第八章 近代技術と労働

歴史を主と奴の闘争に還元するフクヤマの視点からは、現代文明の抱える技術や労働の問題を見据える発想はうかがえません。ヤスパースによりますと、近代技術の発展によって、人間は自然支配の営みを飛躍的に強めたのですが、技術によって自然は全く様相を変えてしまいました。それが人間に逆作用を及ぼします。人間が作り出した第二の自然の中で、人間は窒息させられているのです。ヤスパースによれば最初にこの事態を大きなスケールで認識したのはマルクスだったのです。
 近代技術は労働方式や社会機構を変革します。

「大量生産方式がとられ、社会生活全体を技術的に完成された機械へと変え、全地球をあげて単一の工場と化した」(184頁)。

こうして人間は自然から遊離し、故郷喪失に陥ったのです。そのような自己の喪失から気を紛らわせるために、進んで人間は機械の中の単なるねじや歯車となり、非人格化してひたすら生きることに没頭しようとします。カントによりますと人間は人格であるから互いに尊重し合えるのです。事物でしかなければ互いに手段でしかなくなり、人間としての本来の要求を失ない、絶望してしまいます。このような人間疎外の原因を、専ら近代技術に求めることは果たして正当でしょうか。

 ヤスパースは、技術を次のように定義します。

○手段としての技術… 技術はある目的達成のために、幾つかの手段を挿入することで発生します。

○悟性… 技術は悟性の働きに立脚します。物事をからくりと考え、量とか関係に変えて考えます。

○力… 技術は自然力を自然力に差し向けて、自然を間接的に自然そのものによって支配します。

○技術の意義… 技術の原理は、人間の定めた目的に奉仕するように、物事をその利用価値によって捉え、役立てる行為です。さらに技術の意義は、既成の人間に固有の環境の枠組みを乗り越えて、自己の環境を無制限に創造することにあります。

○技術の種類……動力を生み出す技術(家畜、風車、水車により動力を入手)と財を作り出す技術(紡ぐ、織る、陶器を作る、建築する)。

○発明と反復的作業… …技術はさらに別の技術に応用されます。人間は技術によって自己の存在様式を拡張し、新たな発見をなし得るのです。ただ事物を利用して目的を達成するだけでは技術としては不十分です。その仕方の機械的反復が可能な場合に技術なのです

○逸脱… 究極目的が忘れられて、手段そのものが目的として絶対化される場合、逸脱が起こる。全体の意義が見失なわれると、労働者にとって技術は無意義になり、生命の略奪になります。技術に熟練してしまうと、技術はむしろ生活の意義を貧しいものにするのです

主な動力が人力であり、その補助として自然力が使われていた限り、自然的な人間界の範囲を超えることはなかったのですが、蒸気力を機械の動力として利用することに成功した十八世紀末以降事情は一変したのです。人間が全体として技術的な生活形式をとるようになったのです。アダム・スミスの『国富論』よると分業や協業によって、数百倍の生産性の向上が見られます。この上、機械が利用されますと数千倍、いな一見無限に増大する力が人間の手に入ることになるのです。この増大を可能にするには電気学と化学の発展により、エネルギーや素材面での革新が必要でした。

ヤスパースは、経済面での条件も取り上げています。経済活動の自由が認められて、勇敢な企業家たちに自由競争が様々な試みを可能にしたのです。

第一に金融信用制度… 最大の金持ちでも所有できなかった大金を、有能な企業家に自由に調達しました。

第二に自由労働力を提供する労働組織… 労働市場によりあらゆる労働力を、契約賃金で確保できるので、予算を立て易くなったのです。

 ヤスパースは近代技術発生の三要素として、(1)自然科学、(2)発明精神、(3)労働組織、の三者を挙げています。また三者は緊密に連関し、三者に共通なのは合理性だとしています。自然科学は大部分は技術とは無関係で、発明精神は近代科学がなくとも驚異の業績をあげることだってできたのです。特に近代的なものとしてヤスパースが評価しているのが発明の組織化です。

「多くの技術的発明は、無数の人間が参加している一つの運動過程になる」(194195頁)

そのためすべてがアノニム(無記名)になってしまうのです。ほとんどすべての人間が、技術的労働過程の構成分子になりますと、技術が人間を支配することになりますので、本来は、技術は人間の手段であって、人間が技術に奉仕すべきではないという叫びから、労働者解放運動が起こります。労働者が技術的経済的目的の手段でしかないのは不当だ、反対に技術や経済を労働者のためのものにすべきだという運動です。

ヤスパースは次の点で認識不足です。近代技術による機械の下への労働の組織化、すなわち近代企業の成立は、新しい有機的な全体の成立であり、国家を人工機械人間としての大リヴァイアサンとすれば、企業は小リヴァイアサンともいうべきものです。ですから労働者は機械の部品的機能として組み込まれているわけですが、これが個人としての人間性に反するという理由で、その機能を止めるわけにはいかない現実になっているのです。この現実を踏まえて、いかに労働過程の主体としての自己を育て上げ、新しい自己の充実と福祉を図るかが構想されなければ、労働者の解放などあり得ないのです。あくまでも一般的に人間の立場に留まって、人間の手段化を告発するだけでは問題の解決にはなりません。

 ヤスパースは労働を次のように定義します。

第一に、労働は肉体労働である。… その結果、疲労と消耗に至ります。これは動物でも同じです。

第二に、労働は計画的行為である。…… 要求を充足するための目的意識的活動です。ヤスパースは、人間を動物から区別するものだとします。意識的計画的な媒介によるので、労働の材料を加工したり、道具を作ります。道具は人間と自然との媒介になり、人間は自然と直接的な繋がりから遠ざけられるといいます。しかし私に言わせれば、そのためには道具と人間の他者的な関係が確立していなければなりません。動物だって自然物を加工し、利用しています。ヤスパースはさらに

「労働は、対象を作り変えることによって、対象を破壊から守るのである」(197頁)

と述べています。木を切って家を建てますと、木は家となって保存されていると言えるでしょうか。元の木は生きた木ですが、家になった木はもはや家の材質でしかないのです。家は木ではありません。木で出来ているかどうかは家の規定性には関係ないのですから。木は破壊されて、既に木とは言えない材木になってしまったのです。労働は対象の本質を否定するのですから、元の本質の破壊には違いないのです。そして新しい事物の創造なのです。ヤスパースの労働観は、原料と製品の質料的同一性に注目するマルクスの労働観と共通しています。しかし、労働の本質は同一性を保っところにあるのではなく、対象の本質を変化させ、新しい事物を創造するところにこそ認められるべきです。

第三に、労働は動物とは異なる人間存在の基本的あり方、すなわち自己の世界の産出である。

 人間の世界は共同労働から生まれます。その為には、常に労働の分業と組織が必要です。

「労働組織は、一部は市場を通じてひとりでに無計画に発展し、一部は労働の配分によって計画的に展開される。社会が全体として、計画によって組織されるか、あるいは自由市場によって組織されるかの別により、社会の本質的な性格が区別される」(199頁)。

いずれにしても生産物は直接的な消費財では商品になるから、市場で交換されなければならないとします。その際の抽象的な価値の規準が貨幣だというのです。

「貨幣に換算される商品価格は、市場の成り行きによって自由に展開されるか、計画的な価格固定により命令的に決められるかのいずれかである」(199頁)

このように労働と社会の連関は緊密です。

 
労働の動機として、先ずあげられるのが、衣食住等人間の欲求の体系を充足しなければならないということです。しかしこれだけに尽くせるものではないのです。環境世界創出に参与でき、その為に生活しているという充実感から、労働の悦びが湧いてきます。自己実現を果たすことにも労働の動機があるのです。

  さらにヤスパースは労働の宗教的動機にも触れています。われわれは一生働き続けます。それは生活の糧を得たり、有用な生産物を作り出して自己実現を計ったりする、有限的な目的のための活動に尽きるのではないのです。働き続けるという自己犠牲的な勤行によって、有限な個人的自己意識を否定します。自分が作り出した物に対する執着や、自分が働いているのだという内面的な主体性も乗り越えられます。こうしてヤスパースによると、存在自体や超在(=神)を労働を通じて感じることができるのです。

  では近代技術は労働にどのような断層をもたらしたでしようか、ヤスパースは次の諸点を挙げています。

(1)技術は労働の無駄をはぶき、しかも労働の効率を高める。… 筋肉労働が機械に代替され、思考労働も自動機械に代替されていきます。しかし技術にも限界があって、埋め合わせがきかないところは人間が労働しなければなりません。また機械に代替されたことにより、別の新しい労働が必要になります。富が増大すればそれだけ欲求も肥大し、さらに新しい労働を生むのです。今日の現実を直視すれば技術による労働の軽減は疑わしい、とヤスパースは指摘しています。にもかかわらず技術のもたらす可能性には、労働を軽減するという原理が含まれているのです。

ヤスパースは気付いていませんが、この問題を機械技術と労働人口の関連に置き換えてみますと、空恐ろしい論理が見えてきます。労働集約的産業が発達すれば労働人口は増加しますし、自動機械が大量に採用され、労働力需要が減少すれば労働人口も減少します。機械技術の都合で人口調節が行われているのです。人間のために機械が造られるのではなくて、機械のために人間が造られるというのが現実です。工場だけでなく事務所さらには流通機構まで自動化、無人化が進めば、果たして人類の未来はどうなるのでしよう。

(2)技術は労働を変える。… 優秀な機械を監視したり、運転したりするのはそれなりの知的能力と技術的訓練が必要ですから、やりがいもあり、機械への愛着もでてきます。でもベルト・コンべヤーの傍らで、単純作業を機械的に繰返さなければならない場合は、堪え難いものになります。ただし、1970年代の後半から日本を中心にいわゆるロボット機械が導入され、べルト・コンべヤーの傍らでの単純作業の多くが無人化しつつあります。この意義は重大です。

 産業革命以来、生産の主力は機械になっており、労働者は機械の補助役に過ぎなかったのです。機械が労働者の介添えや補助を必要とすることは、機械にとって本質的なものではなく、まだ機械が不十分であったことを意味するのです。機械は本質的に労働力であり、労働者にとって替われるものなのです。両者は再生産費つまりコストの面からその経済性を比較され、選択されてきたのです。

(3)
技術にとってどうしてもある程度の組織化は避けられない。……工場がかなりの規模を持たないと、巨大な機械を使って大量に製品を製造し、経済的な合理性を実現することは出来ません。そこでどうしても労働は組織化され、その中で働く個人の主体性はかなり制約されざるをえないのです。人間が機械の部品化してしまえば、人間の意識もその影響を受け、家屋や土地も機械のようになり、金属音や機械的騒音までが現代音楽の中で重要な要素になります。もちろん文化的伝統との繋がりも失なわれていきます。人間の資質を試すテストも機械システムで行われ、機械的に振り分けられるわけです。

ヤスパースは、人間の機械化の指摘から機械の人間化の指摘までは進みません。私に言わせれば、人間の意識は、同時に機械システムの中にあって、機械の部品として機能している以上、機械自身の意識になっているのです。意識はあくまで個人的主観として、独立した脳髄の働きと見なしているので、意識は自分の意識であって、機械の意識ではないと思い込んでいるだけなのです。もちろん自我の自覚に基づく個性的な意識も存在しますが、意識内容を決定するのは、その個人を動かしている社会的諸関係であり、機械システムなのです。

 人間の意識が機械の意識機能を補完し、両者でマン・マシンシステムという一つの全体を構成しています。この全体の意識として人間の意識を捉える事もできるのです。身体的諸個人だけでなく、機械も意識機能を身体に補完させながら社会的主体として存在しています。身体的諸個人はあくまで自分たちだけが人間主体であり、機械はわれわれの手段でしかないと思い込んでいますが、そろそろ幻想から目覚め、身体的諸個人も、機械システムも共に人間体であり、その共生によって人間社会を構成している現実を認めなければならないのです。 

 古代から労働に対する評価は様々でした。バイブルでは神に背いた罰として労働が位置付けられています。プロテスタントは、これを神が与えた使命として主体的に捉え返し、聖化したのです。近代社会では労働は人間の尊厳的な本質であり、人間の人間たるゆえんだとされています。ところが近代では、労働のあるべき姿と現実の労働の惨めさという、労働の二重性が深刻な問題となったのです。

「自己の活動と労働にみずから満足を見出すこと、これが主体の無限の権利である」というへーゲルの言葉を規準にして、「誤った、人間自身が疎外された、搾取的強制的な労働様式は克服されるべきである」

とヤスパースは宣言します。そこから労働組織の中で、労働者が連帯意識をもって、働きがいを感じられるように、

「個々の労働者の配置とか、支配従属関係の在り方と自由を両立させるために」(210頁)

労働組織を改革する必要を訴えます。
近代技術に対する評価には、ヤスパースによると次の三つの種類があげられます。

(1)
近代技術は、人間にとって最適の「人間の環境界形成」という理念に添うものだと考えます。新たな環境界はまだその形態を見出していませんが、いずれ人間生活の下部構造として一応完成と言えるようなものを作り出すだろうというのです。

(2)
近代技術の辿る道は、自然の破壊、人間の生活環境の破壊であり、人間自身の破壊であると断定します。

(3)
技術はそれ自体善でもなければ、悪でもない、しかもどちらにも用いることができると、技術の中立性を主張します。

  (1)
に当たる技術の目標も終点も今日明らかでないので、(2)の危険が進行しつつあることに危機感を抱かざるを得ません。しかし絶望しないで(3)を踏まえ、(2)の原因を解明する必要があるでしよう。ただ問題は技術の善悪の判断は難しいということです。多分に技術は両刃の剣なのです。

 
技術が産み出す新しい人間の可能性について、ヤスパースは次の三点をあげます。

(a)技術的産物の美… 技術の粋を尽くして製作された製品には完璧な効用上の形式が実現されます。

「事柄そのものの中に最後に落ち着くべくして落ち着く形式が含まれていて、このものがいわば予定された永遠の形式を獲得しようとの努力によって発見されるのである」(215頁)

(b)技術は、実在界の観察の途方もない拡張を可能にする。

(c)新たな世界意識の発生… …月から見た地球を含め、世界の隅々から家庭に生の映像が届けられ、過剰なまでの情報が氾濫します。

ヤスパースは、技術を用いて新しい可能性に接近するには、人間の主権を確保しなければならないとし、そのためにも「技術の限界」について明確な認識を求めます。

(1)技術は手段であり、指導を必要とする。……ヤスパースは技術の存在理由は人間の有用性にあると考えますから、技術は技術自身に指導原理を持っていないことになります。

「人間自身が指導に立ち帰らなければならない。人間は自己の要求を明確にし、検討し、諸々の欲求間の序列を判然とさせなければならない」(219頁)。

  しかし問題は、その人間の意識自体が技術体系からくる面を否定できないことです。ですから指導の主体は、機械技術体系を含めた人間にならざるを得ないというのが私の意見です。

  (2)
技術の有効範囲はメカニズム、生命なきもの、普遍的なものに制限される。… …芸術や学問は手段として技術を利用しますが、単なる技術的産物ではないのです。それは生きた精神から産み出されるからです。技術が生命に応用されるとしても、生命の彼岸で、生命を取り扱えるだけだとします。技術そのものは類型と大量生産を目指すから、普遍的であり、非個性的、非人間的であり、何か非情なものだといいます。山崎正和が『柔らかい個人主義の誕生]で、多品種少量生産の時代を強調しましたが、技術の人間化、個性化として評価できるのでしょうか。

  (3)
いかなる時でも技術は、資源と力が限られているという条件を逃れられない。… 発展途上国が今後経済成長を遂げ、先進国なみに資源を消費するようになれば、資源はたちまち枯渇します。その上、産業廃棄物のために人類の生存が危ぶまれます。これは大変深刻な人類的課題です。

(4)技術は人間に拘東され、人間の労働によって実現される。… ヤスパースは技術が人間の生存条件を破壊するようだったら、人間が決定的な段階で技術の利用範囲や方法を決定し、制限すると見ているのです。しかし人間や人間の労働が、技術によって決定されていることも考慮すべきです。

  (5)
技術はおそらくその発明過程において何らかの可能なる目的に制限され、何らかの終結によって規定されている。… 技術的発明の終結があり得るという証明は、ヤスパースも提出できないと認めています。とは言え、十九世紀の偉大な発明家や企業家と今日のアノニム(無記名)になってゆく技術の状況を比較すれば、発展の条件は失なわれていくと見なしているのです。しかし1960年代の超大国によるミサイル技術開発競争、1970年代後半以降の企業投資によるハイ・テク技術の飛躍等を見ますと、加速度的な発展の可能性も感じられます。

 ヤスパースは現代のルネサンス以降の科学・技術の時代を、第二のプロメテウスの時代と考えていますから、次には古代高度文化に対応する高度の管理社会を予想しています。そしてその後に新しい枢軸時代の到来を展望しているのです。この観点から見ますと、科学・技術はその発達自体が、人間の存在に危機をもたらす上、高度技術に対応する組織自体が、技術の発達を抑制するように機能するというのです。ですから次は到達した技術を高度に管理して、量的な富の拡大を図る社会が構想されるわけです。

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