廣松渉・物象化論における「物」把握批判

この論稿は1981年発行の『季報唯物論研究3』に掲載されたものである。

              1廣松説の素描
 
世界を構成している実体、要素を物質的なものと把えるか、精神的なものと把えるかが唯物論と観念論を分けると言われている。廣松氏は、そのいずれもが主観・客観を二元的に対立させる近世的世界了解に基づくとして、端的に両者を超克しようとされる。(『マルクス主義の地平』、勁草書房、1969年)

 意識から客観的に自立しているかに思える物質は、実はそれ自体で存在しているわけではない。存在は意識された存在でしかないのである。物質の属性と考えられているのは、感覚的諸要素にすぎない。質量、密度も属性と思念されるのは、主・客を包む事態の連関を客体に一方的に固定し、物に帰属させたからである。時間・空間は物質の容器ではなく、諸事態の連関の形式を示す機能的・函数的な概念である。(『事的世界観の前哨』勁草書房1975年)

  主観的な意識も自存しない。常に何かの意識であり、何かを離れて実体=主体としての主観が自立しているのではない。
廣松氏は主・客図式を批判した上で、氏独特の四肢的な認識構造を明らかにされる。対象ば、インクのシミが文字、木材が机、身体が教師と言った具合に、「それ以上の或るもの」「それ以外の或るもの」として意味づけられて認識される。つまり、対象は、意味と素材の結合体「意味成体」として二肢構造で把えられる。

 認識主観も二肢的に把え返えされる。意味は社会的な協働関係に基づいた共同主観的形成物である。だから意味を付与するのは、社会的な存在被拘束性に即してであり、社会的に妥当する仕方に即している。従って個人は人としての普遍性において行為し、認識する。つまり、社会的連関での役柄を個人が演ずることになる。哲学者としての廣松氏、大工としての何々氏等の二肢的な構造になる。こうして都合四肢的な構造が認められる。(『世界の共同主観的存在構造』勁草書房1972年)

 この四肢構造を通して、世界は函数的な事態として構成される。この事態は主観に対峙する客観ではない。客観として主観に対峙している事態は物象化して把えられた事態に他ならない。

 世界は人間をもその函数的な運関の項として包摂する。連関の結節としての項も、それ自体函数的な事態である。それぞれの項も諸連関の結節でしかないから、それを把握するには諸連関の総体、宇宙の全体を把握しなければならない。従って、ある事態を把握するのは、体系的、弁証法的でなければならない。そこで廣松氏は主・客図式の止揚としての事、事態を原始函数として世界を体系的に構成する立場をとられる。(『弁証法の論理』青土社1980年)

     2事態函数の項としての「物」に進む   ●目次にもどる