エピローグ 歴史哲学と人間論の時代

歴史が意識に浮上する時

歴史が意識に浮上するのは、時代の変化を告げる事件を通してです。ヤスパースは二度の世界大戦と冷戦の激化を体験して、世界が新世界秩序か世界帝国に統合される流れを感得しました。フクヤマは東西冷戦の終焉に歴史の終焉を見たのです。本書では東西冷戦の終焉が世界市場統合を進めており、ヤスパースの予言した世界統合へと向かいつつあることを指摘しました。今日の我々はこのヤスパースの指摘がある程度当たっていたことを、価格・賃金破壊に象徴される「大競争時代」の到来という事件を通して体感しているわけです。かなり経済的精神的ダメージを伴っての歴史体験ですが。

 川の流れのように過去から現在を通って未来へ流れる時代の流れを見定める事で、今、現在何をなすべきかが判断できます。その意味で歴史感覚には実用性があります。世界市場の統合が更に進展していくことは止めようがありません。ですからそこから必然的に伴ってくる事柄も課題として引き受けなければなりません。

地域紛争や民族紛争が長引けば、その当該地域が深刻な経済的立ち遅れを招いてしまいますから、国連などの仲介で芽の内で収める必要があります。また地球環境対策がこれ以上遅れますと手遅れですから、グローバルな環境規制が可能な国際機関の設置と、その下での先進国から途上国への公害防除及び環境改善技術の移転を軌道にのせるべきなのです。それには国連の改組や強いリーダーシップをもった世界的なリーダーの登場が必要かもしれません。確かに世界市場統合が進みますと、外国人労働者が増加しますし、安い賃金を求めて途上国に生産拠点を移そうとして、先進諸国の国内産業の空洞化が懸念されます。それに伴って賃金破壊や失業増加が起るのです。途上国でも急速な工業化は地域格差や所得格差を拡大し、公害・環境破壊が深刻化します。そして経済摩擦や文化摩擦などの民族間の対立がエスカレートしていくのです。

 だからといって外国人労働者を排斥し、保護貿易主義をとり、世界市場統合に反対するのは間違いです。世界市場統合によって、環境技術の移転も可能になり、統合された世界市場を背景にグローバルな環境規制も可能になるのです。また世界市場統合で飛躍的に拡大した市場を前提に、先進諸国の経済発展も可能になるのですから。ですから世界市場統合を前提して、その下で世界の安全保障、環境保全、経済の安定的成長が可能になるような新世界秩序を形成しなければならないのです。それがグローバル・デモクラシーを理念にしたグローバル・ポリティカル・エコノミーの構築の課題です。

 その為には消極的な歴史観の克服が必要です。歴史終焉論や進歩史観批判の論調にも警戒が必要です。世界統合という次のステージへの歴史の前進を展望する歴史観が必要なのです。つまり歴史観は第三者的、評論家的で客観主義的な科学的予測に基づいて将来を展望するのではなく、歴史の趨勢からして、将来この方向に進んでいかなければ人類の未来はないと思われる方向を指し示す、実践的、主体的なものでなければならないのです。

もちろん実践的、主体的な歴史観といっても、充分に実現可能な根拠を持ち、大多数の人々が共感可能な方向でなければ単なる個人の夢想に過ぎません。ただしその科学的或いは理性的根拠を強調し過ぎて、必然的にこうなると断定して、無理にその方向に人々を導こうとすると、真理の押しつけ、理性の独裁となり、自由の実現の名において自由を完全に抹殺するジャコバン党やソ連共産党型のテロル独裁政治になってしまうのです。

 望ましい未来の方向が見えても、それを実現するには国家や連邦や人類規模の協力が必要です。大多数の人々の合意と積極的協力を取りつけてはじめて実現するのですから、あくまでリべラル・デモクラシーのルールに則って、目的の実現を目指すべきなのです。

歴史的事件と民族・人類の自覚

歴史を感じる事件に遭遇しますと、人は自分が民族のあるいは人類の一員であることを納得させられます。戦前の日本では出征することになれば、否応なく自分が日本人であり、国家や天皇の為に身命を賭して戦わなければならないことを自覚させられたのです。

また六十年安保闘争を体験した民衆の一人一人は、自分が平和と民主主義への人類全体の意志を体現した存在だと確信していました。アポロ宇宙船からアームストロング船長が月に第1歩を記した時、地球上からテレビを通してその画像を食い入るように眺めていた人類の一人一人は、遂に自分たちは月に着いたのだと思ったのです。人間は普段は個人的な意識で生活しています。歴史的な事件に関わったり、引きつけられたりしない限り、自分自身の中に民族や人類を見出すことは少ないのです。歴史的事件が自分たちを民族や人類へと連れ戻すのです。

日常生活にも科学技術の日進月歩の進歩が反映して目ざましい変化が見られます。十年前は手書きで原稿を書いていましたが、今ではワープロ(付記―2005年現在では「ワープロ」はもう生産をやめています。)で書いています。台所や茶の間にも様々な変化が見られます。その変遷はまさしく歴史的だと言えましょう。でも個人的な日常生活を構成しているモノの進歩は、それ自体個人的な世界の出来事として捉えられますので、そこに民族や人類へと連れ戻すインパクトが感じられないわけです。しかしこのモノの変化がもたらす様々な問題が、極めて深刻な人類のサバイバルに関わる環境問題を引き起こしているのです。この「モノの疎外」が「歴史からの疎外」を人類にもたらしていると言えるでしょう。

 個人的な生活に埋没し、歴史を忘却することは、ある意味で気楽かもしれませんが、民族や人類へと自分を繋げるものがないのでかえって孤独になり、不安になるのです。と言いますのは個人はすぐに歳を取り、滅び去っていきます。自分のアイデンティティ(自我同一性)を歴史的事件を通して民族や人類に求めることで、滅びない自分を確保したいわけです。つまり特攻隊に志願したり、安保反対デモの渦に加わることで歴史的人間として民族や人類の歩みを体験できるわけです。

歴史上の人物との一体感

歴史的事件との遭遇では、マス・メディアを介した情報と映像との遭遇に過ぎない場合でも、大きな精神的衝撃を受けることがあります。ベトナム戦争に関する報道は、アメリカの正義に大きな疑問符を与えました。天安門事件の報道は、人民解放軍が人民に銃を向けたので、中国政府の措置を支持した東欧諸国で革命の引き金になりました。

 歴史的事件はその渦中に生きた人々だけではなく、マス・メディアを媒介にして世界中の人々に歴史的体験を与えます。そしてそれが別の場所に歴史的事件を引き起こすきっかけを生むことになります。小銃でアメリカの戦闘機を撃ち落そうとしても、後ろからでは戦闘機は弾丸より早いから無理で、それで命を張って前から撃ち落としたというべトナム英雄の話は、世界中の民族解放運動や反戦平和運動にも強い気概を与えたのです。歴史的事件はこうしてその事件に関わった人々精神をも伝え、それを世界中の人々の心に植えつけて再生するのです。

歴史的事件は同時代の世界中の人々に影響を与え、その精神を世界に再生するだけでなく、語り継がれ、書き継がれてゆくことによって、後世の人々の精神にも甦り、その民族や人類の歴史的伝統を形成すると言えるでしょう。特に歴史上の偉人達の人生は、象徴的に物語化されて感動的に再構成されています。後世の人々はそこから現代に通用するスタンダードな思想や生き方や気概を学び、今、この時にその人が生きていたら、どのように歴史的事件に関わったかを考え、現在において今を生きるナポレオンやレーニン、イエスや親鸞になるわけです。

つまり我々が今、この時をいかに生きるかで過去の歴史上の偉人たちが輝いたり、輝かなかったりするのです。それはまた我々の今、この時の生きざまや歴史的事件との関わり次第で、将来の人々の生きざまを左右することになるということです。

例えば二宮尊徳は人道を実現する方法を分度と推譲だと諭しました。「分度」とは合理的生活設計を立てて、勤労と倹約を行う事です。そうして家や事業を建て直す見本を彼は見事に示したのでした。そして勤労と倹約によって蓄えられた富は皆の為に社会の為に推譲(譲って活用)するべきだと教えたのです。つまり富が蓄えられたのは社会や自然が自分に協力し、支えてくれたからできたのです。あくまでその徳の御陰でよい仕事ができたのだから、その徳に報いるためには、富を私物化して私利私欲を満足させようと浪費すべきではないというのです。社会全体に還元するのが一番良いことになります。この思想に感銘して「推譲」を行う人が出る間は、二宮尊徳は今も生き、将来にも影響を与え続けるでしょうが、推譲を行う人がいなくなってしまえば、二宮尊徳も埋もれてしまうことになります。

 こうして我々が今、現在をどう生きるかが過去の人々、未来の人々を生かしたり殺したりするのであり、今、現在において過去・現在・未来の人々が出会っていると捉えられます。このように過去や未来を包摂した現在こそが、真に実存的な「永遠の今」なのです。ユダヤ教における「メシアの時」、法華経における「久遠実成の時」、西田幾多郎の「過去と未来の現在における絶対矛盾的自己同一」の発想にも、このような「永遠の今」への追求が窺えます。

歴史法則の落とし穴

とはいえ人生は一度きり、やり直しはききません。過去の偉人の人生と自分自身の人生は、全く別の人生であり、他人に代わってもらったり、模倣したりできないものなのです。模倣は二度目は悲劇で、三度目は茶番だといわれます。自然科学的な法則性とは違い、歴史には同じ条件を造って、同じ結果を生み出す事は原理的に無理なのです。

 また発展段階も文化的諸条件も異なる様々な社会に、同じ歴史法則を画一的に適用してもうまく行く筈はありません。スターリンは、ロシア革命の経験を機械的に全世界に適用しようとしてプロレタリア独裁の理論とそれに基づく共産党独裁政治を東欧諸国に輸出しましたが、東欧諸国の国民に支持されたとは言えません。

 でも歴史法則を見出し、それに基づいて歴史的な出来事を科学的に認識し、実践的な方策を立てる際の参考にすることは必要です。経済的土台が政治的文化的制度的な上部構造を決定するという唯物史観の定式は、よく極端な土台還元論だと誤解されている向きもあります。しかし経済的諸条件によって基底的に規制されていることを無視して、政治やイデオロギーの変革を叫んでも、そう叫ぶこと自身が未熟な経済的土壌の反映でしかないという面を指摘しているだけなのです。決して上部構造の土台に対する影響力を一般的に否定しているわけではありません。

 また史的唯物論は〔原始共同体ー古代奴隷制ー中世封建制ー近代資本制ー自由人の共同体〕という歴史の発展段階論を歴史解釈の物差しに使用してきました。これも先天的な真理体系と受け止められますと、この公式に当てはめて無理やり歴史を解釈することになりかねません。当然この公式は西ヨーロッパの十九世紀の歴史認識に基づくものに過ぎません。

しかもマルクスは古代専制国家の総体的奴隷制にも注目していて、それに触発されてアジア的生産様式論争が起こり、各国の地理的文化的民族的な特殊性に立脚した発展段階議論が活発になりました。今では東アジアの古代史像を考える場合に、支配的な生産様式として奴隷制が存在したことは疑問視されているようです。

また必ず発展段階は順を追うもので、飛び越すことはできないものなのかが、経済的に資本主義が未発達な諸国での革命論争で戦略上の大きなテーマになりました。これは結論がでないままに「社会主義」経済体制が瓦解してしまったのです。

 「社会主義」経済体制といっても、国家資本による集産体制で中央集権的な計画経済に基づいて行うものでした。それなら資本主義経済の本源的蓄積の一つの型として位置づけられます。だから封建制から「社会主義」経済体制への移行は合理性があったのです。もちろんそこから自由人の共同体へと更に発展するのは、共産党の一党独裁体制では官僚主義的になり、人民の自由人としての主体性が認められない以上、とても望めません。

 歴史法則を当てはめようとする発想には大きな落とし穴があったのです。特に発展段階説は、現存「社会主義」体制を一応資本主義を克服した社会として、「社会主義」として安易に認知してしまう傾向を生んだのです。本当は共産党の一党独裁が、社会主義の定義である労働者による生産の自己管理を台無しにしていないかどうかを、きちんとチェックすべきだったのです。それができなかったのは社会主義者たちが階級闘争から発想するあまり、基本的人権の尊重を根幹にしたリペラル・デモクラシーの経済体制への貫徹こそが、社会主義の基本理念であることを見失っていたからだと思われます。

人類統合の展望

現存「社会主義」体制の崩壊は、世界市場の統合を加速し、それに基づく世界新秩序の形成の課題がクローズアップされつつあります。歴史は急速に動きだし、次の時代のステージを次第にライト・アップしつつあるのです。これはある意味で選択の余地がありません。別の道を選べば、とんでもないカタストロフイ(大崩壊)に見舞われるからです。

 日本文化のアイデンティティを守ることを世界統合と対立させて、排外主義にはしることは許されません。むしろ日本文化の質を世界に通用するハイ・クオリティで魅力的なものに高めることで、世界に拡げることが新しい時代における日本文化のあり方なのです。そのためには他の民族文化から素晴らしいものを謙虚に学びとり、異文化と融合を計ることも必要なのです。

 こうして世界は、一つの世界へと進まなければなりません。そのことは様々な困難や摩擦を生み、激しい痛みも伴うでしようが、人類のサバイバルを考えるとき、むしろ積極的に歓迎し、それに先頭に立って取り組む気概が必要なのです。ヤスパースはもともと一つであった人類が、別れて様々な道を歩んだ結果、再び出会って一つになると捉えています。これがヤスパースのいう「歴史の起源と目標」なのです。人類史を一つの全体の歩みにまとめあげて捉えるのは、非常に壮大で素晴らしいと感じます。でもそれも形而上学的な理念で歴史に型を嵌め、その通り無理やりさせようとして悲劇を招く発想だと言われるかもしれません。

でも西暦二千年代を迎えるこの時期に、新世界秩序の構築が模索されているこの時期に、地球環境のグローバルな危機が叫ばれているこの時期に、人類の歴史を全体的に振り返り、人類統合の展望をしてみることは大変重要なことではないでしようか。

歴史哲学から人間論へ

人類史の総括、人類の統合を考えるということは、取りも直さず、人間とは何かを考えることに他なりません。人間とは人類史の全体だとすれば、人間の歴史が即ち人間だということになります。個々の人間の人間性も歴史性において捉え返されることになります。ハイデガーは人間を時間存在として有限性において捉えました。「死の先駆的決意性」において今、この時代に歴史的課題を背負って生きることに実存的な生き方を見出したのです。確かにただ生きることに固執するだけでは、歴史存在とはいえません。死を前提に人類の歩みに繋がっている自己の自覚が、歴史的人間の本領なのです。

 死を覚悟した勇者が主になり、死を恐れた弱者が奴となって、歴史が開始されたというコジェーブのへーゲル解釈は、人間存在を主・奴闘争に還元し、均質社会の形成を歴史の終焉、人間の死と規定してしまったのです。そしてわずかに歴史の終焉した社会における人間性を、形式化された価値の追求に優越願望の充足を計る、日本的スノビズムに求めたのです。コジェーブやフクヤマは、高度に発達した資本制社会は、貧富の格差はあるものの人格的平等が実現し、欲望の充足がなされている均質社会であって、もはや主・奴の関係は止揚されていると言いたいのでしょう。それは必ずしも企業が経営者や資本家に奉仕するために労働者を搾取する体制とは言えないことを前提にしているのかもしれません。法人企業は法人の自己保存、自己発展の為に存在しているのであり、経営者も資本家もその為の駒か資金源に過ぎないからです。

 彼らの人間概念が個人レベルですから、法人企業や国家を人間として捉えることができないのです。その点、ホッブズは国家を人工機械人間としてリヴァイアサンのイメージで捉えています。法人企業も生きた意志を持つ全体であり、意志決定主体として行動するジャイアントなのです。法人資本主義は、企業自体が従業員を支配する専制的体制なのです。その意味で主・奴の闘争は継続しています。法人資本主義の意志決定機能に従業員全体が民主的に参加できるように改革していくことで、この一方的な関係が変革されるのです。

 人間は自然と断絶して、人間となり、更に人間がつくり出した機械や生産物によって、自然との関係を喪失し、その結果人間環境を破壊して人間自体のサバイバル危機を迎えているとよく言われます。そして物質文明・機械文明が人間に対立して深刻な人間疎外に陥っていると告発しているのです。人間でない筈の物や機械が人間を押しつぶし、支配していると嘆きます。物や機械や紙切れまでが人間の社会関係を取り結び、人間を商品化し機械の部品化して扱き使い翻弄すると言うのです。そしてこうした人工的で非人間的な物の為に自然との有機的なつながりが失われつつあると、物化・物象化・物神崇拝を批判します。

しかし私に言わせれば、人間が生み出した社会的諸事物だって人間の非有機的な身体であり、人間的な自然なのです。人間を身体的な諸個人に限定して捉えているから、人間でない機械や生産物に人間が支配されているという不毛な議論に陥るのです。そして人間が物でないのに物化されるという現代ヒューマニズムの非人間化論になります。

人間は確かに単なる物ではないけれど、物として自然に対象的に働き掛け、自然を獲得する主体なのです。だから物としての面を持ち、近代機械工業では、もはや主役は身体ではありません。諸個人の身体は機械を補完する役割をするにすぎないのです。それは人間が単なる身体的存在に止まらず、機械をも自己の一部とする生産体系の全体でもあるということを意味します。人間環境のサバイバル危機に当たって、このような人間自然関係の根底的な「人間観の転換」の必要があるのです。

 人間の起源を問うに当たっても、人間と自然が断絶し、社会的諸事物を自己の身体から区別して、動物的な生理的表象ではない、客観的事物として捉え返したきっかけを追求すべきです。フクヤマのように生死を賭けた闘争に求めたり、ヤスパースのように分からないことを前提にするべきではありません。社会的な自他の関係の発生を考察すれば、交換を契機にして客観的な事物認識が発生し、それを背景に主語・述語構造を持つ言語が発生したと捉えるべきだというのが、私の見解です。

 本書ではへーゲル、マルクス、ニーチェなどの歴史哲学の本格的な再検討も行いたかったのですが、それは宿題に残しました。それと共に歴史哲学を本格的に展開し直すためにも、「人間観の転換」の試みを古今東西の思想の中から再発掘するという前著『人間観の転換―マルクス物神性論批判―』で書き残した宿題を次著では果たしたいと思っています。

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