第一章、廣松氏の「俗流」投下労働価値説に対する批判の批判

第1節、具体的有用労働の対象化、凝固、物質化について

a.自己対象化と自己疎外論の問題点

 廣松氏がいわゆる「俗流」投下労働価値説を批判されるのは、投下労働か対象に凝固して、物化、物体化、物質化するという論理を自己疎外論として受け止められているからである。廣松氏によればマルクスは自已疎外論を払拭したのであるから、自己が外化して対象に凝固するという論理を今更用いる筈はないのである。氏によれば自己を対象化すること自体、自己疎外論的発想なのである。しかし若きマルクスの自己疎外論は、自己の外化、対象化が他者の定立となり、自己に対して疎遠に振まう他者によって支配され抑圧される事態に関わっていた筈である。従って決して、自己の外化、対象化だけで自已疎外が構成されているわけではない。もちろん廣松氏もそのことは承知しておられるだろう。それ故、廣松氏によれば対象化された自己が他者となって主体としての自己
に疎遠になるという自己対象化から自已疎外への転換の論理だけを自已疎外論的発想に包むのではなくて、自己対象化も含めて自己疎外論としてしりぞけることになる。つまり、廣松氏によればマルクスが自己疎外論として払拭したのは、自己対象化まで含めた自己疎外論、即ち、主体・客体図式に基づく認識論的、存在論的な了解の構造の総体なのである。

 廣松氏は『ドイツ・イデオロギー』の研究を通してエンゲルス・マルクスがいかに主・客図式に基づく近世的世界了解の地平を超克したかを「発見」される。しかしいかに諸個人の営為が協働的関連に基づく間主体的なものであり、その認識が共同主観的なものであることが確認されたにしても、だからと言って、いかに舞台装置がそうだからと言って、諸個人の実践や認識の構造は主体ー客体図式に基づいていることまで否認しえない筈である。だから、諸個人の実践、労働、認識についての主・客図式まで自己疎外論の払拭とともに払拭する必要性はなかったと思われる。

 私の解釈では自已疎外論の問題点は次の諸点にある。(私は1984年頃から疎外論再評価を打ち出しており、当ホームページの「疎外論再考ノート」を参照していただきたい。)

 一つは自己が自己にあらざるものに自己を対象化して非自己(=他者)になり、その非自己(=他者)である自己が主体である自己に疎遠に対立するという論理では、対象化された自己、例えば資本、商品が本来の自己ではないとされることで、ゾレン(当為)によるザイン(現実)の否定という構えになってしまうことである。現実の労働者は資本であり、商品である。労働力の商品化を非人間化として把える疎外論は現実的諸個人の立場に立ち切れていない、それ故「批判的批判」の立場に止まっている。

 そのことは類的結合を実体化し、そこから現実のばらばらになっている諸個人を批判するという構えにも当てはまる。自己疎外論を払拭した『ドイツ・イデオロギー』の「フォイエルバッハ章」はフォイエルバッハの類的結合の立場から見る社会観、自然観、人間観に対して、人間の社会史がいかに現実的諸個人の物質的利害の相克で彩られて来たか、いかに諸階級、諸個人が私的利害によって時に相争い、時に協調する社会、即ち市民社会が歴史の真のかまどであったかを示している。

 このように自己対象化したものを非自己として把える把え方、ザインをゾレンから批判する批判的批判、現実的諸個人を類的結合を実体化する立場から批判する方法等が自己疎外論の誤まりであって、これらを払拭したのが自已疎外論の払拭であった。このことを私は他ならぬ廣松氏から学んだのである。

b、労働における自己対象化の論理

 では自已対象化が廣松氏からどのように批判されるか見てみよう。

「マルクスは、そもそも具体的有用労働の対象化という言い方すら比喩的に用いているのであって、現に彼は「人間は、生産において、自然そのものと同様にしか、つまり、物材の形態を変化させることしかできない」と明言している(Ib.S.57)。具体的有用労働ですらへ-ゲル的な語義での「物質化」を遂行するのでない以上、況や抽象的人間労働の「凝結」は in realiterでありえない。」(『マルクス主義の地平』(p.227)

 広松氏がへーゲル的な語義での「物質化」という時、自已意識が自己疎外態としての物質となること、精神の化肉を指している。労働の論理に援用すれば、労働が自已を対象化して物質になることが労働の自已対象化である。

 ところが廣松氏に言わせれば精神が物質になることが観念論的誤膠であるように、労働はそれ自身作用にすぎず、労働によって主体が対象の中に入って対象になるわけでもないし、労働という作用が物質になるわけでもない。即ち、物材の形が変っただけだから、労働そのものは作用として機能した後は消滅しており、物になったわけではないのだ。何故なら労働が物になるのならその分だけ質料が増加していなければならず、そのような質料の増加は一切起りえないからである。もっとも質料の増加云々は廣松氏の立言に対する私の補足であり、解釈である。この解釈は「物材の形態の変化」を労働の対象化、物質化とみる我々の見解を氏が否定する以上、自然の中に労働が新たな物質として付加されない限り労働の物質化を認め得ないという見解が帰結されざるを得ないからである。

 例えば折り紙がある。折り紙を折って折鶴にする。この折鶴は折紙の形が変っただけで折るという作業の前後には少しも質料の変化、物質の増加は認められない。従って折るという作業は物質化していないと氏は考える。もし形が変ったから、折るという作業は折鶴の形に物質化して凝固していると主張するならば、氏はそれは比喩にすぎないとその主張を却下されるに違いない。つまり、折鶴になったのは折紙だけで折る作業ではないからである。しかし折紙が折鶴になるためには折るという作業が付加されている筈で、折紙十折る作業=折鶴(たし算が妥当かどうかは措くとして)の図式が成立し、折鶴には折るという作業が挿入され物質化されている筈である。ところが廣松氏は質料だけに物質性を認められる為か折る作業の物質化は否定されるのである。労働が力学的な仕事として行われる際には一定のエネルギーの転入が認められるだろうが、機械を用いる労働は完全に自然エネルギーに依存する以上、エネルギーの投入による労働の対象化、凝固、物質化を説くことはできない。従って我々が労働の物質化を説く際にも、労働が質科の増加、エネルギーの増加を持たらすことを意味するものではない。

 へーゲル的な語義での「物質化」では精神が自己疎外態としての物質になったり、無から有の創造、バィブル的な神の言葉が物質になって天地創造することなどを廣松氏は念頭においておられるのだろうが、そのような意味においてもいわゆる労働の物質化はありえない。

 しかしマルクスが具体的有用労働の対象化という言い方を比喩的に使っていると見破ることができたのは名推理でマルクスの叙述の便法を暴くことができた廣松氏だけである。我々と廣松氏の間には「物質化」の「化」の意味に余程異なった表象が浮んでくるという溝があるのであって、そのことを自覚していないと議論は噛み合わない。我々は無から有の創造でなくても、単に形姿を変えるだけでも立派に創造と認めるし、折るという作業が折紙に鶴に似た形を与えれば、その作業が折鶴の形に物質化し、凝固していると卒直に字義通り認めるにやぷさかでない。さらに植物がでんぷんを作るのは太陽のエネルギー放射の物質化だと認めてもよいし、或いは、葉緑素の作用の対象化だと認めてもよい。

 主・客図式を超克してしまっている廣松氏から言えば、このような把え方は、自然の相関的な関係のどこかに視点を置き、勝手にそれを主体にして作用主体を仮想し、そこから能動−受動を措定して、受動の変化を能動の作用の成果と一面的に観ずるところからくる倒錯視と見なされるべき妄論であろうか。

 しかし作業、作用、労働と言った言葉は既に主・客図式から物の相関関係を把えているのである。たとえ相互作用と見なした場合でも主体即客体、客体即主体の主・客図式で把えざるを得ない。関係そのものを実体化してその関係の両契機として両者を把える視点では、作用そのものが視圏から消去されてしまい、両者の様態の変化だけが記述されるにすぎない。その記述の後でやはり両極に視点を置いて主体、客体図式から記述を解釈し直す必要が生じるだろう。なぜなら人間はやはり作用の主体として、実践主体として振まわなければならないからである。
 
 我々のいう唯物論は決して質料主義ではない。我々は物質を質料と形相の統一として理解しており、へーゲル哲学を唯物論的に転倒したマルクス・エンゲルスの立場も単なる形相主義に対する質料主義であったとは思われない。だから質料の増減と労働の物質化を直接結びつけて考える必要は全くない。例えば木材が机になったとする。確かに質料に増加はない、むしろくずの分だけ減少している。しかし机という形が造られた。これは単なる形の変化に終るものではない。新しい物質の創造である。何故なら今や木材という物質は消失し(机が木製であることは机が木材であることを意味しないから)、机という物質が生じた。机を成している木は単に素材にすぎない。この机が木製であるかスチ−ル製であるかは机の感触、耐久性等を左右するに過ぎない。最早木材であることは机にとって絶対的な要件ではないのだ。我々はこのように机を全く新しく創造された物質として把握する。

 では一体、この新しい物質は何によって生み出されたか。労働である。机は労働の成果であり、労働が行われたという事実は机をみれば解る。机という生産物の形姿の中に、目に見える物質の形で労働は保存されている。これを労働の物質化と表現するのは比喩であろうか。

 廣松氏は木材が机になったのであって労働が机になったのではないと強弁されるであろう。例えぱ炭水化物はブドウ糖に、蛋白質はアミノ酸に最終的には分解される、これが消化である。その際、分解したのは作用因としては消化酵素であるが、消化酵素がブドウ糖やアミノ酸になるわけでもない。ブドウ糖に変ったのは炭水化物であるし、アミノ酸に変ったのは蛋白質である。

 たしかにその意味では労働が成果に化けることはない。しかし労働は跡形もなく消え去るのではなくて労働生産物の中にはっきりと刻印を残し、いかなる労働が行われたかは労働生産物を見れば解る。つまり物質に対象化されているのである。消化酵素がどれだけのブドウ糖やアミノ酸を造り出したかは、ブドウ糖やアミノ酸の量に対象化されているし、画家が何をしたかは彼の作品を見ればわかる。生産物という物質に労働は自已の姿を表現しているという事実は廣松氏も否定し得ないであろう。

 労働がこのように物質を産出して、そこに自已の姿を表現している事実、これが労働の対象化、物質化、凝固である。 また労働は決して労働している姿だけで自己の何であるかを示すことはできない。この事実に刮目すべきである。むしろ生産物という物質において、物質という形姿を自己の痕跡とするのである。大工は決してその動作の巧みで彼の仕事を表現することはできない。彼が建てた家屋が彼の仕事であり、我々は家を見て大工の仕事振りを評価するのである。大工の仕事は家屋そのものであり、我々は労働生産物に労働を物質化された姿で見てとることができる。労働生産物の中にこのように労働は止揚され保存されていること、このことを承認しないで我々は労働の何たるかを決して把握できないだろう。それでも廣松氏は労働生産物に労働が自己を対象化して示すことを労働の対象化、体化、物質化、凝固として把えるのは比喩であると言われるのだろうか。

 それでは精神の物質化も同様の論理で認めざるを得ないではないかという反論が予想される。例えば仏像を通して我々は仏の慈悲を見るし、仏像に仏の慈悲が物質化されているとも言い得る。確かにその通りである。我々はいわゆる無から有の創造や、霊が固まって物質になるという発想、神の言葉がそのまま物質になるという発想をしりぞけるが、精神が物質によって表現され、物質化していること、その意味で精神の化肉を大いに認める。『資本論の哲学』という書物は廣松氏の思想の物化であり、凝固である。『ゲルニカ』といろ絵画には反戦思想が物質化されている。それでいいのである。(拙稿「物と人間」『立命館文学』所収参照)

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