第2節、抽象的人間労働の凝結について

           a、「単なる生理学的労働カ能の支出」と「社会的実体」

 具体的有用労働の対象化、凝固すら字義通り把えようとはされない廣松氏にあっては「抽象的人間労働の凝結」というマルクスの表現は到底素直に受容できる代物ではない。「抽象的人間労働とは、実は、或る社会関係の物象化的表現なのである。従って、また、人間労働の物化、凝結、対象化という言い方も、へ-ゲル学派的な意味での「人間の類的本質力としての労働の外化」「疎外」ではなく、社会関係が倒錯視的に物神化された世界了解に即しての、便宜的な言い方にすぎない。」(『マルクス主義の地平』p.231)

 社会関係が倒錯視的に物神化された世界了解に即してという表現は次のことを意味している。ある社会関係が維持されるためには生産が行われ、その生産物が配分され、消費されて再生産が行われなければならない。私的分業社会では生産物は私有されているから、各人の必要を満たすためには生産物を交換し合わなければならない。その際妥当な交換比率が必要である。この交換比率は再生産に必要な労働時間を基準にしたものにならざるを得ない。さもなくば必要量が少なくても高く評価される生産物に労働が集中し、その結果、生産物が不足したり、過多になったりするだろう。商品交換が繰り返えされ汎通している社会ではやがてその間の事情が反省され、生産物の交換比率がそれに必要な労働時間によって規制されていることが対自化されるようになる。しかしその際、労働時間を代表しているのは生産物であるから、あたかも、生産物に労働時間が内在し、凝結しているように思われるのである。抽象的人間労働が凝結していると考えれぱ価値が商品に内在しているように把えられ、ぞのことによって価値法則が説明され、商品交換の原理が一応理解できる。だからマルクスは便宜的、暫定的な了解として、抽象的人間労働の価値への凝結を文言しているのだと廣松氏は考えておられる。

 もちろん労働が実際に凝結するものと考えている我々にとっては「便宜的、暫定的な了解」ではない。抽象的人間労働が価値に凝結しており、それを根拠にして価値法則を導出できればよいのであって、各商品に投下された労働量が再生産に必要な労働量に一致するという機制もその中で明らかにされ得るものである。

 何故、それが倒錯視なのかはそもそも労働の凝結を倒錯視として把えるところに最大の動機があるのだが、氏は抽象的人間労働のマルクスの規定に色々な矛盾を発見し、それを傍証しようとされる。

 マルクスは、先ず商品を交換を前提にして把えている。使用価値(=効用、私は「使用価値」という言葉を使用することには低抗を感じる、『資本論の人間観の限界』参照)と交換価値を持つものとして先ず把えることになる。そのうえで何故交換価値を持てるのかが問題とされ、二種商品が等価値を持つからだとされる。この等式において使用価値(効用)は捨象され、量だけか関心事となり、専ら二種商品は抽象的な価値物として把えられる。そして何故等価値在のかが問われるが、その際両者が等しいのは同一量の労働が投下されているからだと考えられる。

 このように等式の両辺に置かれた労働は、実は質的に異なった具体的有用労働なのだが、質的差異は量的関係においては無関心にならざるを得ず、捨象して考察されなければならない。従って、価値を形成する労働は単に生理学的な労働として抽象的人間労働として分析される。

 だから、労働生産物はこの等式においては「同じ幽霊みたいな対象性、無差別な人間労働の単なる凝結しか残留していない。ーーーこういう共通な社会的実体の結晶として、それらは価値、商品価値なのである。(『資本論の哲学』p.51の『資本論』からの引用、大月版では「幽霊」が「まぼろし」になっている。)

 このようなマルクスの分析に対して、廣松氏は対話の形で「実在的なものはすべて捨象されてしまっているのだから、レアールには何も残留しない筈だ]と質問者に問いかけさせ、だから『「幽霊みたいな対象性」と言っているじゃないか』と反応する。(同書p.53)それがあたかも実体的に存在するかのように受け止められるのは『社会的実体の結晶』だからであり、言い換えれぱ社会関係が商品に物象化しているから、そのような倒錯視が生じると廣松氏は解釈されるわけだ。

 さらに氏はマルクスが一方で抽象的人間労働を純粋に生理学的な労働力能の支出としながら、他方で社会的実体の結晶とする事を矛盾としている。(同書p.55)

 では廣松氏が先の引用で・・・・とされた個処を補ってみよう。「労働生産物に残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。

 これらのものが表わしているのは、ただ、その生産に人間労働が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値-商品価値なのである」(国民文庫版「資太論」p.77)

 マルクスの文面を素直に読めば「無差別な人間労働の凝固」「人間労働の積み上げ」「社会的実体の結晶」はどれも抽象的人間労働の凝固についての説明であり、言い換えにすぎない。生理学的云々も「無差別な人間労働の支出」「支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出」を指しているのだから「社会的実体の結晶」と別物ではないのである。マルクスは「社会的実体」を「無差別な人間労働」つまり抽象的人間労働として把えているのである。「共通な社会的実体」とは商品関係が社会関係であるという把握に基づいて立言されており、社会関係として成立させるための共通性、同一性を意味している。やはり抽象的人間労働のことなのである。廣松氏は生理学的云々では個人的営為を表象され、社会的実体では社会関係全体を表象されて、そこに矛盾を見出されておられるようだが、それはこの交換関係における二種商品の等置という事態を分析の前提としていることに無関心だからである。

 交換関係はそれ自体社会関係である。二種商品が等置され、そのことによって使用価値(効用)は捨象され、等量の価値物として把握される。また、その根拠として、双方に投下された労働が量的に等しいとされ、かくして労働の質も捨象される。こうして労働は抽象的な労働として、同一の人間労働力の支出として把握され、その凝結したものとしての等量の価値が双方の商品に内在していることになる。しかし、この価値は使用価値を捨象したものとしては目に見えないし、つかまえることもできない。だから幽霊のようなと形容されたのである。かくして価値関係としての社会関係が二種商品間で成り立つが(もっとも関係の論理は価値形態論で展開されるが)、この社会関係の実体、即ち社会的実体は、今や無差別となり、同一性に還元された人間労働であり、抽象的人間労働である。だから社会的実体の結晶と純粋に生理学的な労働力能の支出である抽象的人間労働の結晶とは全く同じ意味である。

          b、抽象的人間労働の歴史的相対性

 さらに広松氏の指摘を議論が多岐にわたることを恐れず辿ることにしよう。「『凡そ労働というものは、一面では、生理学的な意味での人間労働力の支出であって、この抽象的人間労働という属性において、労働は商品価値を形成する。』というテーゼだが、この規定でいけば、人間の労働というものは社会的編成の如何にかかわらず価値形成的ということになるだろう。つまり、労働が人間の生理学的力能の支出である限り、労働生産物は必ず価値物という性格を持つ筈だということになる。すなわちこのテーゼを額面通り受けとれば、原始共産社会であれ、未来の共産主義社会であれ、生産的労働が行なわれる限り、当の生産物は単なる使用価値ではなくて、同時に価値物でもあるということ、従って、それは商品の生産だということになる。これはおかしな話だろう。」(『資本論の哲学』p.57、以下『哲学』は同書を指す。)

 廣松氏が引用されているマルクスの文章は第1章「商品」の第二節「商品に表わされる労働の二重性」の末尾にある。マルクスはこの節で商品に含まれている労働が一面では価値を形成する抽象的人間労働であり、他面では使用価値(効用)を形成する具体的有用労働であることを説明しており、両者の具体的な内容を展開した後で最後にまとめの形で「すべての労働は」と述べているのであって、これがその前に「商品に含まれている」という言葉を省略したものであることは自然に理解できるように書かれている。廣松氏の引用を続けると「すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を形成するのである。」(国民文庫版p.91)

 
あくまで第二節「商品に表わされる労働の二重性」の説明であり、そのまとめである。まとめの部分が表題を超越して労働一般についての論述であるかのように解するのは文脈を無視した解釈と評さざるを得ない。ただし労働を商品を形成する活動に限定して解釈するなら別である。そうすれぱ廣松氏のような疑問はそもそも生じないであろう。

 共同体においては商品関係がないのだから労働が商品価値を形成することもまたあり得ない。しかし生産物の評価、労働の配分、生産物の分配において、価値法則がどのように作用するか、またどのように価値法則を利用すべきかという問題が残っているという議論もあり、別稿で詳論したい。

 ともかく廣松氏の引用部分は「生産的労働は使用価値生産的ではあっても、必ずしも常に価値生産的ではないと述べている条りと矛盾する」(「哲学」p.57〜58)ことはないのであり、氏の文脈の取り違えである。商品を形成しない労働は使用価値を形成しても価値を形成することはないというのは同義反復である。

            C、労働時間と価値量の関係

 廣松氏はさらに続けて「『同じ労働は同じ時間には、生産力がいかに変動しようともつねに同じ価値量を生み出すのである』と(『資本論』ではー筆者)明言されている。この立論は、抽象的人間的労働という価値形成的な労働というものが、まさに一切の社会的属性を捨象して、純然たる生理学的力能の支出という規定で押えられているところから、そこではじめて可能になっている主張だと思う」と質問者に問わせ、これに対して「同一時間の労働は生産力が変動しようとも依然として同一量の価値に体現される、というようなこういう俗流中の俗流的投下労働価値説は決してマルクスの採るところではない」と断言される。「俗流」投下労働価説(私見によれぱ俗流投下労働価値説とは労働時間を時計で計れると単純に思い込んでいる人々の考えを指す。従ってマルクスも私も俗流ではない。)に組する私としては氏がマルクスが「俗流」投下労働価値説をきっばりと止揚したという論拠を提出する前に、このマルクスの論述を弁護しておきたい。

 この論述は使用価値の増大に反比例して価値が減少することがあり得ることを労働の二面的な性格から説明している個処であって、生産力が増大してより多くの使用価値を同じ労働時間で生産するようになった場合、一商品当りに投下される労働時間は当然少なくてすむから、一商品の価値も減少することを説明している。このことは生産性の向上が遅い一次産品の値上りが、生産性の向上が速い二次産品の値上がりより相対的に大きいという事実によっても証明される。これを悪用して、独占資本が二次産品の相対的値下がりを独占価格を設定して抑制することによって独占利潤を獲得するという現象が生じている。この価値法則の蹂躙という現象を暴露するのも、このような「俗流」投下労働価値説で行われている。

 もちろん生産力が変動しても同じ労働時間は同じ価値を生み出すというのは、同一種類の商品の生産力の増大が平均的に遂行されるという仮定に立った立論である。つまり平均的な生産力の増大によってその商品一個あたりの価値は減少することが価値法則なのである。かく解すれぱ「同じ労働は同じ時間には、生産力がどんなに変動しようとも、つねに同じ価値量を生み出す」というマルクスの論述は法則的、原理的、原則的に正当であるだけでなく価値法則の根本である。

        d、「俗流」投下労働価値説批判の論拠

 では廣松氏が「俗流」投下労働価値説批判の論拠をいかに持ち出すかを見ていこう。

先ず氏が引用されるのが、マルクスがアダム・スミスの支配労働価値説を評した下りである。ある商品の価値はその商品が支配し得る相手商品の労働時間に当たるというアダム・スミスの説は価値の意味を他者に対する支配という相で把えた絶賛すべき把握なのだが、マルクスはこれを批判的に把えており、抽象的人間労働の等置、つまり社会的労働(社会的実体)の等置として、社会的に規定されていないから不十分だとしているのである。(MEW.Bd.26.S.46f)ところがこの文章に「私の労働または私の商品に含まれている労働がすでに社会的に規定されており、その性格が本質的に変わっていることをアダムは見落している」とあるのを把え、やはり社会的規定を生理学的云々の抽象的人間労働と矛盾するものと考えて、「だから『資本論』を書いた時点でのマルクスの真意は、決して生理学的に抽象化された労働力能ということでは規定できない筈だ」(『哲学』p.60)とされるのである。

 同様に次いで引用される『経済学批判要綱』の文面についても「実体としての社会的労働」と「生理学的力能としての抽象的人間労働」を矛盾したものとして把え、「実体としての社会的労働」は「関係としての措定」であり「常識的にいう意味での"実体"規定ではない」とされる。(『哲学』p60〜62)

 しかしマルクスが抽象的人間労働を分析的に折出する際、商品交換という社会関係が前提されていたのであって、その意味で「生理学的力能の支出」は抽象化された人間労働の形容であり、社会的実体を成している。交換という社会関係が前提であるから抽象的人間労働(生理学的云々の)は「社会的関係」によって規定された「関係規定」と言ってもよい。

 廣松氏は「価値」「交換価値」「商品」はみな関係規定であると強調されるがそれは解り切ったことである。ただし関係規定はまた、実体規定でもなければならない。両者は対立させてとらえてはならないのだ。だからマルクスは「フォイエルバッハ・テーゼ」で「人間は社会的諸関係の総体」であると述べているではないか。しかしこの関係たる人間は生身の身体として定在していること
も忘れてはならない。この人間の純粋に生理学的な労働が凝結して体化し、抽象的な人間となっているという規定性において、労働生産物は価値物であり、商品なのである。かくして単なる自然物ではなくなり、社会的実体の結晶としての価値を対象化し、商品は社会的関係を、つまり人間関係を担うことができるのである。

 廣松氏が抽象的人闇労働の凝結に対して論難される中で最も自信を持って主張されるのはマルクスの次の引用に関してであろう。「商品は使用価値としては或る独立なものとして現われる。これに反して、価値としては単に定立されたものとして、つまり、単に、社会的に必要で、同等な単純な労働時間に対するその商品の割合によって規定されているものとして現われるだけである。このようにまったく相対的なものであるから、再生産に必要な労働時間が変わるならば、たとえその商品に現実に含まれている労働時間は変わらないとしても、その商品の価値は変化するのである。(MEW.Bd.26.S.154)このことは『資本論』の読者ならぱ明解なことである。

 ある商品の価値は抽象的人間労働(社会的に必要で、同等な労働)を幾時間分凝結しているかによって決まるが、同一種類の商品全体の平均的生産力が変化すれば、その商品は同一種類の商品の平均的な労働時間を凝結しているとしか評価されないから価値が変動する。全く当然の事である。半分の労働時間で同一種類の商品が生産されるようになれば、最早、その商品はこれまでの価値を維持しえない。しかしこのことから投下労働価値説が否定されるわけでは決してない。やはり価値の実体は投下されている、含まれている労働時間であるし、たとえ以前のように評価されないとしても、やはり幾分かの価値評価を与えられる根拠は抽象的人間労働が凝結しているからである。廣松氏は凝結してしまえば変化できない筈だから価値量が変化することを認めることは投下労働価値説を放棄することになると憶断しておられる。そのような批判は労働時間を単純に時計で計れると考えているような俗流投下労働価値説に向けられるべきである。

                 e再生産に必要な労働量と価値量

 ここで廣松氏がいかにこのマルクスの立論に勇気づけられているかを拝見し、その内容を吟味することにしよう。

 「コメントを挿むまでもなく、マルクスが価値の実体として、したがってまた、価値の内在的尺度として『労働』を云為するとき、その労働量は、現実に投下されて凝結している労働量ではなくして、それを現時点で再生産するとした場合、現時点の生産性の水準のもとで、再生産のために社会的に必要とされる労働の量なのであり、この「社会的実体」は決して不易な形而上学的実体なのではない。それは、その内実においては、一種の社会的な関係規定なのである』(『哲学』p98〜99)

  廣松氏のこの文面はそのものとしては正しい部分もある。確かに現実に投下されている労働量は生産物に表示されているわけではない。だから再生産に必要な労働量から逆に凝結している労働量を類推して、その価値尺度とすることはあながち不当ではない。しかし、再生産に必要な労働量はあくまで類推的な価値尺度であって、価値実体を成しているわけではない。価値実体はあくまで凝結している労働量であって、これに取って替わることはできない。氏の意図は再生産に必要な労働量を凝結している労働に取って替わらせ、抽象的人間労働の凝結を商品の物神性に起因する物象化的倒錯視として卻けることにある。

 廣松氏の意図を明瞭にするために長文に亘るが次の文面を紹介しておこう。

「再生産のために現在的に必要な労働量というこの規定が労働価値説のプロブレマティックを一変せしめるものであることは駄目押しするまでもあるまい。それはリカードを苦悩せしめ、ベイリーをして古典派批判の一章を設けしめた『異時における価値比較』というアポリアの解消という域を越えて、実は存在論的了解の推転をもたらす体のものである。

 価値の内在的尺度であり実体であるところの労働(労働時間・労働量)が、もし投下され、対象化されて"凝固"している過去の労働(その量)の謂いであるとすれば、当の労働量そのものは固定的な大きさを保つ。つまり、例えば十時間の労働が対象化されているという事実性は、たとえその後に生産性の変動があったとしても、もはや変化の仕様がない。(そこで仮に同一製品が今日では五時間の労働で生産できるようになった場合、旧製品は新製品の二倍分の"労働量”を含むことになる。ここにおいて、価値の内在的尺度=実体たる労働(量)なるものを悟性的に固定化して"投下されてる"労働量なりと考えるとき、かの異時における価値の比較をめぐるアポリアが生ずることになる)。

 これに対して、再生産のために社会的に必要な労働量は、或る製品にどれだけの労働が現実に投下されているかという事実性からフリーである。たとえ十時間の労働を要した製品であろうとも、現在の社会的生産性のもとでは、それが五時間の労働で再生産されうるならば、当の製品は五時間分の「労働量」の対象化物とみなされる。

 こうして、価値の内在的尺度、かの『共通の単位』『価値実体』は自己完結的に固定的なものではなく、まさしく歴史的、社会的な諸関係の一結節ともいうべく、社会的諸関係の"函数"である。

[−この「再生産のために社会的に必要な労働量」の存在性格、これがいわゆるentityではありえないこと、それが特異な存在性格をもつことまでは容易に理解されよう。因みに『価値尺度としての労働時間はイデアールに存在するにすぎないので、価値(ママ)比較のマテリーとしては役立たない』旨をマルクスは既に『経済学批判要綱』(S.58f)のなかで書いている]。」

(ママの個処は「価格」の誤植である。
Weil die Arbeitszeit als Wertmaß nur ideal existiert, kann sie nicht als die Materie der Vergleichung der Preise dienen.)(『哲学』p.104〜105)

 抽象的人間労働を折出する際、マルクスは具体的有用労働を捨象し、労働の質的差異をことごとく捨象して同一の労働として把える。ということはあたかも同一の労働力能を有した、つまり同一の生産性を持った人間の労働が両商品を創出したかに把えることによって正当な資格で交換し合えると考えたのである。生産物の交換は生産物の価値評価であり、結局はそこに対象化された労働に対する評価である。どれだけの労働が費やされたかは、生産物に凝結した形で表現されているのであり、生産物を見て判定するしかない。ところが生産物には当然凝結された労働量の表示はない。「価値尺度としての労働時間はイデアールに存在するにすぎないので価格比較のマテリー(材料)にはならない」のである。

 たとえ現実に費やされた労働時間に大きな開きがあっても、真実にどれだけの労働がこめられているのかはそれでは解らない。もし両者が交換されたら、それは等量の労働がこめられているということになり(もちろん、一回の偶然的な交換ではなく、交換が繰り返えされるうちに法則的、平均的に一定割合で交換される場合)、その本当の労働時間が暴露されることになる。

 ともかく、労働も一人よがりの労働時間であってはならず、社会に通用し、認められる一人前の労働、労働時間でなければならない。その意味で「社会的に必要で、同等な単純な労働時間」でなければならないのである。つまりは「社会的実体」とならなければならない。

 抽象的人間労働は世間の風に当って厳しく評価されるので、優れて「社会的な関係規定」である。だから当然、生産性の向上によって、旧来の労働力能による労働時間は低い評価を受けるはめになるが、平均以上にかかった労働時間は平均的な労働時間に還元されるのが運命である。実際に客観的にはこめられている労働時間は減少したのであるから。ところが廣松氏にはその間の事情がどうもよくのみこめないらしい。氏はもし過去の労働が凝固して固定しているのだったら、価値量もも固定し変化しようがないと信じ込んでいるのである。

 労働紙幣を発行し、労働時間に応じてそれを各労働者に給付しようという妙案を考えついたブルードンやダリモンらもそのような固定観念に支配されていた。というのは例えば十時間の労働に対して「十時間」という名称入りの紙幣を給付するとする。それを受け取った労働者があまり日を置かず十時間分の生産物を購入すれば混乱は少なくて済む(価値と価格の直接的一致を前提しているのでやはり混乱はあるが)、しかし、その労働者が倹約家で貯蓄意欲に燃えて労働紙幣を退蔵したとする。また生産性は不断に向上し、過去において十時間でつくれたものが現在ではわずか五時間でつくれるようになったとすると、現在の十時間の労働は過去の二十時間の労働に相当することになるのでこの労働紙幣の価値は倍化することになり、公平な分配は不可能になる。

 廣松氏はそこで短兵急にだから労働の凝結という前提そのものが背理なのだと論結しようとされる。それはさておき、プルードンやダリモンが労働紙幣を主張した論理は価値は労働時間によって規定されており、この労働時間は体化されたものであるので固定しているから、価値変化が生じることを考慮に入れる必要を認められなかったのである。(『経済学批判要綱』「貨幣に関する章」特に廣松氏の引用部分の前後を参照されたい。)

 プルードンやダリモン、さらに廣松氏の固定観念の誤まりはどこにあるのか。それは投下された労働時間が絶対量として悟性的に把えられていることにある。マルクスにあっては、労働時間は生産物に投下され凝固して、生産物の価値の実体となっており、一定の生産物を創造する労働量がその生産物の労働時間である。従って同量の生産物(同一種類の同一品質の)を創造した労働量は等量であり、労働時間も同一である。もし時計で測った労働時間によって価値が決定されると考え、これに労働紙幣を発行したらどういうことになるか、プルードンのこの種の提案に、マルクスが『哲学の貧困』で断固反対したのは当然である。なまけものが得をするのは自明なのだから。

 社会主義の分配原則は「労働に応じて」と言われる。これには私個人としては原則的に反対であるが、それはさておき、マルクスがその際、時計で測った労働時間を念頭に置いていないことは明らかである。あくまでどれだけの品質の製品をどれだけ産出したかが労働の内容となり、分配の基準となるべきだとマルクスは考えたに違いない。

 このような視点から労働時間を見直すとき、一人よがりの労働時間は、一人よがりの勉強時間と同様、全く信用できないことが解る。本当に十時間分労働がこめられているかどうかは決して時計の針と一緒に十時間働いたという事実からはでてこない。その職業に専門的に携わっている労働力能の平均的な十時間分の生産物を実際に創出できて始めて十時間分働いたと世間では認められるのである。マルクスが世間と同様、労働時間について厳しい見方をしていることは疑えない。

 このように生産物から労働時間を見返えすことで「異時における価値比較のアポリア」も解消する。何故なら、過去の十時間分の労働は現在の五時間分の生産物しか創出しえていないのであるから、その生産物の価値が半減するのは当然である。その際、過去の十時間分の労働も、現在の五時間分の労働と等置され、労働時間も半減していると評価されているのである。(実際は逆に時間の倍化)

 時間概念を検討する際、時間を地球の自転運動を基準に考えることは日々の生活にとって極めて有益ではあるが、労働量を計測する際、この基準は極めて信用できないものである。時間を物質の運動量、変化量として相対的に把え直す作業は現代物理学によって為されたが、マルクスは既に世間の常識を対自化して、労働時間の検討において相対的な時間論を打ち出しているのである。

 このように相対的労働時間論は、投下労働価値説と矛盾しないばかりか、投下労働価値説に依拠しているのである。もし労働が凝結するのでなければ、労働時間を比較することは正しくできない。何故なら、その場合は労働時間は物化しておらず、従って生産物は労働時間を代表する資格に欠けることになり、どれだけの労働が投下されているか問うことはできない。そこで労働時間は一人よがりな主張を始めることになる。「十時間たしかに自分は働きました。だから十時間分の生産物を下さい。」そうなればなまけ者は得をするし、異時の価値比較のアポリアにぷつかり、市場は混乱し、公平な分配は行えず、社会は必ず破綻する。

 また生産物が労働時間を凝結していることによって生産物が労働時間を代表しないでも、生産物の再生産に要する労働時間がどうして割り出されるのか疑問である。たしかに個々の生産現場では経験的に幾時間分かは捉めても、それが社会的に必要な平均労働時間に対してどれだけの割合になるかは交換を通して生産物に対する評価を通して評価されるのであるから、やはり生産物に労働が何らかの形で含まれていると解さなければならない。市場原理のない共同体的計画経済なら別であるが、市場経済では生産物の交換が労働時間を査定するのだから、生産物自身に労働時間が含まれていると解すしかない。

 廣松氏の指摘された投下労働価値説の欠陥は、労働時間を時計で測れると憶い込んでいる俗流投下労働価値説の欠陥であり、マルクス流の投下労働価値説には当てはまらないことが了解されたと思われる。「異時における価値比較の了ポリア」も相対的労働時間論によって解消するし、投下、凝結を前提して初めて解明されるのである。

  ではいよいよ後半部分である。「再生産に必要な労働時間が変わるならば、たとえその商品に現実に含まれている労働時間は変わらないとしても、その商品の価値は変化する」というマルクスの立論自体は、相対的労働時間論に立った立論と解すれば、投下労働価値説と矛盾するどころか、労働の投下、凝結をかえって前提していること再言するまでもなかろう。ところが廣松氏は、価値実体、価値の内在的尺度としての労働を現在の水準で新たに再生産のために社会的に必要な労働とされ、これを投下され、凝結している労働ではないとされる。つまり生産性の向上によって以前より少ない労働時間しか含んでいない同一商品の出現によって、内包されている平均的労働時間が減少し、その為に既存商品の価値が減少する事態の説明としてマルクスの立言を解さないわけである。

 廣松氏の論法でいくと、再生産のために必要な労働時間が短縮されると価値量がそのような新製品の出現に影響されて減価するのではなく、唐突にも新たな生産力に基づく再生産に必要な労働時間が価値量を規定してしまうことになる。しかしこのような論法は衆人を納得させることはできないだろう。何故ならたとえ再生産に必要な労働時間が減少しても、旧製品が市場に残っている限り、平均的な労働時間は旧製品と新製品(もちろん同一品質で生産性のみ異なることは前提)の双方を含んだ平均的労働時間となる筈だからである。例えば新製品と旧製品の市場に占める割合が半分半分で、一個あたり必要な労働時間は新製品の場合五時間になっており、旧製品は十時間労働を平均的に必要としたと仮定しよう。その場合、両製品とも同一価値量を含んでいることになり、その労働時間は七時間半であったことになる。つまり旧製品を作った十時間と新製品を作った五時間は、生産物から把え返す相対的労働時間論からは共に七時半の同一労働時間なのである。そしてこれが価値実体であり、価値尺度である。

 廣松氏の議論では新製品に含まれた労働時間でさえ価値を規定することはできない。何故なら広松氏は「再生産」の「再」の字に執着しておられるからである。価値を規定するのはあくまでこれから新たにもう一つ作り出すために社会的に必要な労働時間であって、まだ稼動していない近接未来形の労働時間である。つまりどれだけ労働時間を要したかではなく、どれだけ要するのかが問題だと言われるのである。

 これから稼動する労働時間が商品交換の際に商品所持者の意識に心理的な影響を与えて価格の変動に一定の作用因になるというのなら素直に納得してもよいが、現実に流通している商品の総労働時間とその商品の数量によって価値を規定しないで、それらを無視して未稼動の労働時間を想定して価値量を規制するという発想は実に大胆な発想の転換であり、主体・客体図式を超克し、近世的な世界了解の地平を越えて進んでおられる廣松氏ならではの非凡な着想である。従って我々には容易に納得し難い。

 氏の任務はこの未稼動の労働時間が一体どのようにして、既に完成され市場に流通している諸商品の価値実体となって価格形成の主要因となるのか、その仕組を具体的に展開されることである。それが果されない限り投下労働価値説は微動だにしないだろう。

 廣松氏は再生産に必要な労働時間を分業組織における労働配分とそれに基づく機能的な生産物分配の視点から機能的に取り扱われようとされる。そこでは各商品は再生産にはどれだけの労働時間が要りそうだという商品所持君の推量が交換を遂行し、それが法則的、平均的に、再生産に必要な労働時間に一致すると仮定されている。もちろん、そのように把えることもあながち極端な誤謬ではないし、一定の現象的説明としての有効性もあるかもしれない。しかし価値を価格形成の基準として把え、現実の経済現象を根本的に科学的に解明しなければならない場合にそれでは不充分である。というのは現実の価格は生産物の需給関係によって変動を規制され、その変動の中心点は生産物の総労働時間を生産物の総量で割った一個当りの平均的な必要(これからではなくて既に要した)労働時間になっているからである。

 つまり再生産に必要な労働時間がどうであれ、現に手に入れなければならない商品の価値は既定のものでありそれに従わなければならない。これから五時間で作れるものでも市場に出回っている商品の平均必要労働時問が十時間であれば、十時間分の価値に照応した価格で買わざるを得ない。逆に過剰に作りすぎたため、大量生産によって一商品当たりの労働時間が節約できた生産物を取ってみよう。この商品の価値は少なく、価格も暴落してその価値以下であろう。しかしここでは価格については
問えない。過剰な製品の生産は手控えられ、減産されるので、大量生産の利点は減り、一商品当たりの再生産に必要な労働時間は増大し、価値も増大する。しかるに、この再生産に入る時点の市場に出廻っている商品の価値は、減産計画の実施時点で突然、新たな再生産に必要な労働時間の水準に引き上げられるのだろうか。そのような議論の説得力をだれも認めないだろう。やはり、市場価値に変化はないが市場価格を引き上げる投機的な要因になると考えるのが妥当ではなかろうか。

 ところが広松氏は恐らくそのような反論に動揺されるとは思われない。氏の論理は投下、凝結を否定して、社会的な協働関係からの反照規定として価値を把える以上、この価値を規定する再生産に必要な労働時間がどの程度経済現象を左右するかは柔軟に受け止められておられるだろう。つまり、機能的に重要な要因として再生産に必要な労働時間が把え返されておれば事足りるのであって、それだけで説明がつき難い現象には別のファクターを導入すればよいわけである。従って我々も投下労働価値説に向けられた氏の論難を相対的労働時間論によって克服し、再生産に必要な労働時間を価値実体に比定される難点を指摘できたのだからこれで満足すべきだろう。ただ、マルクヌの次の引用に関しては、どうしてもコメントしなければならない。

 「或る商品に含まれている労働時間とは、それの生産に必要な労働時間、すなわち、与えられた一般的生産諸条件のもとで、同じ商品を新たにもう一個生産するために必要な労働時間である。」(MEW.Id.13.S.19)

この文章は素直ではない、何故なら、「成る商品に含まれている労働時間」は既に「含まれている」のだったら「新たにもう一個生産するために必要な労働時間である」筈はない。従って文意をどう解釈するかがわかれ道である。廣松氏は「含まれている」というのは「含まれていると思われている」と解さなければ何故わざわざこのような矛盾を含んだ立論をしたのか理解できないと解釈される。つまり「或る商品に含まれている(と思われている)労働時間とは、(実は含まれているのではなくて)」と解釈されるわけである。

 マルクスのこの文章の前後の文脈を読み返えしてみると「新たにひとっ生産するのに必要な労働時間」とば再生産Lと同義であり、決して「新たな」という意味は未稼動の労働時間と既に含まれている労働時間との相違を積極的に表明しているわけではないことがわかる。

 「交換価値が労働時間によって規定されるということは、さらにある一定の商品、たとえば一トンの鉄のうちには、
それがAの労働であるのかBの労働であるのかには無関係に、いずれも同じ量の労働が対象化されているということ、あるいは、量的質的に一定の使用価値を生産するためには、それぞれの個人が同じ大きさの労働時間を用いるということ、を前提している。いいかえれば、ある商品のうちにふくまれている労働時間とは、それの生産に必要な労働時間、つまりあたえられた一般的諸条件のもとで、同じ商品を新たにひとっ生産するのに必要な労働時間である、ということが前提されているのである」(同上、訳は岩波文庫版p.28)

 この文面の前半は生産物から労働時間を把え返えす相対的労働時間論が展開されており、問題の廣松氏の引用部分はあくまでその言い換えにすぎない。従って、生産物にとって必要な労働時間を指して、そこに含まれている、凝結している労働時間としているのである。つまり、労働主体にとっての主観的な、時計で測った労働時間は真の労働時間ではないことを言い直しているのである。そして「つまり」で接続されている以上、「あたえられた一般的諸条件のもとで」という意味も、労働が行われる際の生産力水準を主に指していると考えられるが、別段市場に流通してい商品の生産力水準との相違が考慮されているわけではない。かえって生産力水準の変化を捨象した議論をするために「あたえられた」という表現を用いていると考えられる。でなければ「新たにもう一っ生産するための必要な労働時間」は価値実体とはなり得ない。あくまで「新たに」にこだわるなら末尾の「である」を「とほぼ一致する」という意味に解せばよい。

 廣松氏の解釈は相対論的な労働時間論に対する無理解に基づいており、氏の投下労働価値説批判の論拠になりそうな個処を文脈を無視して引用し、自説を補強されているようにも受け取られかねない。

 抽象的人間労働が実体的に凝結しているとあるのを倒錯視的な了解に合わせた暫定的な立言であるとする廣松氏の立場を傍証するために、廣松氏が指摘された投下労働価値説の問題点、並びにマルクス自身が投下労働価値説を脱却していると思われる立言に関する引用についての議論はここまでにしよう。投下労働価値説を廣松氏の論難から擁護する任務は一応果しえていると思われるからである。我々−我々とは大部分の常識的な人間たち、即ち日々の労働で、自分の労働生産物には自分の労働が労働生産物という物になって凝固しており、労働生産物にはたしかに自分の労働が投入されており、保存されている筈だと思い込んでいる善良な働く人びとを指す。−我々は自分の認識が決して憶い込みではないこと、廣松哲学が出現した後でも、その確信を捨て去る必要は全くないことを再確認してわけばよいのである。

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