『歴史の危機―歴史終焉論を超えてー』採録に寄せて

                                                  2003130日 やすい ゆたか

『歴史の危機』(三一書房、1995年刊)を出版してから既に8年近い歳月がながれた。その後の歴史の展開がフランシス・フクヤマの予言のごとく、歴史が終焉したのか、それとも本書の展望にあるように世界統合の新しいステージを迎えつつあるのか、あるいはハンチントンの『文明の衝突』の懸念が現実化しつつあるのかは即断できない。

アメリカ一極支配が強まっている。その意味ではフクヤマの予言はある程度あたっているのだが、いまだに「ならず者国家」とアメリカから名指しされている「イラク・イラン・リビア・北朝鮮」などが、国内的には恐怖独裁体制を維持しつつ、アメリカ帝国からの「倫理的介入」に抵抗している。

イラクのフセイン体制は、東西冷戦終結による真空状態を利用して地域的な覇権を確立しようとし、クウェート侵攻を試みたが、1991年湾岸戦争という形でアメリカを中心とする国際社会やアラブ社会から押さえ込まれた。それでもフセイン政権は存続し、国際テロ組織アルカイダとのつながりもあり、大量破壊兵器を隠し持っていることはアメリカにとって脅威だとして20031月末現在、アメリカブッシュ帝国からの侵攻の危機に直面している。

2001年9月11日の「同時多発テロ」によって世界史は重大な転機を迎えた。超大国の物量の圧倒的な優勢が必ずしも、超大国の安全を保障しないことが証明されたのである。イスラム過激派である国際テロ組織アルカイダは、旅客機を乗っ取って世界資本主義の中枢であるニューヨークの貿易センタービルとアメリカ帝国の軍事中枢ワシントンのペンタゴンに特攻攻撃を敢行したのである。

この事件に対してアメリカは軍事報復と武力的制圧の論理でしか対抗できていない。しかしアルカイダ潰滅をねらったアフガニスタン侵攻は、タリバーン政権を打倒したもののアルカイダ首領オサマ・ビン・ラディンの捕獲には失敗した。つまりアルカイダの脅威はまだまだ根深いものがあるのだ。

21世紀に入って大量破壊兵器の小型化、低廉化が進み、それが自爆テロと結合することによって、超大国の圧倒的優位の軍事体制は根底的に揺らいでいるのである。その中でアメリカが査察の結果も明らかでないままにイラクに侵攻すれば、国際的な孤立化を招くし、テロによる報復を受けて、その威信は深刻な打撃を受ける事になるだろう。

大量破壊兵器を超大国は持ってもよいが、中小国は持ってはならないという論理は説得力がない。国連中心に集団安全保障体制を確立し、大量破壊兵器は国際組織が管理するようにすべきである。そうでない限り、超大国がかえって格好のテロ攻撃の目標になり、資本主義の世界中枢の崩壊は、人類的な危機を招く事になる可能性は大きい。冷戦での勝利に浮かれて無敵を誇っていると取り返しのつかないことになるのだ。冷戦を終焉させ、戦争の無い世界を作ろうとするのなら、覇権主義を取り下げ、軍事面は国際管理に移すべきなのである。そうしてこそ戦争の無い世界が実現するだろう。

拙著『歴史の危機』は、グローバルな世界統合の時代に入りつつあることを強調し、その意味で歴史はこれからがクライマックス(最高潮)だと主張した。クライマックスの後、歴史が終わるとは決していっていない。その点いずれ歴史が終わることではフクヤマの歴史終焉論と共通しているかの解釈は妥当ではない。

グローバルな統合が通信や交通、世界市場統合という面で進展しつつあることは否定できないだろう。しかし政治的にはグローバル国家による政治統合という理想的な形では進展していない。むしろグローバル化が世界市場での過酷な競争となって現れ、貧富の格差を拡大したり、環境破壊を加速させたりしている。つまりグローバルに人類的危機を解決し、利害を調整するという形になっていない。そのために反グローバリズムの 昂揚をもたらしている。その意味では『歴史の危機』の予言は当たっていないという感想も聞かれる。

しかし「反グローバリズム」の立場から批判している「グローバリズム」は真のグローバリズムではない。真のグローバリズムは全地球的な普遍的利害に立って行動することである。超大国アメリカの一国の利害に振り回されることではありえない。またアメリカの最近の帝国的な動きは、アメリカにとっても決して利益をもたらすものではない。自己の力への過信、自己の信仰する宗教への盲信が理性を失わせるとき、いかなる超大国といえども破滅や凋落は免れないものである。

今や真のグローバル統合を推進するためにも、またグローバル化による弊害を除去するためにも、グローバル・デモクラシーの原則に基づく集団安全保障、地球環境保全、国際的な金融規制を包括した『グローバル憲法』の制定にとりくむべきである。それは国家間の交渉に任せていたのでは、それぞれの国家的利害の対立が表面化してまとまりそうもない。まずグローバル市民の立場からの草案を共同で作成し、それを国際社会での討議の叩き台にすべきである。その観点に立って『グローバル憲法草案つくる会掲示板』を「やすいゆたかのHOMEPAGE」に設置している。

日本経済は、8年前には深刻な不況下に既にあったとはいえ、これほど不況が長期化するとは思っていなかった。これは1980年代から始まったデフレ的傾向の延長線上で受け止めるべきである。円高を背景にし、中国・東南アジアへの資本と技術の移転が進み、他方で国内への投資が鈍る中で。相対的に日本の生産性や技術力の低下が続いている結果である。これに対しては、大胆な金融政策の転換によって円安とインフレーションへの転換をとげ、国内産業の空洞化を阻止しなければならない。

しかし小手先の金融政策に溺れると、インフレによる実質所得の低下から不況の深刻化を もたらす結果に終わりかねない。なにより根本的な停滞の原因は、生産性と技術水準の相対的な低下である。生産性向上に国家的な総力を結集して、計画的組織的に取り組まなければ日本経済の再生はありえない。小泉内閣は構造改革を叫ぶが、抜本的な生産性と技術水準の向上運動を国民総動員的に組織しなければならない段階にあるのではないかと思われる。

 グローバル化の現実を受け止めるということは、決して国内の経済的な落ち込みなどに無関心になることではない。グローバル化の進展によって、国民経済が落ち込んでいけばグローバル化への感情的反撥から国粋主義や排外主義の台頭を招き、かえって国家間の対立や文明間衝突にはしってしまいがちである。真のグローバル化の実現のためにも国民経済の体質改善を最重要に捉えるべきである。その際最も重視すべきは、ライシュ著『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』で強調されていたように、国内の労働力の質の改善である。学校教育や職業訓練、企業内研修や再教育への補助などを通して、労働力の質を高めれば、生産性の高いところに資本が流入するのだから、それによって更に国民経済全体の国際競争力が向上するという発想である。また社会保障の充実も大切だ。それは長期安定が保証されるので、良質な労働力の流入が期待できるし、国内の消費拡大にも有効である。日本は国内の教育や社会保障面での劣悪化が深刻化しているので、今後ますます憂慮されている。

 『歴史の危機』出版後の論議を踏まえた、新しい著作を書かなければならないところであるが、その準備の一つとして、『歴史の危機』を採録することにした。最近の「反グローバリズム」は超大国の覇権や超大国のスタンダードの押し付けを「グローバリズム」と読み違えており、「真のグローバリズムとは何か」を踏まえずに、感情的に「反グローバリズム」を叫んでいる。グローバル化それ自体は引き返しがきかないものである。グローバル市民の立場にたつ、グローバル・デモクラシーに基づく「真のグローバル統合」の理念を踏まえるためにも本書の再刊が緊要だと考えられる。しかし本書も爆発的に売れたわけではないので、出版社に再刊してもらうわけにもゆかない。幸い「HOMEPAGE」という新しいメディアの登場で、グローバル市民に本書の内容を紹介することが可能になった。これを絶好のチャンスと捉えないならとても時代についていけないだろう。

 

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