第十五章 歴史の克服

ヤスバースは、最後の章で「歴史の克服」の方向を示しています。

(l)自然に心を向けることによって歴史を越える。……美しい自然に心奪われて、時を忘れることがあります。その時、その行為は歴史を忘れるための逃避であり、結局は人間と自己自身からの逃避である場合も考えられます。超越神論の立場から見れば、自然は被造物であって、神自身ではありません。雨上がりの草のひと雫の輝きに生きる喜びが溢れてきた時、この雫を神の顕現と見なせば物神崇拝になりますが、神の示された言葉なきシンボル、神から与えられた暗示と解すれば、あくまで真実だと言うのです。ですから自然という神の暗号を通して、意識は自然を向いているのではなく、自然を越えて神に向かっているのです。汎神論、自然信仰の立場に立てば、自然自体がつまり森羅万象が神の御姿であり、神自体なのです。生きる喜びを与えたのは草の上の雫に他ならないのですから、雫が感動を与えた主体なのです。

(2)
無時間的に妥当するもの、非歴史的な真理、自然科学的なあらゆる必然知、あらゆる変化を越えて恒存する普遍妥当的なものの全形式へと歴史を踏み越える。……しかし、これはヤスパースによれば、悟性だけにやすらぎを与えますが、われわれ自身にはやすらぎを与えません。それは存在者に該当しますが、決して存在には該当しないからです。この場合、《存在者》とは具体的な存在する事物や身体を指します。それに対して《存在》とは、存在者の根源的な根拠、われわれがそれである包括者としての実存、真に存在するものとして存在者を創造する超在(=)等を指します。

(3)
歴史性の根拠へと歴史を越える、すなわち世界存在の全体としての歴史性に達する。……自然の出来事もまるで共通の根から発しているかのように、歴史によっていわば魂を吹き込まれるものとしています。

(4)
ヒストリー(書かれた歴史)を通じて歴史的な個人と実存的に交わるとき、共に歴史を背負って、永遠の現在を生きる歴史的な実存になります。《永遠の現在》こそ歴史を越えた歴史的な時と言えるでしょう。

(5)
無意識的なものへと歴史を越える。……無意識的なものとは先ず、意識の対象としてわれわれが世界の中に見出すあらゆるものがあげられます。ただし

「内奥の本質はそのものからわれわれに伝達されない」(498頁)

とヤスパースは語ります。彼は事物を神の被造物と受け止めていますから、創造の秘密は知り得ないと考えるのです。しかしながら、事物の本質は対象的関係でしかありませんから、内奥の本質という捉え方が、既に事物の本質はそれ自体の中にあると捉える形而上学的な誤謬に陥っているのです。

彼は意識の下層に横たわる無意識を二通りの意味で捉えます。一つはそれ自体で存在し、かつ永遠に解明されぬ自然としての無意識、つまり身体を支える自然機構としての無意識的なものです。もう一つは開明への衝動を持つ精神の萌芽としての無意識です。後者は超在と実存を意味するのです。超在は、言語、詩、表現及び自己表示において、諸々のシンボルを駆り出しながら自己をあらわにするのです。あらわにされた状態は既に意識ですから、超在のシンボルに過ぎません。超在自身ではないのです。だからこそ超在は無意識なのです。実存は反省によって明らかになる無意識的なものなのです。

悟性的な意識で事物的な存在に関わっているだけでは実存ではありません。事物的な世界での関わりや科学的認識ではどうすることもできない《死・争い・苦悩・罪責》等の限界状況に直面し、それを見据えて生き抜く時、限界状況の乗り越え不能な壁の向こうに、すべてを生み出した存在の根源である超在が感得され、超在に立ち向かう実存が意識されるのです。実存は本来的に人間が限界状況にある限り、人間の特性なのであり、それは意識する以前にそうなのです。その意味で実存も無意識的なものなのです。

 しかしわれわれは無意識な段階に留まってはならないのです。

「無意識的なものは、それが意識の中で形態を獲得し、それと同時に無意識的であるのをやめる限りにおいて、価値があるに過ぎない。意識とは現実的なもの、真実なものである。われわれの目標とするのは高められた意識であって、無意識的なものではない。われわれは歴史を無意識的なものへと克服するが、これはむしろ、この克服を通じて、高められた意識に至らんがためなのである」(500頁)。

(6)「歴史はそれ自体が超歴史的なものへの道になる。偉大なものを―創作―、行為、思想において―観照すると、歴史はまるで永遠の現在であるかのような光彩を発する。それはもはや好奇心を満足させるのではなく、高みへと飛翔させる力となる。歴史の偉大さは、畏敬の対象として、われわれをあらゆる歴史を越えた根拠に結びつける」(501頁)。

(7)歴史を統一的に把握することによって、歴史を越えることになります。何故なら、今度は歴史全体が歴史の統一の根拠を求めることになるからです。しかしこの根拠を歴史の外に出て外から探ることはできません。あくまで歴史の中での課題なのです。何故なら、超在は、この世界を越えていますから、歴史の外に出ても歴史の根源である超在は掴めないのです。ところで歴史の統一の根拠は、ヤスパースの言うように歴史を越えたところにあるでしょうか?彼は超在を前提にしているので、歴史を越えて歴史の根源を求めることにならざるを得なかったのです。マルクスは、歴史に内在する根本的な矛盾を歴史展開の動因として捉え、その解決によって歴史が統一的なまとまりの内に完結すると捉えました。しかし、それで歴史が終焉してしまうのではありません。そこから新しい人間の歴史が再出発するように、マルクスは構想していたのです。

(8)
「永遠なるものは、時間の中での決意として出現する。実存の超越する意識にとって、歴史は永遠の現在において消滅しているのである」(503頁)。

 

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