非人称の労働が相互に自己の量を主張し、評価される。こうして現在完了の労働が物としてその位置を交代することで商品が場所を入れ替わり、そのことによって所有主体が替えられ、有用物が新たな所有者によって消費される。この最終的な消費が人間労働力の再生産を帰結し、商品の再生産を喚び起こすのである。この全体が分業関係であり、従って分業関係は商品関係の中に包摂されているのである。だから、分業関係を取り結ぶ労働は、a als 〈a〉、b als 〈b〉に包摂されている現在完了の労働であり、裁縫として、織布として行なわれた抽象的人間労働である。

 

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