第十六章 ヤスパース歴史哲学の意義

ヤスバースの歴史を捉えるスケールの長大さに先ず息を飲みます。人類史を未来の枢軸時代まで含めて二つの呼吸で表現する見事さには脱帽のほかありません。1980年代には時代のトレンド(潮流)を先取りしようと近未来学が、ビジネスマンに馬鹿うけしましたが、せいぜい十年先位までしか見通そうとしません。それ以上先のことは、ビジネスの関係では不確定要素が強くて、よくわからないのです。わかって手を打てば、それによって未来予想が外れてしまうので、原理的に長期予想は不可能なのです。

ところで最近の予想では、社会主義世界体制が解体してしまい、資本主義国においても、労働運動や社会主義運動等いわゆる左翼的な運動全般の凋落は、ますます深刻の度を加えるだろうとされましたが、それが的中して、ついに社会党まで革新色を一掃しました。それと表裏一体の形で、混合経済から自由主義への経済体制の逆行が進んで、行財政規模の縮小と民営化、民間活力依存が叫ばれています。老齢化社会の到来に当たり、社会保障の切り下げが進行しており、所得税を累進性を緩和する方向で引き下げ、消費税率を引き上げて、自助精神が説かれています。またグローバルな規模での資本間競争の激化が見られ、アジア市場の急成長で大競争時代が現出し、価格破壊、賃金破壊が進行しています。これに対処するため生産性向上、シェア拡大等のしのぎを削る戦いが繰り広げられています。

安定成長期に入ってから、末端労働者一人ひとりにまで企業家的精神を植え付け、利潤獲得競争に主体的に取り組むよう要請されるようになっています。労働者は自分で自分の首を締めるように主体性の発揮を求められているわけですが、そのことがかえって、これまでの夕テ型の会社組織から横型のネットワーク的会社組織へと変貌させる推進力になり、職場の疑似民主化傾向を生み出しつつあります。労働者に疑似的なコンサマトリー(自己実現)の機会として職場を捉えさせることが、生産性の向上に大いに繋がるのですから、資本の側としてもその傾向を追求せざるを得ないわけです。労働者の側としてはこれを労働強化や締め付けに使わせないようにしながら、他方でその内容を真の職場の民主化、真のコンサマトリーの機会として獲得する努力をしていくことが大切です。ともかく内容的には積極的に評価できる面をもちながらも、アンビバレント(両義的)ですから、表面的には新しい保守主義の時代を迎えているわけです。この傾向は、たとえ政治的に社会民主主義者が中心の政権が多くなったとしても、基底としては変わりません。

 この新しい保守主義の時代が当分続く中で、恒久平和、民主主義の徹底、人権の尊重を求めて戦う人々、そして環境の保護と社会連帯、労働における自己実現と新しい共同体を求める人々は、歴史的な未来に希望を失ないつつあるようにも見受けられます。市場経済を克服できない段階では、市場経済に最も適合しやすい企業形態である資本主義企業が、自由競争の中で強靭な生命力を保ち、高い生産性向上傾向を示します。極端な経済的破綻や戦争など民族的危機でもない限り、この段階で資本主義企業を国有企業に転換することはとても無理です。また国有企業になってもその運営は資本主義的に行われることになります。

マルクスも強調していますが、資本主義がまだ経済的合理性を持ち、生産力を向上させる余地がある限り、社会主義に出番は来ないのです。ですから社会主義に代わるには、資本主義の矛盾が生産性の向上を妨げたり、余程の政治的・経済的危機に直面したり、環境破壊が深刻化して経済に対する統制を極端に強めなければならなくなったりするか、それとも社会主義的企業の方が生産性の伸びが良くなるかしなければなりません。

 とは言え、資本主義が未来永劫に続くと考えるのも説得力はないでしょう。既に株式会社という形態が、私企業の中で最も最大限利潤獲得に適しているだけでなく、最も社会化が進んだ形態でもあるのです。所有と経営の分離が進み、会社は、株主の意向よりも会社自身の自己保存と拡張をより強い原理として運用されつつあります。そして会社自身の存続のためには、人材を確保し、その能力を十二分に開発する必要があります。その為にも会社への従業員のアイデンティティを強めることが重要です。そこで企業を疑似的に共同体として意識させようとするのです。もちろん疑似的なものですから、企業環境の変化次第で、またもっと企業の考える経済合理性に適った方向が見出されれば、いつでも方向転換されるものでしかありません。

現存の「社会主義」国の企業も市場経済の下で、独立採算性が強化されてきていますから、所有と経営の分離が進み、経営の原理も企業利潤の蓄積に置かれるようになりつつあります。そうしますと労働力賃金はコストとして扱われ、労使対立が深刻化することになります。こうして体制的な差異が解消に向かい、社会主義でも私企業が奨励されて混合経済化することになります。それでも遠い将来まで展望しますと、真の民主的な職場、真のコンサマトリーを求めて、社会全体の中での自分達の企業の置かれた責任ある役割を遂行するために、人々は自由に話し合い、自分達で決定できる共有の職場を求めるでしょう。それが実現するのは、もちろんそのような職場の方が、資本主義的な企業よりも経済合理性に優れ、創造性を発揮できて労働意欲が旺盛になり得た時です。それはまた労働者自身が、自治能力を備えるようになった場合ですが、そんな時が、未来永劫に来ないとは言えないでしょう。

 十年、五十年、百年の物差しで考えても実現しそうにないことでも、千年、二千年の将来まで考えれば決して実現不可能とは言えないはずです。今われわれが迎えようとしているのは、二十世紀末(追記―『歴史の危機』は1995年に刊行された)ですが、同時に一千年代末でもあるのです。次の千年間つまり二千年代に恒久平和の世界秩序を築き上げ、地球規模の混合経済を展開しつつ、やがては、自由人の連合体としての新しい共同体を建設するようになるのかもしれません。このような将来の遠大な構想を思い描きますと、今日のひとつひとつの自由と連帯の輪を広げる努力が、充実したものとして受け止められるのです。ヤスパースは二つの呼吸で人類史を表現したことで、彼が敵意を燃やしていたコミュニスト達に塩を贈ったことになるのかも知れません。もっとも彼が存命していたら、二千年代のコミュニスト達には、彼の存命の頃のような敵愾心を燃やすことはなくなっていたでしょうが。

マルクス主義を批判するに当たって、ヤスパースは、マルクス主義は全体知の立場に立って、なんでもわかっているつもりになり、真理や正義を独占しようとするので、異なった意見に対しては真理や正義に敵対する者として排撃しようとする、だから互いに謙虚に話し合い、共に前進するように働きかけ合う誠実さに欠けていると考えているようです。実際、権威主義的だった当時のコミュニストの運動に対しては、ヤスパースの批判はかなり説得力を持ちます。

しかし、当時のコミュニストが独善的で権威主義的であったことと、マルクス主義が全体知の立場に立つことの当否は別の問題です。精神的なものの基礎に物質的なものを捉え、物事の発展を弁証法的な論理で解明する世界観は、弁証法的唯物論と呼ばれます。この考え方自身はイデオロギーに陥るのを避けた合理的かつ常識的なもので、科学的認識を志す者がそのような世界観を抱くこと自身、別段怪しむに足りません。このような世界観に立てば、当然この立場から、歴史の発展法則を解明したり、社会の矛盾とその解決の筋道を分析したりすることになります。世界観である以上あらゆる分野に適用できるわけで、いわゆる全体知になります。しかしこれはあくまで人間の抱く科学的な認識ですから、神のごとき完全な知ではありません。認識した結果は、実験や実践によってその真理性を検証され、誤りを是正されなければなりません。あまりいつも間違うようでしたら、方法論やさらには世界観自体にも根本的な問い直しが求められます。

 世界観に基づく全体知を形成しようとすることは、当然の科学的な誠実さであり、良心に属することです。各科学分野でそれぞれ分析方法は異なるとしても、そこには世界観に基づく統一、思想の一貫性がなければ、その立場は趣旨が通らず、信用されなくなってしまいます。また世界観に基づく全体知だから排他的になるとは限りません。マルクス主義と実証主義との間では共通の土俵があります。両者とも、少なくとも論理展開の正しさだけでなく、実験・観察や実践による検証の必要性を認めていますから、真偽判断をめぐって対話が原理的に可能なのです。

最も排他的な知は実験や実践によって検証を必要としない宗教的な知です。超越的な神による創造や救済は、原理的に証明不能ですから、逆に言えば原理的に否定することもできません。ですから信じてしまえば、信じていない人は根本的に誤まっていることになります。ヤスパースの場合、神に対する不信仰をニヒリズムの根源として、そこから傲慢な全体知が生じるとしています。全体知は神の創造や救済を前提していないのですから、神抜きに人間の本質や存在意義、歴史的実存を論じなければならなくなります。ヤスパースに言わせれば、それらは神によって造られ、神から与えられるものなのですから、社会的な事象や、存在者を幾らいじくり回してもわかるはずはないのです。だから人間は、それらが結局、神から来ることに気付き、神に向かい合う実存に到達すべきだということになるのです。これはソクラテスの「無知の知」の顰に倣っているようです。

でも、究極的にはそのようになるかもしれないにしても、初めからそれがわかっているのではないのですから、われわれは神抜きでどれだけ展開できるかどうかやれるところまでやるべきでしよう。実際、超越的な神概念によって、人間存在の意義づけや価値を論じているのは、キリスト教やイスラム教の文化圏に限定されます。一般的には、人間存在の有限性の自覚と社会的責任の自覚から、人間存在の意義づけや価値づけがなされているのです。それに超越的な原理からの意義づけは現実の世界を貶めて、自然の調和や人倫に背くことも、神のためと称して敢えて行う虞れがあります。自分は信仰によって道徳的に支えられているつもりでいて、そこから信仰を持たない者はニヒリズムに陥り、道徳的に弱点を持つと決め付けるのは不当なのです。

思想史的に観れば、ヤスパースの本書における最も重要な問題提起は、枢軸時代に関する考察でしよう。古代高度文化の解体と小国家の乱立と、その結果としての戦乱等を条件にして、人間が初めて自己自身に対する根源的な反省を行い、人間としての生き方を問い質したのです。それ以降の時代の思想も枢軸時代に戻り、枢軸時代の古典との真摯な対話とその批判的継承によってのみ、創造的で高い水準に達することができたのです。この指摘は今日ますます重要な意義を持っています。と言いますのは、近代的な知の主観主義的な限界が指摘され、いかに近代的な知の枠組みを確定し、批判し克服すべきかという問題が、近代社会の矛盾の深刻化及び人類的危機の深化によりクローズ・アップされてきているからです。この問題への取り組みは、枢軸時代の古典と近代知との本格的な格闘から始めるべきだと思われます。このことを忘れて近代知のパラダイムを窓意的にでっち上げ、その克服を打ち出しても、生産的ではありません。枢軸時代の古典の意義を再確認する上で、ヤスパースの貢献は大きいと思われます。

ただし、新しい枢軸時代への展望には余り説得力がありません。彼は第二の呼吸という形にした、第一の呼吸に対応せざるを得なくなり、新しい枢軸時代を近代科学・技術時代の後に訪れる世界秩序を経て、その後に真の人間が生成する新しい第二の枢軸時代を構想しているのです。もちろんそれがどのように行われるのか思いもよらないと断わっていますが、

「恐るべき苦悩と苦難を通じて身の毛もよだつような深淵を通り抜けて、真の人間の生成に辿り着くかどうか」(63頁)

としていますから、世界秩序の形成過程か、世界秩序の形成後に破滅的な事態の到来を予測しているように受け取れます。いわばハルマゲドン(最終戦争)が起こって、その後に生き残った少数の人々 が、人間に関する根源的な反省によって、真の人間に生まれ変わるという図式に近く、「最後の審判」を連想させます。あるいはそのような事態も大いにあり得ますが、世界秩序に行き着くためにも、深刻な人間に関する反省は必要ではないでしょうか。また世界秩序が解体の危機を乗り越えるために深刻な人間に関する反省が要請されることも考えられます。それに永遠の現在という歴史的実存に生きるならば、新たな枢軸時代はこの著作自身によって開始されているという自負があってしかるべきでしょう。

 「充実した今」「永遠の現在」を生きるためには、歴史的実存を忘却してはなりません。われわれは人類の歩みの中で、今を生きているのであって、その意味で過ぎ去った日々は今日に引き継がれているのです。様々な人々の苦悩や喜びが今日を生きるわれわれの糧となっており、過去の人々の叶えられなかった願いが、われわれに課題として重く課せられているのです。われわれがいかに今を生きるかによって過去の歴史的実存が活かされもすれば殺されもするのです。それはわれわれの歴史的な個体的実存と過去の人々の歴史的実存が、根源において一つに結び付いており、連なっていることを示しています。

また今日をいかに生きるかが将来の人々の歴史的な個体的実存の条件を形成することになります。そのことによって将来の歴史的実存と根源的に一つに結ばれることができるのです。われわれの思いと将来の人々の思いが一つに重なり、今と未来が重なるのです。このような「充実した今」「永遠の現在」という発想に生きることによって、われわれは有限な生の限界に挑戦するのです。もちろんいかにあがいたところで生命の有限性は消去できません。永遠の生命への憧保という宗教的な動機は、生命の有限性の切実な自覚から生じます。ですからその成就も生命の有限性から幻想的に逃避するのでは叶いません。かけ替えのない一回限りの生を、歴史的実存を媒介にして無限なる人類の生命とのアイデンティティを掴み取り、この個体的な実存において輝かせることによって為し遂げられるのです。ヤスパースの「われわれがそれであるところの包括者」の立場も、異次元からの救済を連想させる超在の発想を退けるならば、説得力を持ったと思われます。

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