第二章、価値形態論をめぐって
                          ー廣松説の特徴ー

   第1節、商品交換の論理的主体は商品自身かそれとも商品所持者か

                a、価値形態論に商品所持者を登場させる動機

 ではもし廣氏の言うように労働が凝結しているのではないとしたら、どのように商品の価値規定が生じ、どのようないきさつで、抽象的人間労働の凝結という仮言が必要になり、いかなる論理構造でこれらが把えられるのか廣松氏の教説から学ぶことにしよう。

 廣松氏は実体主義的な抽象的人間労働の把え方を物象化による倒錯視とされながらも、それが生じる社会関係においては、実体主義的な了解は汎通的になっており、逆に倒錯的な相互了解によって社会関係がスムーズに機能することになるので、その意味で積極的に実体主義的に把える認識の存立構造を解明しようとされる。

 廣松氏はそこで価値形態論の考究に移る。というのは、価値形態論は抽象的人間労働を商品関係の関係の論理の中で展開しており、実体主義的な把え方も実はこの商品の相互関係に根拠を持ち、従ってこの関係によって実体主義的に凝結しているように見えるという氏の物象化的倒錯視論の型にはめることが容易であるように氏には思われるからである。ところで、これに対して「資本論商品章」第一節、第二節では抽象的人間労働が「単なる生理学的な労働力能の支出」というもろに実体主義的な規定によって強く把えられており、関係の第一義性は立論し難く感じられたのである。

 しかし、これは廣松氏の誤解である。第一、二節においても商品交換は前提であり、この前提から、社会的規定として、交換価値、価値、抽象的人間労働とその凝結が析出されている。抽象的人間労働とは、労働主体がその特個性を捨象されて同一の労働主体という抽象(抽象的人間)に還元され、そこで具体的有用労働が捨象されて(裁縫・織布といった具体性が労働から漂白されることによって)、単なる純粋な生理学的労働力能の支出と形容されるようになった労働である。従ってそれは交換によって特個的な労働が、社会の実体を為す一般的な労働に抽象されたという意味で、勝れて「社会的実体」として把えられた労働であり、社会的規定、関係規定なのである。

 それはさておき、廣松氏は価値形態論によって、社会関係の中で抽象的人間労働の実体主義的な把え方が生じる由縁を見出すために、価値形態論の申に商品所持者を登場させる。つまり、商品交換関係に立つ人間の意識に抽象的人間労働の凝結という事態が仮現することを見出そうとされるのである。凝結は事実ではなく了解なのであるから、商品という物が即目的に有する、或いは関係において主体的に有する論理からの帰結であってはならない。あくまで商品交換を行う人間の行為を拘束する人
間関係、社会関係の土隷へのイデオロギー的投映として把える必要があると考えておられるのだ。

                    
                    b、価値形態に商品所持者が登場する根拠

  交換の現場において、交換を行なうのは商品所有者であるということは一見自明のことのようである。廣松氏や宇野氏でなくても、マルクスが示した商品語を語り合い、自ら主体的に交換を商品自身が行っている図を奇異に感じられる「資本論」読者は多いだろう。そこでマルクスは商品交換の論理そのものを明らかにするために、あたかも商品自身を行為の主体に見立てているのだと解釈するのは無理からぬことである。廣松氏にあっては当事主体が商品自身であるとは全く思ってもみないことで、そのような論述はマルクスの論述が学的見地からのものであることを表現しているにすぎないと考えられておられるようである。(『哲学』p131〜132)

   そして当事主体(氏にとっては勿論商品所有者)の視座が論理展開に含まれているのは、相対的価値形態と等価形態の区別と対立がリンネル所有者の視座から構えた学知的規定であることからも明瞭であり、「当事主体の視座ということは論理構成上の必須の契機をなしている」(同書p133)廣松氏に言わせれば、たしかに当事主体の意識を勘案すれば「無用の錯綜」が生じかねないという配慮がマルクスにはあったかもしれないが、この手法は「しかし、そこでは商品(リソネルおよび上着)が擬人化され、当事主体の視座、視角が後景に退いてしまうため、論理の立体的な構造が見えにくくなる」(同書p134)ので困るのである。

  マルクス自身が生存していない以上、本音を聞くことはできないが、叙述そのものからは商品交換の主体は商品自身であり、商品所持者は商品の指令で商品を市場に運ばされ、所持者の欲望(必要)によって相手商品を商品にとって偶然的に選択させられるお膳立て役に過ぎない。決してリンネル所持者の視座に立った論述ではなく、リンネル自身に視座をおいた論述になっている。商品語というのも商品の主体的な論理であり、商品に内在している価値、即ち抽象的人間労働の凝結が語り出すものである。

  しかし、商品は単なる物塊である以上、それが主体的に交換するというのはおかしいではないか、商品関係というのは実は人間関係、即ち社会関係であって、これを商品の関係に仮託しているのではないか、かく解する方があるいはより自然であるとも考えられよう。マルクス自身、後の物神性論では、商品関係は物の関係ではなく、人間の社会関係であり、そのquidproduo置き換え(廣松氏は倒錯視と訳す)であろと叙べているではないか。だとすればここに至って、俄然廣松氏が優位に立つ。もし抽象的人間労働が実際に凝結しているならば、商品は内包的な論理として自己内に関係主体にふさわしい論理を持っているのだから、これが人間関係でしかないとか物の関係ではないとかの立論は一切不要のはずである。ところが実際にこのような立論をしているだから、抽象的人間労働の凝結も仮言であったことになる。だからマルクスは労働の二重性を強調したのだと広松氏は胸を張る。

  具体的有用労働は労働生産物を産出し、抽象的人間労働は価値を産出する。ところが抽象的人間労働は具体的有用労働と別に存在するわけではない。しかるに一方は有用物を、一方は価値を産出するとはいかなる意味か、もし単なる具体的労働の抽象という意味でならフランクリンだって強調しているではないか。マルクスの意図は具体的有用労働で労働生産物の創出を確認しつつ、これを社会関係からは価値の生産としても把え返さなければならない、その為に具体的有用労働は、価値を形成する
という面においてはその具体性を捨象して把え返えされることになり、抽象的人間労働として見直される。その点だれしも同意見である。しかし廣松氏は、そこで具体的有用労働を事実の側に置き、抽象的人間労働を機能的概念にすぎないと区別される。これにはだれしも同意見というわけにはいかない。

 事実慨念と機能概念の区別という問題意識から労働の二重性を折出したという廣松氏の指摘はたしかにシャープである。だから抽象的人間労働の凝結という表現も機能概念のオリの中で押えることができることになり、物神性論でこのオリを露見させることによって全体が解明されることになる。その為に抽象的人間労働の凝結が機能概念でしかないことを示すためには、抽象的人間労働が価値形態論における商品所持者間の関係において所有者の意識に仮現するものでなければならない。かくして廣松氏は商品所持者に視座を置いていわゆる「四肢的」存立構造の中に抽象的人間労働を位置づけようとされる。これについての詳しい検討は後に廻し、いわゆる商品所持者を、価値形態論といかに関連づけるかという問題に私なりの解答を与えておこう。

                  c、商品自身の主体的交換論理

 私は最も素直に解釈する。というのは抽象的人間労働の凝結を認める以上、商品は価値を内包しており、主体的に関係し得る資格を持っていると思われるからである。 従って商品交換の主役は商品所持者というよりむしろ商品自身である。商品所持者は舞台監督にすぎないのである。たしかに単純な偶然的な、或いは特個的な取引に限ってみれば、商品所持者の恣意は商品交換の主体のようにみえるかもしれない。しかし市場全体を視圏に入れれば等価交換の法則は貫徹されているのだから、商品交換を行っている所持者たちはこの価値法則に従って粉技させられているのであって、彼らの行為は結局、価値法則が自己を実現させる媒介にすぎない。しかしそれはあくまで商品所持者たちの主体的な行為の結果にすぎず、交換の主体が所持者であるという事実は消去できない筈だと反論されるかもしれない。それは問題のはき違いであって、今ここで問題なのは交換をだれがしているかという事実を捨象したところで、交換を規制する論理的主体とは何かが問われているのである。たしかに商品は人間によって関係させられる。ではそこで関係させられた諸商品はいかなる関係論理で相互に主体的に関係するのか、又できるのか、この課題に答えているのが価値形態論であり、それ故、商品所持者は必然的に捨象されるのである。

 従って現に商品所持者が捨象されている価値形態論を展開したマルクスの問題意識には、投下労働価値説が前提されているのである。というのは、諸商品が主体的に関係しうる根拠は商品自身が内在的に有しており、そこには所持者が干渉しえないという確信があってはじめて、所持者の捨象が可能となるからである。

 リンネルが上着を等価形態に選ぶかどうかは確かにリンネルの意志ではないとも言えよう。リンネルは靴を選ぶかもしれないし、パンを択るかもしれない。この偶然性には所持者の意志が媒介されよう。しかしいずれかの商品を等価形態とするという事態がこの際問題になり得るのであって、いずれかの商品を等価形態にしているのは所持者ではなくてリンネル自身である。所持者はむしろリンネル商品によっていずれかの商品を等価形態にするためにお膳立てをさせられているのである。

 仮に所持者の意志なり主張が商品交換を行うとすれば、彼らの欲求や自己の所持した商品に対する主観的な評価が対峙し合って、その取引は主観的なものになり、水掛け論になる。その結果、ある種の妥協によって交換がなされることになるが、これは偶然的な取引の単なる描写にすぎず、決してそこからは商品の等価交換の論理は導出されず、そのような交換の繰り返しによって何故等価交換が法則として貫徹されるのかは展開できない。

 我々は法則的には等価交換が為されているという現実から出発し(等価交換が法則的に貫徹されていること自体の虚構性についての議論は一応措くとして)、個々の不等価交換が所持者の恣意によって生じているにしても、法則性に立って論じる限り、商品交換は等価交換であり、交換の論理そのものは所持者の恣意からではなく、商品自身の関係論理を商品自身から聴き取ることによって把握しなければならないと考える。(この議論は商品所持者についての宇野・久留間論争で既に論決済みなのではあるるが。)かくして商品語を商品自身が語り出すのである。

 商品語を商品自身が語ることを擬人的表現と考え、商品の関係論理を所持者の関係論理として把え直そうという廣松氏の試みには従って同意できない。大部分の読者は廣松氏とともにここで大変こっけいな思いにかられるかもしれない。商品が所持者に命令して自分を市場に連れていかせ、相手商品に立ち向わせ、取引をさせる。そこでは物が主人となり、人が道具として物になっているかに思える。これこそマルクスが物神崇拝といった事態そのものではないかと。マルクスは物神性論で商品関係は実は人間関係だと叙べているではないか、この議論に関する限り、商品関係を人間関係の視座から把え返そうとする廣松氏の方が明らかに正当ではないかと思われるかもしれない。

 しかし、そのような把握は商品と人間をあくまで別物と思い込んでいるからであって、マルクスが商品関係は実は物と物の関係ではなくて人間関係なのだという意味を誤解しているのである。マルクスが物としてイメージするのは自然物であり、自然対象性を持った物体である。商品、価値は具体的有用性、自然対象性を捨象しているので、そのような自然物ではなく、従ってマルクス流には物ではない。マルクスは商品となった生産物に社会的な物という表現を与えているが、その場合彼の考えている物概念から隔離した物として、つまり物でなくなった物として把えているのである。そのような物はマルクスにすれば最早本来の物ではなくなっており、人間の抽象的な実存たる抽象的人間労働の固まりにすぎず、それ故価値はむしろ人間自身の現存在している姿なのである。

 かくしてマルクスは商品関係を物と物との関係としてでなく、人間の社会関係として把えている。従って商品交換の主体はそのような商品自身(=人間)なのであって決してそれを所持する者ではないのである。

 商品の物神性論についてもこのようなマルクスの独特の物についての把握に基づいて展開されており、その点を了解しておく必要がある。私見を挿むならば、マルクスの物に対する把握はやはり物と人間を抽象的に対立させる見地に立っており、効用(使用価値)と価値の論理的関係が正しく把握されておらず、廣松氏流の解釈につながる弱点を持っている。この点については後に詳論したい。

 ともかくここでは価値の社会的実体である抽象的人間労働を持っているのが決して商品所持者ではなくて、商品そのものであるという自明の事実さえ確認しておけばよい。何故なら、マルクスは商品交換を生産物の交換という形をとった労働の交換という社会関係として把えているが、商品所持者はこの労働を代表することはできないからだ。というのは商品所持者は商品所持という事実でもって彼がその商品の労働の主体であるか否かを示すことはできないからである。これに対して商品自身は自已の内に労働を含んでいることによって、その労働を代表する資格を持っている。労働の交換の主体は、それが商品交換として行われる以上、商品自身である他ないのである。
 
 労働が交換されるためには、その具体性が捨象されて、同一の抽象的人問労働に還元されていることとともに、その一定量として自已を提示するために凝結していなければならない。この凝結の場として労働生産物が用いられ、具体的有用物としての労働生産物に自已を否定的に対象化するのである。

 否定的ということは次の意味においてである。抽象的人問労働は抽象的であり、単なる純粋な生理学的労働力能の支出にすぎず、非感性的な行為として自已を表出させるべきであるにもかかわらず、抽象的であるが故に、具体の抽象としてしか自已を示し得ないため、具体的有用労働として、感性的な行為どして中傷的人間労働を行なわざるを得ないことが先ず自已に対して否定的である。

 次に否定的であるのは価値という抽象に自已を凝結すべきであるのにもかかわらず、価値は労働生産物の有用性の捨象を通してしか自己を示し得ないという抽象性であるため、抽象的人間労働は自已を否定して具体的有用労働となって具体的有用物を産出し、産出した具体的有用物の否定的契機となって、その有用性の捨象を行ない、自己を価値に凝結させざるを得ないという面倒な関係においてである。このような抽象的人間労働の凝結、体化、物質化によって商品は価値を有し、抽象的人間労働は自已を交換の対象になし得る定在を得るのである。

 商品に体化された労働が交換される以上、交換されるのは現在完了形の労働であり、決して商品の外部にいる労働者がこれから為そうとしている労働ではない。近接未来形の労働は現実に交換しようがないのである。私的分業における労働とは労働主体がどれだけの社会的分業の量をこなしているか実を示す行為である。ところで近接未来形の労働は未だ実を示し得ていないのであるから、実を示していない者に対して世間の風は冷たいことは廣松氏でなくても皆その体験によって骨身に染み付いている筈だ。だからこれからもう一個その商品をつくるにはどれだけの労働時間が必要かということをその商品が示そうとしているのではなくて、あくまで自己に体化した現在完了している労働の実を示しているのである。だから私的分業における労働の交換も商品に含まれた現在完了形の労働の交換であり、近接未来形の労働の交換ではない。商品が取り結ぷ社会関係はそれ故、近接未来の分業関係ではなく、現在完了の分業関係であり、そこでの労働は実の追認の、評価の社会関係を担っているのである。

 生産物が商品となるのは、私的分業社会においてであり、もし私的分業社会でなければ生産物は商品という形態をとらないことをマルクスは物神性論の個処で強調している。その意味ではたしかに商品は私的分業社会を前提している。そこで廣松氏は私的分業の社会的諸関係を説明する機能的概念として商品を把え、生産物そのものは商品ではないから、商品は社会関係でしかなく、社会関係から生産物が商品と見なされているにすぎないのであって、商品自身を物的な定在、実体的な実在と見ることを物象化的倒錯視とされるのである。

 しかしマルクスの立論は資本主義的生産様式の歴史性の認識に立って、これを永遠のものと憶い込んでいるブルジョワ経済学を批判してかく語っているのである。私的労働に基づく分業関係と商品交換は相互に前提し合っているのであって、決して一方的に前者が後者を規定しているわけではない。抽象的人間労働を体化した商品の相互関係として私的労働に基づく分業関係は成立しており、それだからこそこの分業関係が生産物に内包している価値量を生産に社会的に必要な労働量と見なし得るのである。

 ちなみにマルクスは物神性論においても、価値論を再措定する際に「新たにもう一つ生産するのに必要な労働時間」としては把え返えしていない。未稼動の労働時間と誤認されるような表現は慎重に避けている。この点、廣松氏の物神性論に対する位置づけとは明らかに矛盾する。

「互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫かれるからである」(国民文庫版『資本論』p.139〜140)「生産物の生産に社会的に必要な労働時間」がその生産物の生産のため要した社会的に平均的に必要であった労働時間を意味しており、抽象的人間労働の凝結量を指すことを疑う根拠も必要もどこにもないのである。たとえこの「科学的認識」をマルクスはブルジョワ経済学の認識として批判的に把えているのだと解釈してみても、その他に物神性論には、価値量が未稼動の労働時間を指していると思われる個処は一切ないのである。「必要」という言葉が機能的な響きを持っているからと言って、実体的な労働の凝結が仮現であると帰結するのはあまりにも強引ではあるまいか。

 ●第二章 第2節に進む              ●第一章 第2章に戻る       ●目次に戻る