第七章 近代科学とその限界

ヤスパースは、人間の認識の発達には三段階あったとしています。

第一段階…… 合理化一般、神話や魔術にも一種の合理性が見られます。
第二段階…… 論理的方法論的に意識された科学、ギリシア人の科学、未発達だが古代中国、インドにも見られます。
第三段階… 近代科学、十七世紀以降ヨーロッパを他のあらゆる文化と異質化させたもの。

方法的認識、必然的な確実性、普遍妥当性の三点はギリシア人の科学にも共通してみられました。

  近代科学の特性としてヤスパースは次の諸点を挙げています。

(l)
近代科学はその精神からして普遍的である。… すべての自然現象、人間の意識および行動、あらゆる思惟可能性まで研究対象となり、探究の限界は存在しない。

(2)
近代科学は原則的に非完結的である。…… ギリシア人の科学は調和したコスモスを完結した体系として扱い、体系の認識を目的としていたので、無限に進歩する科学というものを知りませんでした。ところが、近代科学は主観の相対的な認識能力で、無限の対象を認識することになり、原理的に完結できない無限に増大する知になってしまったのです。

「ここより科学の一口同揚感が生まれるが、ついで無意味さにうちひしがれた幻滅感が生まれる」(一五九頁)。

そしてそれはカントなどの理性の自己批判によってわかっているのですが、止められません。

(3)
近代科学にとっては何ものをも関心に値しないとは考えない。… どんな取るに足らないようなものであろうと、存在するものは知られなければならないし、知られるはずであると考えます。何ひとつ省略されてはならないとする研究意識は、ひとつの包括的な自己意識に根を下ろしている、とヤスパースは解釈します。

(4)
近代科学は最も個別的なものへ没頭しながら、しかもそれらの全面的な連関を求める。… ヤスパースは諸科学の統一が成立しないわけを説明しています。諸科学はそれぞれ特有の方法論によって成立しています。ですから個別科学が独自のパースペクティブで捉えた世界しか認識できないのです。それらを総計しても、全体としての現実には一致しないのです。あらゆる知を総括し
て世界像を作ろうとする試みは、実は、ギリシア人のコスモス観の影響なのです。そこでヤスパースは、諸科学の連関を次のように捉えるように提言します。諸科学は互いに成果を前提し合っていますから、相互に補助科学となり、材料になり合っているのです。諸科学は使用するカテゴリーや方法によって別れていますが、相互に影響し合い、関係付けられて、統一の理念によって語りかけられています。そこで諸科学をその隣接関係を考慮して分類整理する「諸科学の体系」が必要になります。これは確定的知識の体系ではなく、あくまで開かれていて、動かせるものなのです。

(5)
極限まで追求する徹底性は、近代科学において最高度に強められている。…… あらゆる問は常にもう一度間い直され、前提の中に見落としていた点がないか改めて問題にされます。そしてより妥当な説明はないか次々と新仮説が登場します。

(6)
近代科学では、諸科学のあらゆる角度から同じカテゴリーが拡張的に使用される。…… 非閉鎖的な範疇論の世界をもっているのです。

(7)
近代的世界において科学的態度が可能となった。…… 科学的態度とは、明確な限定と、観察や実験を通じて実証される具体的な根拠を求める態度です。

 ヤスパースの議論で最も重大な問題提起は、世界観に基づく認識、そしてそれによる諸科学の統一をギリシア的形而上学として否定していることです。それは世界としての存在が主観による認識には原理的に開示され得ないと考えているからです。諸科学のパースペクティブは「群盲、象を語る」の類でして、いくら総計しても主観にとっての知に過ぎず、対象との一致にはならないわけです。ヤスパースは『理性と実存』等で、主観・客観の対立図式を克服し、われわれがそれであり、世界がそれである包括者の立場を構想しますが、諸科学がその立場に立って展開できるとは考えていません。

 知の限界論や不可知論が科学的な事物認識自体の真理性を否定するのに対して、われわれは科学の真理性を擁護する立場から、きちんと反論しておかなければならないでしよう。事物の本質は、事物それ自体が他の関係する事物とは別に、それ自身でもっているのではないのです。それはあくまで他の諸事物に対する関係の仕方なのです。ですからある事物を認識するとは、他の事物に対する関係の仕方を知ることに他ならないのです。その関係の仕方が実証的に確かめられる限り、認識の真理性は疑わなくてもよいのです。

それではその事物がまた別の事物に対しても、また違った関係を結んでいるだろうから、一つの事物に対する関係の仕方だけ知っても、認識としては不十分ではないかと反論されるでしょう。しかし、一つの事物のあらゆる性質を知り尽くすということは、実は、ヤスパースも気付いているように近代科学の偉大な偏執狂に過ぎません。それこそ神のみぞ知るです。われわれはそれぞれの科学的な実践場面で、直面している事物連関を知ればよいのです。

  知の主観性という限界も、真理認識の原理的不可能性を意味するものではありません。知は主観の働きであると同時に、対象が主観に自己を定立する行為でもあるのです。我々は対象的な世界の制約の中で、対象からの様々な働きかけを受け止めて生きています。間違った認識は、それに基づく実証に失敗しますから、そのことによって、対象から修正を受けるのです。その意味で認識は主観の認識であるだけでなく、対象自体の認識でもあるという面をもっており、それが真理の客観性を保証するのです。

近代科学の由来については、次の各点が指摘されています。

社会学的諸条件として……国家や都市の自由の獲得、そこで時間的余裕のあった人々 や、研究を保護奨励された人々がいたこと。多数の国家への分裂、移住の権利、亡命の可能性、列強間や個人間の角逐、異文化との広範な接触、国家と教会間の精神的闘争、印刷術の発達による意見交流や議論等。地理上の発見による地球的規模での資料の蒐集等。ありとあらゆるものが相乗し合って科学の飛躍を呼び起こしたのです。それは確かですが、様々な条件を雑然と並べるのではなく、地理上の発見に端を発した、貿易と商業の発達、それに伴う中世封建社会の動揺から説き起こして、諸条件がどのようにして起こったのか、理路整然と展開すべきなのです。

近代科学は権力意志から発しているとよく言われます。それはベーコンの《知は力なり》という言葉に象徴されます。この場合の力は粗暴な力ではなく《自然は服従することによって征服される》のですから、自然法則の認識を意味します。逆に言えば正しい認識とは、それによって自然を再生産できる認識です。《私は、私が作り得るもののみを認識するのである。》そこで二つの動機が
区別されます。

第一に権力意志…… 物を征服し、能力の獲得を目指す技術的意志です。
第二に純粋認識意志…… 技術的目的なしでも自然の過程を見抜こうと自然に尋問する科学的意志です。

 ヤスパースによれば、第二の意志には攻撃的性格はないのです。ただ明確性と確実性を求めるのが「知のエトス」なのです。ところが近代科学は誤解され、濫用されたこともありました。しかしそれは科学の自殺です。自然を破壊してしまえば、それがどのようなものであるのかを認識できなくなるからです。

 ヤスパースは聖書宗教のエトスにも近代科学発生の動機を求めます。

(1)
聖書宗教は誠実さを要求します。真理の探究は暇潰しで行われてはなりません。常に真剣勝負なのです。

(2)世界は神の創造物です。神への愛は創造物への愛に繋がります。あらゆる存在物は愛するに値するものであり、神の人間へのメッセージなのです。べーコンは「神が隠し給うたものを人間が暴く」ことを、神の創造を賛美し、神の愛に応答する神と人間とのコミュニケーションとして聖化したのです。これに対してヤスパースは、創造されたものは自己自身に根拠をもっていない、あくまで神にもつのであるから、存在は究極的には神を指し示している、だからその認識もそれ自身で完結しないとします。従って被造物をいくら認識したって、存在そのものである神との隔たりは絶対的であることに変わりはないのだというのです。

(3)世界は恐怖驚愕に溢れていて、実に残酷です。しかしそれは神が造り給うたのですから、そこに必ず義が隠れているはずです。この思いから現実の探究を通じて神の義を明らかにしようとする衝動を生むのです。だから探究は神への奉仕です。しかし被造物に神の義を求めること自体が、物神崇拝であり、神への冒瀆なのです。

ヤスパースは世界が認識可能だという場合、それは世界の中での諸対象が認識可能だという意味であって、全体としての世界が認識可能だというわけではないと断定します。近代科学が前提にしている

「矛盾なく思惟可能で経験可能であるという意味での世界は、われわれにとっては決して存在しない」(177頁)。

近代科学を哲学だと思い込む誤解によって、この誤謬が生じたのだそうです。世界が認識可能だという偽りの世界解釈に基づく認識のために、人類の安寧と福祉を保障できる世界組織の建設は善意次第で可能だという考えが広まってしまったのだ、とヤスパースは嘆きます。

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