第九章 現代世界の直面する状況

交通技術の発達に伴い地球はまとまった全体になり、かつてのローマ帝国よりもっと小さくなったのです。第二次大戦は真の世界戦争であり、ただ一つの歴史としての閉じられた世界史が開始されたのです。あらゆる重大問題はグローバルな問題となり、人類全体が一つの状況に直面しているのです。

 今や大衆が決定的因子となったとして、ヤスパースは大衆を民族、公衆、群衆等との区別を通して分析します。

 「民族は様々の秩序に成員化され、生活方式、思惟様式、伝承において自覚的である。民族は何か実体的質的なものであり、共通した雰囲気を持ち、この民族出身の個人は、彼を支える民族の力によって一つの個性をもっている。これに反し大衆は成員化されず、自己自身を意識せず、一様かつ量的であり、特殊性も伝承も持たず、無地盤であり、空虚である。大衆は宣伝と暗示の対象であり、責任を持たず、最低の意識水準に生きている。人間が固有の世界を持たず、由来と地盤を持たず、どうにでも使用し、どれとでも取り換え得るものとなる時、大衆が発生する」(235頁)。

彼は大衆の発生を資本主義の下での、資本の集積と集中、独占資本の支配下での富の大量生産と大量消費に応じた社会形成によって説明するのではなく、一般的に技術の発達による自然からの遊離、地盤喪失から説明しています。その点、説明不足です。ところで個人は民族であると同時に大衆であるとして、両面を持っていることを指摘します。人間である限り民族性は奥底に秘めているとするのです。民族から大衆への転換途上に「公衆」があるというのです。民族が共同体的なまとまりを失ないますと、その都度、同じ傾向の人々が共通の文化的関心でまとまりを見せます。これが公衆です。ですから著作家は彼を支持する公衆のために書くのです。公衆は流行を追い、一定の性格を持ちません。

 個人的なもの、魂の奥底に秘められたものから、大衆の在り方に埋没した人間存在を回復に導く手掛りを見出そうとヤスパースはしているのです。彼は歴史を振り返って、大衆が歴史を造ったのではなく、個人の高度な精神的創造が真の歴史を作ったようだと受け止めています。

 今日は大衆に受け容れられなければ、どんな偉大な精神的創造でも残りません。ですから歴史は大衆を媒介にして進んでいるのです。社会教育や学校教育が多くの人の精神的向上を導き、社会的圧迫や政治的暴力の廃止が、大衆の反抗や否定の考えを消し去るかもしれないとしています。しかし、これが許容されないと、群衆化して何かに向かって暴走する恐れがあると言います。しかも群衆そのものは人格を持ちませんから、陰謀を企むデマゴーグに容易に操作されてしまう危険があるのです。

地盤や伝統からの断絶が最も象徴的に現われるのが信仰の崩壊です。ヤスパースは信仰喪失の原因を追求しています。

○技術…… 技術は人々を地盤と伝統から引き離し、魂の息吹を奪って無機的な機械しか残さないそうです。

○啓蒙…… 「半知半解は不信に導き、全き知は信仰に導く」というベーコンの言葉を繰り返し、いいかげんな啓蒙が不信仰を産んだとしています。

 ○フランス革命…… 人権宣言にみられるように人権と自由のための戦いであったのですが、その理想を実現するために、理性的に平和的な形で行わないで、世界を全体として理性に基づけるという独善に陥り、暴力に頼ったのです。ヤスパースは、世界観を形而上学として退けていますから、無地盤な理性信仰こそ近代的な不信仰の起源と考えたのです。

 ○哲学的観念論…… ドイッ観念論は全体知を自称します。被造物に過ぎない人間が神の本質や神の意志を知れるはずはないのです。この見掛けの信仰は、信仰の信用を落としたのです。

 ヤスパースはしかしどれも危機の原因というより現われであり、信仰喪失がどうして起こったのかはわからないとしています。信仰喪失の結果として虚無主義が蔓延します。虚無主義は伝承を無視します。枢軸時代以降の、ホメロスからゲーテに至る歴史が忘却されつつあるのです。しかし人間は虚無の深淵に堪えられるものではありません。信仰喪失は虚無を隠蔽して底が浅く、容易に崩れる盲目的信仰に逃避するのです。安易に世界観を振り回し、世界史や自然との一体性を主張し、救済のプログラムを説くのです。この盲信の類にャスパースが挙げているのは似而非科学的世界観、マルクシズム、精神分析、人種論です。

正しい世界観をもっていると自負する人々は、自分たちの真理を承認しない人々を誤ったイデオロギーの持ち主だと攻撃します。イデオロギーとは、認識者が物事を理解する際にその人の立場に規定されて、抱かざるを得ない特定の思想傾向のことです。当人も気付かない隠された動機から偏った認識が生じていることがよくあるのです。ベーコンのいう四つのイドラ論もイデオロギー論の典型です。マルクス・エンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』で、へーゲル左派やフォイエルバッハ等のドイツの若い論客が、ドイツ人に近代的自我の自覚を訴えることでドイツの封建的な社会を変革しようとしたことに対して、思想改造によって社会改造が可能だと考える発想自体が遅れたドイツの社会体制に起因する、甘い認識を示しており、「ドイツ・イデオロギー」の典型だと批判したのです。ヤスパースは、これを深い洞察と認めた上で、俗流マルクシズムはこれを

「心の疎通を打ち壊す論戦の残忍な武器と化した。イデオロギーであると攻撃するやり方は、敵対者そのもの、自分の見方と異なるあらゆる見方に向けられる。イデオロギーとして否認する者がまさしく、しばしば自分自身、こうした解釈の仕方の最も頑固なイデオロギーに囚われているのだ」(243頁)

と痛烈に非難したのです。論敵を批判するとき、相手の意見は一見もっともで合理性があっても、その論敵の社会的な地位とか、経済的利害とか、党派的立場による、隠された動機を暴いて、その意見をイデオロギーだとすることで、事の是非はどうでもよくなります。相手は公共の福祉のためを装って、自己利害を貫徹しようとする卑劣漢として攻撃されるわけですから。このような偽善暴露は、実は、論敵を窮地に追い込んで、自分たちは正義の味方になり、勢力を拡げようとするのですから、やはりこのやり方そのものが偽善暴露を必要とするとヤスパースは指摘します。

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