廣松渉『資本論の哲学』批判

はじめに

  私は広松氏から大変大きな学問的影響を受けている。というのは氏の学名が世に轟く最大の機縁となった出世作『マルクス主義の成立過程』、その中でも特に「初期マルクス像の批判的再構成」という論稿に電撃的な衝撃を受けたからである。

 それまでの私は熱狂的な疎外論の信奉者であったが、この衝撃によって私の中の疎外論は爆砕されてしまった。(もっとも、その後のマルクスの『疎外』という用語の使い方を詳細に検討した結果、疎外論は払拭されていないことが分かった。)私にとってほそれは最大の思想的転向体験であった。従って私が氏の学才に対して最大級の畏敬の念を今もって持続していることは言うまでもない。また、氏の『ドイツ・イデオロギー』研究から受けた感銘も忘れることはできない。エンゲルス主導説によってマルクス・エンゲルスの自已疎外論からの脱却をあとづけられた業績は高く評価されてしかるべきである。(自己疎外論からの脱却説への支持は撤回させていただく。)

 しかし氏が独特の共同主観性論によって主・客図式による近世的世界了解の地平を超克する論理を本格的に展開される段に至るや、私の「粗笨」な唯物論は氏の根本的な哲学的立場の対極に自已を発見せざるを得ないのであった。かくして私の学的営為はそれ以来廣松説との対決によって自説を鍛え、成長させることを重大な問題意識とすることになる。そのことは私の理論形成が廣松理論との対決を不可欠な要素としていることを意味する。従って私の理論的成果を本格的な形で世に問う前に廣松説との対決の姿をはっきりと把え返し、廣松説批判をまとめ上げる作業が不可避となった次第である。

 もちろん廣松理論に対する批判は焦眉の課題である。弁証法的唯物論も廣松理論との対決を通して再検証され、より平板な図式主義から脱却しなければならない。廣松氏自身がマルクスの真の唯一の継承者をもって自認し、氏のマルクス解釈が一定の市民権を得つつある現状をこれ以上、表面的な批判や黙殺によって放置することは決して許されるべきではない筈である。氏の問題提起は世界観の根本に関わる基底的なものであり、それだけに氏の提起を根底的に受け止め、充分に消化した上で反論することによって、これまで平板な図式主義に陥ってきた弁証法的唯物論も実のある成長を期待できると思われる。

 氏の主題的な理論展開は『世界の共同主観的存在構造』及び「事的世界観への前哨」において為されている。(後に『存在と意味』が主著として出版された)従って私の本格的な世界観的地平における批判もこの二書に対するものでなければならない。しかし、自説をまとめ上げる為の対決は、私の専門領域である経済哲学に関する氏の代表作『資本論の哲学』に対してひとまず行わざるを得ない。氏の主著に対する批判はやむを得ず私の当面の課題である「人間学的商品論」の仕上りを待って存分に行ないたい。また『資本論の哲学』に対する批判を先行させることは〈理論の戦場〉からの要請とも一致しよう。何故なら氏独特の存在論、認識論がマルクス自身のものでもあるとする根拠が「資本論」における物神性論、物象化論の廣松氏流解釈にあり、その正否を問うことは氏の論理の有力な柱を崩すことになる筈だからである。

 『資本論の哲学』で氏が主題としていることは労働生産物が商品として把えられることを物象化的倒錯視として批判すること、また、そのことによって商品の価値内在を否定することにある。この論証は抽象的人間労働の凝結を実体主義的に把えているマルクスの叙述を、物象化的倒錯視に陥っている読者に合わせたものとして把え返すことによって行われている。これが倒錯視であることは後は説明され、物象化的倒錯視の論理構造が商品の存立構造として浮び上ってくるというわけである。この推理が仮に当っているとすれば実に驚嘆に価いするが、仮に当っていないとしても、このような大胆な推理を為し得る廣松氏の学才は尋常のものではない。

 そのような叙述の便法がとられていることを氏に確信させたのは自已疎外論の払拭に関する氏独特の解釈である。抽象的人間労働が価値の実体であり、これが凝結して価値になるというマルクスの叙述は氏にすればマルクスがとっくに払拭してしまっている自己疎外論そのものであり、従ってそのような論理をマルクスが用いる筈がないと考えられたからである。

 廣松氏は労働が対象化され対象に凝固すること自体、自己疎外論としてしりぞけられるのである。しがって自己疎外論の払拭という解釈の批判から始めて、労働の対象化の論理を明確にしなければならない。

 次に抽象的人間労働の実体的な凝結の把握が物象化的倒錯視に迎合した暫定的な了解であることを証明するために、広松氏が指摘する矛盾、即ち抽象的人間労働を一方で「単なる生理学的労働力能の支出」としながら他方で「社会的実体」と規定する矛盾について、マルクスの論述に従ってこれが決して矛盾したものでもなければ一方が暫定的な了解でもないことを論証する。
 さらに労働時間と価値量、価値変動の検討仁よって投下労働価値説の妥当性を否定しようとする廣松氏の論理に反論し、価値量が投下労働時間によってではなく必要労働時間によって決定されるとする氏の論拠を検討し、投下労働価値説の妥当性を論証したい。

 廣松氏は抽象的人間労働という概念が機能的な概念であることを論証しようとして、これが価値形態論によって商品所持者間の交換論理に媒介されて成立するものであり、それ故商品所持者間にとって労働が抽象的なものとして見なされ、商品に価値が内在しているかに仮現すると立論される。その際氏は字野学派の周知の論理、すなわち価値形態論に商品所持者を登場させる論理、展開された価値形態に相対的価値形態が媒介されるという論理を導入する。これに対して、価値法則が貫徹されるためには、商品自体の内在的な論理によって商品交換の論理を構築しなければならず、商品交換の論理的主体はあくまで商品自身であり、その際舞台装置にすぎない商品所持者は首を出してはならないわけを説明する。そして、相対的価値形態は未展開のものとしては展開された価値形態に媒介されたものであるという面は捨象されるべきであり、従って抽象的人間労働も相対的価値形態において措定されうることを明らかにする。

 廣松氏は価値形態論の分析を通して、商品所持者の論理を商品生産者の分業関係の論理に置換し、そのもとで商品交換の論理を分業関係から機能的なものとして再構成され、氏の得意の「四肢的」存立構造を応用される。これに対してはあくまで商品交換を商品を主体として把えるマルクスの叙述を尊重し、分業関係を氏とは逆に商品関係に包摂されたものとして把える論理を対置する。

 廣松氏にあっては価値はあくまで共同主観的荏形成物でしかない。そのことは氏の大前提である。しかしマルクスは価値を抽象的人間労働の凝結物として実体的に把えている。しかし氏はこれを叙述の便法とされる、その際、氏の確信を支えているのは価値を関係規定として把えているマルクスの論述である。氏にあっては関係規定と実体的規定は相容れないのであるから、関係規定であるからには実体的規定ではあり得ないことになる。そこで私は関係規定とは何かを検討し、関係規定は実体的規定としてでなければ関係自体が成立たず、実体的規定も関係規定として措定されなければ関係性を持たないことを開示し、両規定の抽象的区別に固執するところに氏の立論の機制があることを確認する。

 次に価値が何であるかについて積極的に自説を展開し、読者諸氏の批判を仰ぎたい。経済的価値は単に評価の対象であるのではなく抽象的人間労働の凝結したものであり、そこで価値とされているのはどれだけの人間労働に相当しているかである。価値はそのことによって他商品に対する支配力を意味するものとなっており、しかもそれは人間の抽象的な現存である抽象的人間労働を実体としている。だから、価値は商品に対象化された人間の他人に対する支配力として把え返される。人間は私的分業社会においては何よりも先ず、他人に対する、他人の労働の成果に対する一定の支配力として、抽象的な権力として公認されなければならない。かくして価値は私的分業社会=商品交換社会における社会人の本質規定となっている。かく把えて始めて、価値形成的労働は、人間の自己増殖として認識される。この論理構造が抽象的人間労働の論理構造である。

 抽象的人間労働の論理構造によって、労働主体及び労働生産物の本質が価値として措定され、労働主体及び生産物が商品であること、かくして両者の本質的同一性が確認される。人間は自己の本質を価値として示すために自已を生産物の本質に対象化し、生産物を自己の本質の顕示、自已の現存在とする。かくして、人間は単にその身体にとどまらず、生産物でもある。かくして商品は身体と生産物の同一性であり、人間そのもの、人間=商品であり、商品=人間である。この人間学的商品論によって価値の実体性、抽象的人間労働の凝結の実体性は疑問の余地なく論証されることになる。

 しかるにマルクスにおいても、人間と物との抽象的な区別は固執されており、商品が人間関係を取り結ぶことを物神崇拝とし、迷妄の一種と考えている。従って生産物に凝結している価値は再び生産物ではなく人間であると把え返され、物と物の関係として仮現しているのは実は人間関係にすぎないとされるのである。これでは人間が物となっていること、物が人間の現存である事実は、人間は物ではないという固定観念によって見失われ、物と物の関係が人と人の関係を隠蔽するものと見なされてしまう。しかし、人間の労働は既に生産物に投下され凝結されてしまっているのであるから、それを実体とする価値は生産物の外部に存在するわけにはいかない。

 マルクス自身は従って使用価値規定の捨象によって商品は人間に還帰しており、この人間が抽象的人間労働の凝結である価値であると考えているのである。その意味では価値は商品に内在しているが、この価値は人間でしかなく、生産物であることは捨象されているから、その定在は結局宙に浮いてしまうことになる。その矛盾をマルクスは徹底して追求しなかったから、あくまで実体主義的に投下労働価値説を展開し、商品自体の内在的論理によって価値形態論を展開することができたのである。

 しかるに慧眼にもこのマルクスの弱点を発見し、価値を共同主観的なものとして措定し直し、商品の価値内在性を仮現と見なす見解が登場した。廣松氏による独特の『資本論』解釈である。氏にあっては価値は私的分業社会の機制が労働生産物の中に再生産に必要な労働時間が内属しているかに見なすことによって合理的に労働生産物を流通、配分するための機能的、函数的概念にすぎない。つまり、あくまで社会関係の機制が先立し、これが全構成員の共同主観性を各商品に価値が内在しているかに汎通的に意識させることによって自己制御を実現し、再生産を維持しているとされるのである。従って抽象的人間労働の凝結を実体主義的に了解するのは、このような汎通的な意識に即したものであり、事実問題に関わっている性格のものではないとされるわけだ。

 氏の論理に対して、次のように反論したい。私的分業社会の機制そのものは商品交換の論理に基づいて構成されており、この交換論理そのものは商品自体の内在的論理によって展開される他ない以上、私的分業社会の機制から商品交換を基礎づけることはできない。それ故、あくまで商品交換から出発して私的分業社会の機制が説明されなければならないのだ。そして更に、社会の汎通的意識はこのような商品の論理の反映したものである。

 マルクスの主観的意図は、決して商品の価値内在性を価値が社会関係でしかないという立言によって否定しようとしたものではない。価値が商品の使用価値の捨象によって措定される以上、価値を使用価値である労働生産物の内的規定と見なし得ないと考えただけである。

 つまり使用価値を捨象すれば商品は自然物としての生産物であることが捨象されるから人間として把えるしかない。換言すると、人間労働の一定量と見なすしかないと考えただけである。しかしこの人間労働の一定量というのはやはり、生産物として把え返えされてはじめて商品という定在を得るのであるから、価値が生産物の存在性格であることは否定し得ない筈である。ところがマルクスには〈使用価値=生産物=自然物=物〉とその対極に〈価値=抽象的人間労働の凝固=抽象的な人間の現存=人間〉という図式が固執されており、商品においてこれが梯氏流に絶対矛盾的自己同一になっているのである。あと一歩で人間は商品であり、商品は人間であるという認識に到達するのであるが、人と物の抽象的区別に固執するために果せないのである。しかしマルクスの論理は抽象的人間労働の実体的な凝結を出発点とし前提していること、そこで商品の価値内在性は自明視されていることは疑えない。

 廣松氏は商品の価値が再生産に必要な労働時間によって実際は決定されるのであって、決して投下され凝結された労働時間によって決定されるのではないから、価値の内在性は仮現にすぎないとされるのであるが、そしてこの認識が実に氏の最大の論拠になっているが、その仕組みについては充分に説得力のある説明が為されているとは言い難い。この点についての私の反論も充分つくさ
れているとは言い難いかもしれないが、読者諸氏に熟考をお願いしたい論点ではある。

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