前編 歴史はクライマックスへ

            フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』について

            序章、フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』の登場         

                  一、リベラル・デモクラシーの勝利

『歴史の終わり』(原題は『THE END OF HISTORY AND THE LAST MAN』(三笠書房)は冷戦の終結、社会主義世界体制の崩壊という歴史の大転換期に立って、リベラル・デモクラシーのグローバルな勝利を謳歌します。体制としてはリベラル・デモクラシーが究極的で最終的だというのです。ですからイデオロギー的にはリベラル・デモクラシーを乗り越える事は不可能です。リベラル・デモクラシーが最終的に勝利すれば歴史は体制を覆すような根本的矛盾が無くなるので発展を止めてしまいます。時折、反動や脱線が起こるにしても、いずれはリベラル・デモクラシーに回帰することになるということです。

 確かにリベラル・デモクラシーは大切です。自由と民主主義を失っても共産主義を実現したいとは、共産主義者でさえ考えていません。自由や民主主義と社会主義や共産主義は対立概念ではなく、自由や民主主義の貫徹として初めて社会主義や共産主義が展望できると宣言しています。

ところがいわゆる「国際共産主義運動」が支配していた 社会主義」諸国で、いわゆる「社会主義」体制が大崩壊を起こしました。ペレストロイカ以前は、確かに共産党一党独裁の下で、「社会主義」諸国の人民には推薦候補に対する信任投票権以上の参政権は認められていませんでしたし、共産党機関紙や国営テレビによる官製報道以外の知る権利も与えられていませんでした。国民の言論や政治活動そしてあらゆる社会運動は秘密警察の厳しい監視下に置かれ、夥しい数の収容所と精神病院が待ち構えていました。

現存「社会主義」は自由や民主主義の貫徹の成果としてではなく、その正反対の自由や民主主義の徹底的な否定の成果として現れていたのです。ですから「社会主義」世界体制の大崩壊がリベラル・デモクラシーの「社会主義」=全体主義に対する勝利として受け止められたのも当然です この「社会主義」諸国におけるリベラル・デモクラシーの勝利は、西側資本主義諸国ではリベラル・デモクラシーの社会主義・共産主義一般に対する勝利として受け止められました。

しかしいわゆる「社会主義」諸国では、労働者が実際に政治を運営し、企業を管理していたのではないのです。ノーメンクラツーラと呼ばれたごく少数の党や国家や企業の官僚層が特権的に支配していたのです。その実態からみてとてもそれでも社会主義とは言えません。その意味ではいわゆる「社会主義」諸国では未だに社会主義は勝利していませんから、それが破綻するわけはないのです。

とはいえ西側諸国の左翼のほとんどが現存社会主義を社会主義と認知してきたのです。ですから崩壊したのは贋物だった、本物の社会主義はこれから実現するのだと強弁するのも、虫が良すぎます。今後当分の間は民族国家規模では、社会主義は混合経済の中に名残をとどめることに甘んじざるを得ないでしょう。資本主義経済の補完物、調整剤としての「社会主義」です。 

                               二、長いレインジで捉えよ!

 しかしカタストロフィー(大崩壊)の危機は、資本主義世界体制の側も抱え込んでいます。ポスト資本主義の模索の中から、リベラル・デモクラシーの徹底としての本来の社会主義が選択される可能性も否定できない筈です。もちろん短いレインジ(射程範囲)では無理ですが、長いレインジで考えれば、頭からナンセンスと決めつけることもないでしょう。

資本主義企業と「社会主義」企業の経済合理性を比較すれば、常に資本主義企業の方が優れていたとは限りません。双方とも進化するのですから、現在は確かに資本主義企業の方が生産性が高いでしょうが、世界市場で厳しい競争に晒されて鍛えられた「社会主義」企業が労働者自身が運営主導しするようになり、面目を一新するかもしれません。

それに資本主義企業も進化して企業自体がコミュニティ化を遂げつつあります。資本主義企業も地域社会との調和や民族国家規模やグローバルな課題との取り組みを求められています。高度の経済合理性を保ちつつ、企業の社会的責任を果たしていくには、従業員一人一人の主体的な自覚と経営への参与が模索されざるを得ないのです。これは短いレインジでは労働者への締めつけとして現れています。でも長いレインジでは、労働者自身が権利意識を建て直して、対等な立場で企業革新に取り組めるようになれば、資本主義企業の自己革新を積み上げて、徐々に社会主義企業脱皮する可能性も否定できません。

現在、資本主義的企業と「社会主義的」企業の中間的な形態として「混合企業」が模索され始めているようです。中国の国有企業が株式を発行するのも、国有企業を「社会主義」企業と認めれば、その典型です。アメリカで従業員持株制度が奨励されているのも労働者の所有参加、間接的な経営参加という意味で、社会主義的性格をいくぶん含んでいます。また日本的経営が疑似共同体的性格を持っていると言われています。これなどは労使の力関係から見れば、締めつけの形態と見られ、不況時には簡単に反故にされます。平成大不況では終身雇用制もあっさり反故にし、会社人間として何十年も忠勤に励んできた四十歳代、五十歳代の中堅管理職までリストラの犠牲になって解雇されたくらいです。はいえ労働者の主体的な取組の進展次第では、より実質的なコミュニティへと進化する可能性を含むものです。

長いレインジという場合、十年や二十年ではなく、五十年や百年、最も長いレインジでは千年単位のレインジで考えれば、資本主義が不滅だというのも神話に過ぎません。また社会主義や共産主義が実現不能のユートピアだという断定も説得力がなくなります。そしてこのような長いレインジで考える事が、イデオロギーに係わって生きている以上、大切なのです。

何百年先、何千年先の事を考えたって仕方がない。現実の生きた課題に対応できなければ何もならない。こういう批判はもっともですが、でも現実に対応する姿勢や思想が何百年先、何千年先の人類にも共感を呼び得る普遍性を持つと確信できれば、たとえ現在においてはシジフォスのように何度繰り返しても果たせない徒労に見えても、納得できます。

今「憲法第九条」を国際貢献の邪魔だとして、『読売憲法草案』のように変えてしまうのはは簡単かもしれません。でもいつまでも大量殺人の武器を持って国家どうしが身構え合っていて、いい筈はありません。いずれは武器を捨てて恒久平和の地球共同体を建設すべきなのです。そのは、たとえ侵略されても武器を取らないという決意の下に、武器を捨てる魁の国家が出現すべきなのです。長い目で見れば、憲法第九条は変えるのではなく、実現するのが正しいのは明白です。 

                              三、歴史はクライマックスへ

 『歴史の終わり』がリベラル・デモクラシーの普遍性を強調するのはいいんです。でも歴史を支配イデオロギーの変遷の歴史に一面化して捉え、リベラル・デモクラシー体制を歴史の最終局面であるかの印象を与えたのはいただけません。歴史は冷戦終結を踏まえていよいよ新しい国際秩序形成の模索段階に入りました。冷戦後の空白は民族利害の対立を表面化させ、連邦国家の解体、地域紛争の激化をもたらしましたが、やがてそのような不毛な対立がもたらす悲劇からの教訓が再び統合の力になります。

 資源・環境問題での地球的危機が深刻化しています。だから本当はもう民族国家の時代ではないです。グローバルな形で地球的危機に対応できる公正な超国家的機関が、環境問題や安全保障問題でかなりの強制力を伴う決定と執行ができる体制が出来上がっていないと間に合わない時期に来ているんです。ですから「リベラル・デモクラシーは勝利した。歴史の終わりだ。」と浮かれていてはいけないのです。それよりも地球的危機の深刻化に照応する「地球的統合の時代」という新しいステージへの準備が遅れている事を憂慮すべきなのです。 

                            四、「対等願望」と「優越願望」

 フクヤマは「対等願望」と「優越願望」だけで歴史の変動の原動力を説明します。大変興味深い説明ですが、それは実はリベラル・デモクラシーの最終的勝利によって「歴史の終わり」に到達するという主題と矛盾します。「対等願望」の実現としてのリベラル・デモクラシーの勝利は、「優越願望」の断念に代償されているのです。ですからいずれ退屈な「歴史の終わり」が終わって、「優越願望」の実現を競って歴史が激動し、「対等願望」を断念させられた民衆がリベラル・デモクラシーの回復への戦いを再開することになるでしょう。フクヤマ自身がその可能性を論じているのです。そうしますとこれでは「歴史には終わり ない」ことになり、ギリシア的な循環史観になってしまいます。

 ところでフクヤマが「対等願望」だけでなく、「優越願望」を強調するのは、リベラル・デモクラシーの貫徹が「優越願望」の全面否定であれば困るからです。市場経済や資本主義経済は、経済面での著しい不平等と両立可能ですから、それで一部の「優越願望」もある程度充足させることができるのです。「優越願望」を全面否定して良いのなら、経済競争と不平等、搾取を温存する資本主義も「対等願望」によって否定されることになるでしょう。またリベラル・デモクラシーは、資本主義の下でも労働者階級の参政権も認めることによって、政治権力をてこにした所得の再分配を実現し、「対等願望」を政治分野だけでなく、経済分野でも少しは叶えることができるのです。      

「対等願望」と「優越願望」が人間を駆り立てる根源的なものであれば、何らかの形で両方ともある程度充足させられないとその社会は長続きできません。現存「社会主義」体制も現場の労働者の賃金格差を少なくして「対等願望」を満たしながら、ノーメンクラツーラ(特権者名簿)による特権的支配を実現して「優越願望」に応えてきたのでした。この階級的断絶が固定化し、官僚主義的な上意下達体制の下で経済成長も停滞しますと、「対等願望」が不当に抑圧されることでフラストレーションが溜まり、サボタージュや体制批判が広がったのです。

ゴルバチョフはリベラル・デモクラシーを確立することによって、「社会主義」体制のペレストロイカ(抜本的建て直し)を計ったのですが、それが却って「社会主義」体制に対する不満を爆発させる事になってしまったのです。これはリベラル・デモクラシーと社会主義の両立が不可能であることの証明でしょうか。それともソ連型「社会主義」とリベラル・デモクラシーとの両立不可能を示したに過ぎないのでしょうか。

 企業や国民経済の運営に労働者が主体的に参与できるような本来の社会主義が実現すれば、リベラル・デモクラシーと両立できるのでしょうか。しかしそもそもそのような本来の社会主義は頭の中で描かれた幻想に過ぎず、永久に実現できないものなのでしょうか。もし「対等願望」が歴史を動かす根本的な動力だとしたら、企業や国民経済全体、究極的には地球経済全体が労働者自身が参加して決定するような進化が、経済面にもいずれは貫徹することになる筈です。それが言葉の本来の意味での社会主義ですから、フクヤマの論理に従えば、資本主義から社会主義への進化は不可避な筈なのです。

そうなりますと「優越願望」がフラストレーションを起こす心配があります。それは政策的な決定過程でのイニシアティブやヘゲモニーをいかに発揮するかで競い合う事で充足させるしかありません。それに能力を並外れて発揮した者に対する社会的な名誉や地位を保証するシステムの構築が必要でしょう。

 以上「対等願望」と「優越願望」に歴史の動力を還元するフクヤマの仮定をいったん承認して考察しました。でもこのような単純な原理に歴史の動力を還元する還元主義では、どうしても歴史を「プロクルステスのベッド」のように、予め予想された型にあてはまるように一面化してしまいます。

プラトンはプシュケー(魂=生命)の三分説を唱えました。腹部のプシュケーは欲望、胸部のプシュケーはティモス(気概)、頭部のプシュケーは理性です。フクヤマはマルクス主義は欲望に人間を還元する傾向があると批判し、気概の役割を高く評価しているのです。マルクスが歴史の原動力を物質的欲望に還元させていたかどうかは、後に詳しく検討することにして、欲望に還元させるのは駄目で、気概に還元させるのは良いというも説得力に欠けます。

プラトンのプシュケーの三分説に依拠するのなら、欲望・気概・理性のいずれの部分をもある程度は満足させなければならない筈ですね。ヘーゲルの『歴史哲学講義』は歴史を絶対精神の自己展開として、自由の発展として展開しています。理性面から歴史を考察する視点がフクヤマの場合、明確ではありません。仮に気概面から「歴史の終わり」が論じられても、理性面での発展の可能性があれば「歴史は続く」かもしれません。

 

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