2事態函数の項としての「物」

 廣松説は「物」を諸関係の結節として把える。物は形而上学的な実体ではないことは我々も認める。廣松氏は、事態を主・客図式によって物象化することで「物」が把えられるときれるが、その事も認めてよい。ただし、我々は事態を物象化することが必ずしも倒錯ではないと考える。

 廣松氏は、四肢構造を認識論と存在論の同一性に立脚して把えるので、存在の要素に人間の意識を組み込まれる。存在は意識された存在であり、事態は意識において成立する。かくして、主・客の二元的対立は超克される。(『論理』)

 事態が人間の意識を介して成立するなら、人間に先行する自然史は、事的世界観では存在の資格を失なう。廣松氏は、時間は物の存在性格であって事は非時空的であるとされる。だから、時空は事態を物象化的に錯認する時に措定されるのである。人間に先行する自然史などどこにもないと言うのである。(『もの・こと・ことば』勁草書房、1979年)

 我々も「物は事態である」という命題を受け容れる。世界は、様々に生起する事態の連関でしかない。しかし、事態が連関し展開しているならば、この連関には連関する項が必要である。項もそれ自体では事態であるが、項としての結節性がなければカオスでしかない。廣松氏は、従って、事態は函数であるとされ、項は函数的な項であるとされる。

 函教としての事態は、意味を持った連関であり、それぞれの項は意味を担った定在である。その項目自体が意味連関としての事態関数であるとされる。だから悪無限に陥るかと思われるが、事態自身が意識に媒介されて成立するのでその心配はない。
我々とて事態を函数的に考察することに反対する者ではない。しかし、この函数は実在的な連関であり、単に考えられた函敷ではない。各項も実在的に把えられなければならない。諸事態の連関は諸実在の連関でなければならない。個々の事態は全体的な事態の契機であり、現相であるにしても、逆に、全体的な事態も個々の事態の連関でしかない。

 事態が連関、或いは関係であるという点に固執し、連関そのもの、関係そのものの第一義性に固執すると、それが物の連関、関係に他ならない事、又、物の連関や、事態の統合として函数化された事態はそれ自身物であることが見失われる。関係や連関は、物の関係や連関である限り、時空的存在である。廣松氏は、事態を人間的意識にどうしても媒介させようとされるため、事態を単なる関係そのもの、非時空的存在とされるのである。

 事態は、対立物の相互関係、連関であって、対立物の中に人間が介在しなければ、人間にとっての事態とはなり得ない。人間が連関の項になっている場合にだけ事態は人間的である。だから人間に先行する自然や、未知の自然物が引き起している事態が存在したし、現存していると推論するのが当然である。事態が函数的に存在し、意味を持つということが人間的であるのではない。反対に、事態が意味連関であるから、人間はその意味を把捉できるのである。

 事態を函数として把え、関係、連関を項としての物に対して第一義的だと踏まえた上で、項自体が事態であるとされる廣松氏の立場は、結局、物を事態に解消する議論である。氏の立論に従えば、物は事態を物象化して把えることによりて成立するのであり、事態を函数として展開することによって世界は事態によって構成できるし、それが真の学的な方法、「資本論」の方法であることになる。廣松氏の『資本論の哲学』(現代評論社)によれば、商品・貨幣・資本は物ではない、社会的な関係である。マルクス『資本論』は人間社会を事態連関として叙述しており、生産物の連関とみなされているのは事態の物象化的倒錯視によるのだということをマルクスは暴露していると廣松氏は解釈されるのである。(拙著『廣松渉「資本論の哲学」批判』経済哲学研究会刊、1980年)
 
 マルクスは資本制的生産様式を物と物の関連としてでなく、物に媒介された人間の社会関係、資本を産出する人間の営為の連関として把えようとした。物の社会的規定は、人間の社会連関が物に外的に投映した規定であり、物自身に内属していると考えるのは物神崇拝に陥っているとマルクスは考えたのである。だから、むしろ、マルクスは社会連関を人間の営為からだけ構成し、物の営為とは把えていない。物と人間の抽象的、外的対立が固執されている。主・客図式を超克しているとしたら、物に属すか、人間に属すかと言うような社会規定についての議論の立て方は乗り超えられていた筈である。

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