プロローグー近代的歴史観を超えてー

                                       一、西暦二千年代を目前にして

 いよいよ西暦二千年が目前に来ています。(1995年刊)千年毎の歴史の区切りは単なる数字の区切りに過ぎません。これまでの千年間、次の千年間をそれぞれ特色ある時代に区切れるわけではありません。それでも我々は人類として年代を数えてきて、ちょうど二千年の区切りを迎えるのですから、この機会に過ぎ越し方を振り返り、来るべき次の千年間に思いを馳せるのは自然なことです。
           
 というより我々は千年区切りという大きな物差しで歴史を捉えるような感覚を失っています。近代の時代の流れがめまぐるしく、遙か千年間を展望するなどというのは、現実離れした仙人の感覚のように受け取られるからです。でもそれだからこそ、西暦二千年を迎えるということは、近代のめまぐるしさを相対化し、悠久の歴史を鳥瞰する絶好の機会であり、そのことによって現代の危機を乗り切る智恵も思いつくかもしれないのです。

 こんなとてつもない発想をするのも、歴史が巨大な転換を遂げつつあるという実感に根ざしています。我々が属していた近代という時代がグローバルな規模で大きく崩れつつあるのではないかという思いが募っているのです。

 近代は産業主義の時代だと言われます。資本主義は最大限利潤の獲得を目指して悪無限的に生産を発達させてきました。二十世紀の「社会主義」体制も生産力の発展で共産主義の理想が実現すると考えて,生産力の発展を至上命令にしてきたのです。その結果、人間環境の破壊が臨界に達し、カタストロフィが始まろうとしています。

 工業化の波はとうとう途上国諸国をも離陸させました。この波は「社会主義」世界体制の崩壊による世界市場統合の進展でさらに大きくなりました。このままではとても人間が生み出した工業によって人間自身を破滅させる自己破綻は避けられません。これを防ぐ為には環境保護を最重点にするグローバルな政治経済体制の構築が不可欠です。現代のバイオ・テクノロジーなどのハイテクをフルに活用して、その上グローバルな協力体制が整えば、地球人間環境の崩壊を防ぎ、地球を再生することはまだ可能です。でもその為にはこの問題に宇宙船地球号の総力を結集するだけの覚悟が必要なのです。ですから我々は歴史を、いつまでも民族国家や連邦国家単位の歴史として捉えていては駄目なのです。グローバルな世界統合の歴史へと大きな転換を遂げつつあるものとして、二千年代への方向を捉えておくべきなのです。

                        
二、歴史の進歩への問い

 世界史の大変動を迎えて、歴史とは何かが問い直される歴史哲学の時代が開始されたのは当然です。その前兆は近代のトータルな超克を目指したポスト・モダンの思潮の中に現れました。学校や病院を全面否定したイリイチが好例です。確かにそれは鋭い批評を含んではいますが、やはり産業主義や技術進歩に対する感情的な反動に過ぎません。 とはいえ「社会主義」の停滞と崩壊は、歴史進歩に対する懐疑や幻滅を呼び起こし、発展的な歴史観が根底的に問い直される事態を招いています。「理性」や正しさに対する確信から示された「真理」の実現が進歩だと考えて、実現に努めたので、かえって恐怖独裁政治や不能率で不公正な政治をもたらしたのだと、「理性」信仰や「進歩」幻想が槍玉にあげられています。ちょうどフランス革命の挫折後、実証主義者や功利主義者、歴史法学者たちが形而上学的「真理」や啓蒙的理性に反発し、自然法や社会契約をフィクションだと批判したのと同様です。

 フクヤマの「歴史の終わり?」という問題論文は、東西冷戦の終焉によるリベラル・デモクラシーの勝利を「歴史の終わり」として捉え、騒然たる議論を巻き起こしたのです。フクヤマは、ヘーゲル主義者コジェーブのヘーゲル解釈に依拠して、歴史発展の終極点としてリベラル・デモクラシー体制を位置づけました。これに対し、それでは近代的な発展史観を前提にしているという批判がありました。 確かに歴史進歩が機械的な必然性で保
障されていると考えるは、宿命論です。進歩を盲目的に信仰してあてにしていたのでは、必ず歴史に裏切られて悔やむことになるのです。でも我々はこれを解決しなければ、民族や人類のサバイバルもできないという課題をそれぞれの時代に持っています。その課題を解決してはじめて次の時代がやってくるのです。これを「歴史の進歩」と呼びますと、歴史の進歩は決していかがわしい幻想ではなく、現在の課題との生死を賭けた戦いとして主体的に捉え返されるのです。

 「哲学者たちは世界を様々に解釈してきただけだ。だが肝心なことは世界を変革することなのだ。」と「フォイエルバッハ・テーゼ」で若きマルクスはこう叫びました。歴史的現実は、我々に無縁な事態ではありません。我々の眼前にあって、我々が格闘し、克服しなければ我々が破滅するしかない課題としてあるのです。

 またフクヤマに対する批判では「いや歴史は終っていない、東西対決の時代から異民族間・異宗教間・異文化の文明間闘争の時代に入ったのだ。」という批判が有力です。たしかに東欧やCIS内部での連邦崩壊に伴う混乱やパレスチナ問題はなかなか解決しませんが、本格的な文明間闘争で世界が混乱に陥れば、環境・資源問題など人類が共同して解決できません。遠からず人類の破滅が避けられない問題は放置されることになります。もしそのような道を取るとすれば、人類には未来はないのです。ですからその懸念はもっともだけれど、そうさせない為の努力にこそ人類の未来はあるのです。

 歴史は、しばしばそこに生きた人々に希望を与え、そしてそれを無残に裏切ってきました。歴史の裏切りに遭って人々は夥しい犠牲を出し、心に深い疵を負ってきました。それで将来に希望を持つこと自体が、何か罪深いことのように思えるのです。だから「正統イデオロギー」や「歴史進歩幻想」を共有することが、それ自体人間たちの争いの原因だという反省が、枢軸時代から繰り返されてきたのです。

 進歩幻想に疵つき敗れた人々は、もはや歴史や輝かしい未来を信じたくないかもしれません。しかしそうした時代に疲れた人々を置き去りに、新しい歴史は新しい価値の表を掲げた人々に引きずられて展開していきます。「真理を説く者を信じるな、真理への道は常に血で塗り固められ、裏切りの墓標が続いている。」と夢敗れた者の警告です。 しかし新しい価値の表に対して、価値の表自体を否定する消極的なニヒリズムでは対抗できませ
ん。それは単なる反対の為の反対であり、より強く生きようとする勇気を与えるパワーがないからです。そこで我々は現実の課題を見据え、共同の理念を形成して、よりよい将来を展望する努力をしないと、とんでもない方向に引きずられていくリスクが大きいのです。つまり歴史は勝手に進歩するのではなく、我々が主体的に進歩させるものなのです。

 我々は現実の課題から将来の展望を生み、その実現に共同する営みこそが歴史だと、主体的に捉えなければなりません。安易な必然論や敗北主義的な宿命論は斥けて、歴史のヴィジョンを形成し、その実現のポリシーを提示すべきなのです。

 もちろん歴史は進歩だけではありません。停滞や混迷や後退の時期もあるのです。最悪の場合、森林の伐採が破滅をもたらしたインダス文明やメソポタミア文明のように、文明の破滅に陥ることもあります。しかしそれも人々の課題への取組に限界があったからなのです。歴史の混迷は、実は自己自身の混迷に他なりません。そして歴史の終焉は自己自身の思考の停止に他ならないのです。


                                 
三、「近代」の擁護について

 九〇年代になり、世界市場の統合による効果が「大競争時代」という形で現れています。拡大された世界市場に、急速に工業化が進展しているNIES、ASEAN、中国から大量に安価な商品が供給されています。それで日本は深刻な価格破壊、賃金破壊に見舞われています。

 既成の経済学は、各国の国民経済を研究対象にしてきました。視野が狭いので、この事態を予見し、それに対処する政策を打ち出すことは難しいのです。八〇年代にマネタリストの高金利政策がドル高の副産物で貿易赤字と産業空洞化を招いて、無力を晒したのと同じです。

 このことは「近代」という民族国家あるいは連邦国家を単位に捉えられた世界像が通用しなくなっていることを意味します。だから経済学はグローバル・エコノミーとして再構築されなければならないということです。それに対応して政治学も民族国家あるいは連邦国家を単位に捉える視点では、もはや事態に対応できません。我々の視座も世界統合の時代に向かっている人類の歩みに合わせて、グローバル・デモクラシーに置くべきなのです。

 「近代」に対する評価も、世界統合の新しいステージから見直されなければなりません。その意味ではイリイチらのように、近代の産業主義がもたらしたグローバルな人類的危機を理由に近代を弾劾し、産業主義の対極に立った生き方や、人間自然関係を選択するという姿勢は現実的ではないのです。

 たしかに近代産業主義の延長線上にはハルマゲドン(最終戦争)や地球環境のカタストロフィ(大崩壊)が待ち構えています。でもそれを止めるには産業の発展を止めて、小規模生産に逆戻りすればよいわけではありません。大規模生産や巨大技術を無条件に讃美するわけではありませんが、現在の人類の衣食住を支えるには、どうしても大規模生産や巨大技術が必要です。もしそれらを放棄すれば、物資が極端に欠乏して大混乱に陥り、暴動や内乱や戦争が不可避になります。地球環境危機や資源枯渇・食糧不足問題等は、やはりマクロ技術やマクロ産業等もフル動員して、解決方法を考え出さなければならないのです。

 この近代擁護の観点から山崎正和は『近代の擁護』(PHP出版)を著しました。近代を擁護する論点には共感する点が多いのですが、山崎の視点には近代を批判し、乗り越える視点が欠けています。それでは現実の課題と真に向き合っているとは言えません。

                                                     
四、疎外と物化の問題

 近代産業主義への反発が物化、商品化への反発として現代ヒューマニズムを形成してきました。マルクス主義者や実存主義者の多くが、人間自身と巨大な機械技術体系、それにその管理機構とを抽象的に区別し、その区別に固執してきたのです。人間は本来、物や商品ではなく、機械の部品や組織の歯車ではないという主張です。そして人間が物や商品、機械体系や組織機構によって束縛され、支配されることを、人間性に反する不当な疎外であると批判してきたのです。こうした疎外は、近代産業主義に起因するのだから、近代の超克によって疎外された状態を脱却できるかに考えていました。

 当然のことながら資本主義に固有な矛盾は資本主義が克服できれば解決され、市場経済に固有な矛盾は市場経済が克服できれば解決します。前者は企業の管理運営が一人握りの資本家や経営者から、従業員全体や消費者、地域代表などの参加で開かれたものになれば、かなり解決します。たとえ資本主義的企業であっても、従業員の衆知を集め、帰属意識を強め、社会的責任を果たせるようにしなければ存続できないようになりつつあるのです。

 市場経済の克服が共産主義として構想されたものでしたが、市場による調整抜きに資源の最適配分を行うことは原理的に困難でないかとも思われます。数千年の先ではどうなるか分かりませんが、ここ数世紀の内は市場による失敗や、商品性による人間疎外をさまざまな連帯や交流を通して軽減するしかありません。

 問題は人間が機械の部品化し、労働力が組織の歯車化せざるを得ないことです。あるいは機械体系や組織体系が個々の労働者を包摂して、労働者は自己をその無力な一断片に貶められることです。人間は機械や道具をあくまで本来人間の為の手段としてだけ捉えています。ところが実際には、労働者は機械や組織に忠実な僕としてしか評価を受けていないのです。つまり労働者は機械の感覚機能や意識機能を補完して、機械の活動を補助しているのです。ですから人間の意識は機械の意識としても生産機構の中で再生産されているのです。

 視点を変えて消費物資を見てみましょう。それらはあくまで諸個人の欲求充足の手段として生産され、諸個人の生活に奉仕すべきものと意識されています。でも実際は、消費物資を得る為に、諸個人は生産や流通や消費の機構に包摂され、その機構を再生産するために奉仕させられます。人間の欲望や意識自体が、消費物資によって再生産され、管理されているのです。

 こうしてみると人間を身体的な諸個人や身体に宿る個我に限定し、機械や生産物を人間の他者と見なすのは了見が狭すぎるのです。社会的諸事物の総体を人間として捉え、その要素として身体的諸個人、社会的諸事物、人間環境を構成する事物を人間カテゴリーで捉え返すべきなのです。こうした「人間観の転換」によって社会的事象や人間環境を自己自身として、その課題を引受けることができるようになるのです。これが自然の自己意識としての人間的意識ということです。かくして近代的歴史意識の脱却の問題は「人間観の転換」の問題へと深まるのです。

                                                  
五、危機意識と歴史的自覚

 「歴史の終焉」論は、近代という民族および連邦国家単位の時代が終焉しつつあることを反映しているのです。今後はグローバルな世界統合の歴史を展開させなければならないのです。進歩史観への反発は経済的には近代が示した身体の欲望を開発し、充足させる方向に偏向した身体主義的な産業資本主義の行き詰まりを反映しています。これからは産業の発達も諸個人の欲望を悪無限的に増殖させ、それに対応して自然を蕩尽するのでは、地球環境はサスティナブル(持続可能)ではありません。地球全体を生きた全体として捉え返し、それを人間的自然としてつまり人間の非有機的身体(器官としては繋がっていませんが、貝の貝殻、蓑虫の蓑、蜘蛛の糸、ビーバー・ダム、人間の衣服・住居のように、それなしには生体が保てないような、広い意味の身体を構成する諸要素)として捉え返すべきなのです。

 人間環境としての地球の調和を回復するという原理が、世界統合の最大の理念であり、この理念の下に政治経済的統合が調整され、規制されなければなりません。ところが現実には経済的な自由市場の拡大が先行しています。もし十二億の人口を抱える中国に、乗用車が各家庭に普及すれば、いかなる環境変化が生じるかにはお構いなしに、アメリカ合衆国や日本の多国籍企業が、超巨大マーケットの開発だと意気込んで進出しつつあります。

 途上国では先進国に比べて環境基準が緩いのです。九五年までのフロン全廃も先進国だけの約束です。途上国に言わせれば、先進国がさんざん環境を破壊しておいて、途上国が工業化しようとすれば、これ以上破壊できないからと先進国並みの厳しい環境基準を押しつけられるのは理不尽だということでしょう。リオ・サミット(環境と開発に関する地球サミット)では、途上国のヘゲモニーの下で先進国並みの環境基準を途上国に適用することはできないと堂々と宣言されています。しかし今後怒濤のように進む途上国のグローバルな工業化によって、このままでは途上国が追求する「持続可能な開発」自体が破綻し、地球的カタストロフィが到来するのは不可避です。

 途上国の緩い環境基準は、先進国からの公害企業の移転を誘います。自力更生で工業化をなし遂げるには、技術格差が大きすぎますので、もう外資導入型の工業化こそが可能な時代なのです。しかしこれでは公害の地球全体への拡散に過ぎません。これを食い止める為には、先進国側で途上国への企業進出にあたり先進国並みの公害規制を義務づけたり、先進国同士で協定を結ぶかするべきです。また地球規模の法的規制が可能なグローバルな政治・経済体制づくりが急がれるのです。

 環境の保護を産業開発より優先させなければ、「持続可能な開発」すらできないのです。開発を持続する為に環境を保護しなければならないという、悠長な段階では既にないのです。途上国は環境保護の技術を獲得する為にも産業の発達が必要だと主張しますが、地球環境危機はそれを待っていられるほど甘くはないのです。

 エコロジストの主張は産業の発達を抑制してでも、地球環境を保護すべきだというものです。それで何か産業の発達それ自体や、歴史進歩に対する反発であるかに誤解されがちです。しかし人間地球環境を取り戻す技術や産業は、決して牧歌的で前近代的な技術、産業に限定されるものではありません。それらも含めてハイテク、バイオの最先端のマクロ・ミクロ技術の応用を伴うものです。ですからそれは産業主義のハイ・クオリティを目指すものであって、決して反進歩、反産業じゃないんです。

 こうした人類的危機の背景を踏まえますと、今日こそ歴史は壮大なクライマックスへと進展しつつあることを感動的に捉えられるのです。そしてこの雄大な歴史の展開の主体として、現代に生きることの意義を認識して、その使命を一人一人が自覚しなければ、とても未曾有のグローバルな危機に立ち向かうパワーは出てこないでしょう。

                                             
六、歴史法則の呪縛からの解放

 歴史法則がいったん打ち立てられますと、それに呪縛されて歴史を解釈しがちです。そのせいで宿命論的な歴史意識に囚われたり、現実の展開を無視したドグマ(教義)的行動に出て、ドンキホーテを演じることになります。   フクヤマは、コジェーブの誤ったヘーゲル解釈を受け売りして、一八〇六年をターミナルにする歴史観を、一九八五年にずらしました。「歴史は自由の実現への歩みだ」という歴史観で、一九八五年におけるリベ
ラル・デモクラシー体制の世界史的勝利によって世界史は完結し、終焉したと宣言したのです。現に我々が歴史的な課題に取り組み、悪戦苦闘しているのにもかかわらずです。

 マルクス主義者は、史的唯物論の発展段階説のドグマに永らく呪縛されてきました。それで資本主義体制が行き詰まり、社会主義革命のきっかけが生じるのを模索し続けてきたのです。たしかに資本主義体制には固有の矛盾があります。その抜本的解決には革命的な変革が必要だったかもしれません。しかし矛盾を緩和し、調整しつつ発展させることも出来たのです。

 どうしても社会主義革命をしたいのなら、それが資本主義の改良的発展よりも国民の大多数にとって好ましいと思われるやり方を選択するべきだったのです。ところが歴史発展法則なるものによって、安易に革命の必然性を盲信しますと、革命の機械的、形式的実現のみに心を奪われて、暴力的に事を決しようとする荒っぽいやり方や、党勢拡大一本槍のずさんなやり方で平気でやってきましたから、国民がこれに反発して、笛吹けど踊らずになったのは当然です。

 個々人の人生が一度切りであり、繰り返しが効かないように、各国の歴史もそれぞれ固有であり、繰り返しや、他の歴史の引き写しはできません。しかしそれを承知の上でなら、歴史の発展法則を洞察し、それに基づいて実践するのは何も悪いことではありません。むしろ理性的で賢明とさえ言えます。でも歴史法則は、自然法則に比べて仮説の域を出ないものです。偶然的要素や行動主体の決断や実践仕方次第で、どの道をいくかは未知数な面が強いのです。だから常に複線的な可能性を考えておくべきです。歴史主体の行動がその文明の破滅か隆盛を決定することさえあるのです。ですから常に新たな情報を加えてシュミレーションの組み換えを繰り返し、より新鮮な予想を建て直す必要があります。

 とはいえ「自由拡大の歴史」や「階級闘争の歴史」といったマクロ的な歴史観の射程は大きいですから、それらは全面的ではないけれど、未だに有効な歴史把握の視座といえるでしょう。またヤスパースのように「人類統合への歩み」という壮大な歴史把握は、ますます現実性と説得力を強めています。

 西暦二千年代の開始にあたって、自由や人権がどれだけ発展し、階級的な矛盾がどのような姿で現れており、人類の共同と統合の歩みがどの程度まで進んでいるのかを再確認し、歴史的な課題への自覚を強めるべきです。

 こうした発展的な把握に反対して、・自由の拡大は他方で自由の衝突による不自由を強め、・階級的支配はその構造が変化するだけで、常に少数者の多数者支配は健在で、・人類が統合すればするだけ、紛争は拡大するといって、そこに進歩を認めない人もいます。これには反論は難しいですね。こういったことは量的に比較して進歩を証明しようにも数量化は困難です。それに矛盾の解決自体が、新たな矛盾の原因を孕んでいます。新たな矛盾はまた難題となって膨れ上がるものだからです。

 こうして進歩への努力が考えようによっては徒労のごとく見えるのです。そこで進歩を信じて努力した結果に裏切られ疵つけられた人々は「進歩」を幻想だと糾弾するのです。でも現実の課題の解決なしには次の時代は来ません。まさしく各文明の存亡をかけた闘争の勝利こそが進歩なのです。現代においては人類のサバイバルをかけて雄々しく立ち向かうしかありません。

 その時に過去の様々な歴史上の人物の危機への対応が想い起こされ、参考にされたり、勇気づけられたりします。彼らの活躍が歴史を存続させたのであり、そのパワーを引き継がなければ、我々の時代の危機も克服できません。

 また我々がいかに現代の危機と格闘するかによって、彼らの闘争も甦り、輝くことができるのです。まさしく歴史的実存において、我々は過去の人々と繋がり、一つになることができます。全く同じことが、我々と将来の人々との関係にも言えますから、現在の課題との取り組み方次第では、過去と現在と未来が時間の壁をはじけ飛ばして、現在において出会う、「永遠の今」が体得できるのです。この事をヘブライズムでは「メシアの時」として、『法華経』では「久遠実成」として追求しました。古今東西の宗教や哲学の最大のテーマはこれなんです。西田幾多郎はそれらを踏まえて、絶対に相反する筈の過去と未来が現在という場所において一つになることを「絶対矛盾の自己同一」と表現したのです。

 我々は個体としては有限的な時間的存在です。たった一度の繰り返しの効かない実存です。今この時、この時代に何をなすべきか、我々に課せられた時代の使命とは何なのかを問い続けながら、今を精一杯充実して生きるべきなのです。その時に時代の流れの根源から過去や未来の人々との対話と連帯が、彼らとの生命的なつながりが実感できるのかも知れません。

 「近代的歴史観を超えて」と題しますと、産業主義批判を基盤にして、進歩主義的歴史観を批判し、自然との調和によって「歴史」自体を止揚しようとする試みを連想されたかもしれません。しかしそれでは批判的批判に終わってしまって、歴史的現実に即した議論にはなりません。民族国家及び連邦国家単位の歴史を超えて、グローバル・デモクラシーに基づく世界統合を志向する「歴史のクライマックス」の始まりの鐘を鳴らす歴史観こそ
が、西暦二千年代を迎えるに相応しい歴史観なのです。
(補遺ー「クライマックス」といいますと歴史が最高潮に達して、その後、歴史が終わるように受け止められる人がいて、私の考えも歴史終焉論の一つに分類されたりしますが、それは全くの誤解です。当然グローバル統合後も歴史は続きます。クライマックスということはこれまでの最高潮ということであって、その後にまた全く別の形でクライマックスがくるかもしれません。)

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