第十四章 歴史の意味

フクヤマの場合は歴史は終わったという議論ですので、今更、歴史の中で生きる意味を問い直すのは無意味ですね。それに対してヤスパースにおいては、歴史は実存的な存在のあり方にとって、きわめて重大な意味を持つのです。

ヤスパースは、遺伝可能な生物学的実体と喪失可能な歴史的実体である伝統を区別し、この伝統によってようやく人間であるとしています。この伝統は、日常的な社会関係の中で培われた習慣や信仰に基づく生き方や考え方で、ほとんど無意識的となっているものです。ですから作り出したり、計画的に生み出したりできません。これは、ヤスパースに言わせれば、歴史の始まりにおいて先史時代から受け継いだ、いわば人間存在の資本なのです。資本ですから増殖されたり、消費されます。そのような営みを人間精神が行うことによって、初めて歴史的実体としての伝統が明確になり、自覚されるのです。伝統から離れて、何ものかを理性から生み出そうとする啓蒙は、自己倒錯に陥り、虚無に至るとヤスパースは語ります。

しかしどうして、われわれ人間だけが、歴史を持つ理性的存在者になったのでしょうか。

「無限の空間のうち、他ならぬこの場所で、宇宙の消えなんばかりの微塵に過ぎぬこの地球上で、何ゆえわれわれは生き、何ゆえ歴史を営んでいるのであろうか?無限の時間のうち、まさしくこの今に、何ゆえわれわれは存在するのか?何事が起こって歴史が始まったのか?これらは解答できぬがゆえに、ひとつの謎を意識させる問題である」(433頁)。

私が存在するのは、私の両親の生殖活動の結果であり、社会の生産活動の結果でもあります。科学的な説明はいろいろ可能ですが、しかし、何故他ならぬ私が、今この時代に、この場所に存在するのか、という問いは残ります。この問いには原理的には解答不能です。この時代に関する認識を深め、自己の置かれている立場を振り返って、自己の使命を確認することで解答に代えるしかないでしょう。人類全体に対する問いに対しても、人類が直面している課題を真摯に捉え返すことが、解答の代わりを果たすのです。

 宇宙空間の中の他の天体に理性的存在者が果たして存在するだろうか、という問いに、ヤスパースは

「その可能性を否定もできぬし、その実在性を予想もできない」(436頁)

と答えて、しかし問いかつ知るという哲学する営みにおいて、人間が無限の時空の中の、このちっぽけな遊星の上で自覚に達したという事実こそ、驚嘆すべきだと語ります。

「この思惟的意識ならびに、この意識においての、かつそれを通じての人間存在という史上特異な現象は、全体としてみれば宇宙の中での微々たる事件に過ぎず、全く新しく、全く刹那的であり、たった今始まったばかりである、―しかしそれとして内から眺めれば、あたかも宇宙をも包み越えるがごとく、既にきわめて古いのである」(438頁)。

この文章は、パスカルの『パンセ』の「人間は考える葦である」のさわりを下敷きにしていますが、何故「既にきわめて古い」と言えるのでしょうか。おそらくヤスパースは、宇宙自体は人間という自己認識に到達しなければ、何の意義も自己自身に与えられないのだから、人間の出現は宇宙の創造自体に既に折り込み済みであった、と言いたいのでしょう。神の宇宙創造を認めなかったエンゲルスは、『自然の弁証法』で物質の弁証法的発展の論理を展開しています。へーゲルやダーウィンに倣って無機的自然から有機的自然、下等生物から高等生物への進化の必然を説き、「猿から人になるにあたっての労働の役割」を説いて、やがて地熱の低下や太陽の衰え、宇宙の爆発で必然的に人類は滅亡するけれども、再び同じ必然性で理性的存在者が進化してくると説いています。

歴史とは、単なる一般者ではなく、個体的な形をとり、一回限りのもの、かけ替えのないもの、唯一のものでなければならないと、歴史の一回性をヤスパースは強調します。彼はこれを人生の一回性と結び付けますから、人間ならびに人間の創造物にしか、一回性という実存的な存在様式を認めません。一回性の自覚は次のことに繋がります。

「歴史においてわれわれが出会うのは、自由としての、実存としての、精神としての、真剣な決意としての、全世界からの独立性としてのわれわれなのである。自然においてわれわれに語り掛けぬものが、歴史においてはわれわれに語り掛けている。すなわち自由における飛躍の秘密、人間の意識における存在の開示の秘密がそれである」(440頁)。

 われわれは歴史を見直して、様々な類型、一般法則を学び、そこから尽きない知恵を汲み取り、痛切な体験に基づく貴重な教訓を得ることができます。しかし歴史的なものは単なる一般者ではありませんから、決して単純に繰り返すわけではないのです。よく心得違いをして、故事に倣ってとんでもない茶番劇になってしまうことがあります。互いに一回限りの実存を生きる歴史的個体同士として「実存的な愛の交わり」によってのみ相目見えることができるのです。

「歴史的なものは、一般者の容器ないし一般者の代表としての個体ではなく、むしろそういった一般者を初めて賦活する現実性である。真に歴史的な個体とは、あらゆる存在者の根源に結ばれていて、この根拠においてある自己を、みずからの自己意識において確証している自己存在者なのである」(441頁)。

われわれがある歴史的個体を愛することによって、例えばイエスを愛し、マルクスを愛することによって、愛されるイエスやマルクスの無限性を通して世界が開示されるのです。これはあらゆる歴史的存在者に対する愛へと拡張し、存在者の根源における存在そのものへの愛へと深まります。

「かくして愛のまなざしに対し、存在、すなわちこの唯一の巨大な個体が、世界の中で歴史的に存在しているありさまが明らかになる」(442頁)

とヤスパースは語ります。かくして歴史認識は、歴史的個体である対象の認識であるだけでなく、歴史的個体としての自己の認識であり、同時にそれらの根源である包括者の感得でもあるのです。あらゆる歴史性は、このようなひとつの包括的歴史性の根底に根差していると捉えています。そこから全体史への前進が可能なのです。

 過渡期においては、一回限りの唯一のものが決定的な役割を果たし、同一的反復はあまり起こらなくなります。その時にこそ深い根底から真理は現われ出ると言います。ヤスパースの例示によれば、ギリシア悲劇は神話から哲学への過渡期に立ち、エックハルトの神秘思想は教会信仰的であると同時に新たな自由な理性の始源でもあり、ドイツ観念論哲学は信仰から無神性への過渡期であったのです。

過渡期はその時代に特有であって、他の過渡期と過渡期としての共通性はあるものの、決して置き換えられるものではないのです。常に一回限りの唯一性をもっています。だから反復も模倣もできないかけ替えのない姿で現われます。このかけ替えのなさにおいて時間を超えた輝きを示すのです。われわれはこれに燃え立たされ、心動かされますが、われわれは全く異なった時を生きているのですから、その真理と完全には同化することはできないのです。

「完結的真理と、存在自身の深みに由来する曇りなき実相を、われわれは歴史のどこかで見たいものだとは思う。しかしわれわれがそれを見たと信じる時、われわれは幻覚に陥ち込んでいるのだ」(445頁)。

中国や日本には伝統的に復古思想があります。十八世紀ヨーロッパではロマンティークが過去への憧憬に身を焦がしました。しかし実証的にその時代の遺物を研究しても、そのような夢想の裏付けは得られないのです。

 ヤスパースは史的唯物論を意識して、原始共産制を幻想として退けようと、次のように述べています。

「原始時代は野蛮であり、人間はこの上なく孤立無援、寄るべなき存在であった。人間存在は精神となり、伝達可能となるものであって、その上で、初めてわれわれに理解し得るのである」(446頁)。

確かに、群婚→世代婚→プナルア婚という形で原始共同体が単線的に発達したわけではないでしよう。これらは、現存する未開の共同体のプナルア婚と野蛮共同体の世代婚から類推して群婚を最も原始的な形と考えたに過ぎません。一口にプナルア婚と言いましても、兄弟姉妹婚が完全な形で行われていたのが一般的だったわけでもないでしよう。またこの段階の家族が母系制か父系制かは地域的な、慣習的なものでして、産業の形態にも影響されました。だから一概には言えないのです。とはいえ四大文明が始まる以前や文明から離れた地域で、人々が親縁関係か疑似親縁関係に基づく共同体を広範囲に形成し、そこでは原始的な共産制が根付いていたことは否定できないと思われます。

よく人類学者などで、未開社会では私有財産は近代社会以上に堅固である、と報告する者もいますが、それは私有の意味を誤解しているので生じたとんでもない早合点なのです。へーゲルは『法の哲学』で、所有を〔占有→使用→譲渡〕の展開によって概念把握しています。所有主体と所有対象は他者関係にあり、他者性を止揚して占有するのですが、ただそれだけでは所有ではありません。所有したものは使用することによって自分のものであるという実を示さなければならないのです。しかし、この使用関係に所有主体がとらわれてしまえば、真の所有とは言えません。所有主体はあくまで所有対象から自立していることを示すために、所有対象を譲渡できなければならないのです。へーゲルの「所有」概念は、このように「私有」概念なのです。これに対して未開社会の所有の堅固さは自分の使用する対象を、まるで自分の身体の一部分のように見なして、決して人に譲渡しようとしないことを指して言われるのです。ですから、固有であって、私有ではありません。マルクスはこれを『経済学批判要綱(Grundrisse))で、「本源的な所有」と見なし、「不可分離的所有(das individuelle Eigentum)」と表現しているのです。

 マルクスは原始共産制を、単純に帰って行くべき理想郷と思っていたわけでは決してないのです。そこでは私有財産に伴う様々な矛盾は表面化していません。人々は互いに身内として強い一体感をもっていました。しかしその結果構成員の人格的自立はできず、共通観念に支配されて、トーテム信仰とタブーに囚われた停滞的な生活を送っていたのです。マルクスは、私有から解放された将来の共同体は、「自由な自立した諸個人の連合体(アソシエーション)」であるべきだとしています。

われわれは確かに過去の真理を模倣してはなりません。現在の根源から生きることによってのみ過去の真理との交わりを保つことができるのです。

「本来の真理のあらゆる現象は、根源においては、すなわち時間の中での持続ではなく、時間を撥無する永遠(zeittilgende Ewigkeit)たるかの恒存においては、同質なのである。この真理を私は、ただその都度現在において、その都度自己の過渡的移行において見出すのであって、知的理解でも模倣においてでもなく、過去の現象の同一的反復においてでもない」(447448頁)。

かくして歴史とは根本的には過渡的移行そのものなのです。それはまたわれわれ自身の存在の根源に関わる実存的な在り方なのです。その意味では過去は過去であることを越えて、この個体的な実存の契機になっています。

 歴史の統一性は、人間が同じ種族だという生物学的な素質から理解することはできません。

「人間を直接神性の手から生じさせるところの、高度の意味での根源において以外に、統一の根拠を持ち得ないのである」(445頁)。

起源のこうした統一は歴史性そのものだとして、その根拠を次にあげています。

(l)
歴史的存在者として人間は、自己の根源に基づき、そこからすべての人を結び付ける統一へと進むように要請されています。でないと互いに人間同士は隔絶されたまま、意志の疎通ができないので、人間同士が了解しあうことによって成り立つ歴史は不可能だったでしょうから。

(2)
人間は歴史的個体として、それぞれ異なる根源から生きる他ありません。聖者でありつつ勇士であることはできないのです。しかしあらゆる人を結び付けるひとつの歴史的根拠を意識することによって、他の歴史的根源に向かい、こうして歴史の統一を志向するのです。

(3)
歴史におけるかけ替えのない創造の歩みは、後世の人々の創造的な精神を形成します。これらの精神的な交わりがひとつの精神の動きになり統一へと向かうのです。

ヤスパースは、人間を実存的な交わりとして捉えていますから、歴史の根源としての包括者は、人間を実存的な交わりを実現する存在として作り出したのだと考えます。従って、歴史は交わりの歴史として統一性をもっていることになります。しかし問題なのは人間の歴史的本質を交わりという形、意志を疎通させ合い、愛し合うという形だけで捉えてよいのかどうかです。この歴史的交わりは、人格的な交わりとしては市民社会の交換の発達に基礎付けられており、その関係は相互支配としての面をもっています。そのため私有財産を巡る平和的なあるいは血で血を洗う戦いが繰り返されてきたのです。戦いもまた交わりの形だとするのなら、交わりのアンビバレントな展開こそ歴史として捉え返すべきだったのです。

 人類は様々な文化や社会を色々な地域や時代に造りあげて来ました。それらの中には幾多の共通性や類似性が見出されます。しかし真の人類の統一性はこのような普遍的なものによって形作られるのではない、とヤスパースは断言します。

「人類の統一は、歴史的特殊者同士の相互的な連関において初めて基礎を置き得るのである。歴史的特殊者とは、本質的には片寄りではなく、むしろ積極的に根源的内容であり、一般者を表示する実例ではなく、人類のひとつの総括的な歴史性を構成する分肢なのである」(458頁)。

彼は歴史は固定し、停滞するものではなく、変化し移り行くものであり、過渡なんだと言いたいのでしょう。

知識や技術的能力の面では進歩が行われ、世界史はその範囲での上昇線を描きます。しかしこの線は全体の中のただ一本の線に過ぎません。高度な文明は蛮族に滅ぼされ、最高級のタイプの人間が大衆の暴力によって物理的に否定されるのは、歴史の基本的現象でもある、とヤスパースは指摘しています。科学技術的な真理は、普遍的に伝授譲渡でき、もっぱら悟性に向けられます。このような真理の進歩は悟性の統一をもたらしますが、人類の統一はもたらしません。

「そもそも悟性は意識一般を結び付けるに過ぎず、人間を結び付けない。悟性は何等本当の心の交わりや連帯性を生み出さない」(461頁)。

ということはヤスパースも人類の統一にとって科学技術の進歩が不必要だと考えているのではなくて、それは人類の統一に役立つこともあれば、人類の分裂や滅亡に役立つことさえある手段に過ぎないと主張しているのです。

 地球という閉ざされた時間と空間を共にしているので、交通の発展によって、物資の交流だけでなく、精神的な文化の交流も盛んになります。

「しかしこのような交流そのものがまだ決して統一ではなく、この交流において実現されるものを通じて、初めて統一は成立するのである」(463頁)。

それは存在の根源に根ざす実存的交わりでなければならないのでしょう。

この他にも諸々の文化圏、諸民族、世界宗教、諸国家等の形で統一性が認められます。しかしこれらには普遍性が欠如しています。複数の文化圏、民族、世界宗教、国家が並存し、平和的に交流したり、対立したり、対決したり、協調したり、あるいは戦争したりしています。

「一切は移り変り、究極的固定的なものは何も存在せず、区別がつかないほど混じり合う」(465頁)

のです。これでは真の歴史的統一とは言えません。

統一性を暗示する多様な事実は、歴史の統一性を構成するのには充分ではありません。そこでヤスパースはこう述べます。

「歴史の統一は事実ではなく、目標なのである。歴史の統一はおそらく、一なるものの理念、一なる真理、精神の世界において、われわれが相互に理解し合えるという事実から生まれてくるのである。この世界においては一切が一切に意味深いかかわりをもち差し当たりはなお極めて相距たっていようとも、すべては互いにこの世界の一員なのである」(466頁)。

この歴史の統一の「意味」は、次のように表明されます。

(1)
人間の文明と開化(Humanisierung)が目標とみなされます。恒久平和を保障する世界秩序が形成され、この共同生活の上に、人間の霊的精神的な創造活動が開花するとしています。

(2)
自由ならびに自由の意識が目標と見なされます。世界秩序は政治的自由をもたらしますが、人間の生存の本当の自由は、その上に築かれるのです。

(3)
優れた人間つまり天才と精神的創造、それに共同精神の反映としての文化の産出が目標なのです。人間存在の頂点による統一は、最も深遠な自覚、本質的な開示の輝ける瞬間にあるとします。絶頂を極めた人は存在の根源から発しているので、悟性には知ることができない統一に属しているのです。

「そもそも歴史はこの統一を目指し、それから発し、そのために存在するのである」(468頁)。

精神的創造物、文学作品や芸術作品などに存在の根源を感じ取り、その感動の深さに生きる意義を見出せる感受性をヤスパースは読者に求めているのでしよう。もちろんこのような優れた感受性は、洗練された文化を創造できる人々にこそ属します。ですから大衆の文化水準の向上こそが目標とされるべきでしよう。大衆の水準が高ければ素晴らしい天才が多く輩出するでしょうから。

(4)「人間における存在の開示、人間の魂の深みにおける存在の覚知が目標と見なされる。これは神性の顕現にほかならない」(468頁)。

 この内どれを選んでも、それは他のすべてを包括していません。これらの目標は、一つだけ目指して到達できるようなものでもないのです。しかし人間は彼らのオピニオン・リーダーを通して、最も包括的だと思われる一つの目標を選びたくなります。ここに歴史の全体観が語られることになります。キリスト教的歴史哲学、へーゲル、マルクス、コントなどに見られる全体知による歴史の統一性の把握は、ヤスパースに言わせれば次のような理由で挫折しています。

(a)
全体知の中では、個人は全体の部分に過ぎない、各個人の存在、各時代、各民族は全体に隷属するものとされている、とヤスパースは批判します。ヤスパースに言わせれば、個人は根源的には神性に関わっています。また個人は包括者としては無限性をもっており、あらゆる時に全体なのです。へーゲルやマルクスにあっても、個別は具体的普遍として捉えられていますから、ヤスパースの批判は問題です。ただヤスパースは、全体知では個人が

「超在に直接するのではなく、時間の中で場所に媒介されており、この場所が彼を制限し、部分たらしめている」(472頁)

と指摘しています。彼にすれば、限界状況の自覚を介して超在(=)と直接する事による救済の可能性が大切なのでしょう。

(b)
「全体知においては、人間の現実を構成している最大の実質すなわち諸々の民族、時代、文化がそっくりそのまま、どうでもよいものとして無視される。それらは偶然であり、付随的な自然生起以外の何ものでもなくなってしまう」(472頁)。

この批判はおそらく、生産力と生産関係の矛盾的な関係によって構成されている生産様式が、歴史の機関室、土台の役割を果たしていることに注意を促した唯物史観を、念頭に置いているのでしよう。マルクス・エンゲルスは、経済的な土台をつい見落として頭でっかちな議論になりがちな傾向を戒めているだけで、民族、時代、文化を歴史を考えるに当たって無視してよいなどと夢にも考えていません。

(c)
全体知にとっては、歴史は閉じられていで、初めと終わりが臆測的な啓示の形で補足されている、とヤスパースは語ります。彼は未来に対しても態度を保留し、未来から初めて完全に理解可能になる過去についても知れ切っているとは考えません。

「限られた視界の小丘から様々な方向をとる可能な道を知るのであるが、しかし社会の起源と目標の何たるかを知らないのである」(473頁)。

マルクスの場合は、これまでの階級闘争の歴史を真の人間に至る前史と見なし、新しい共同体の建設によって階級闘争がなくなることで、真の人間の歴史が始まると考えていたのです。まだマルクスの考えたような新しい共同体は実現していません。またマルクスには、やむを得ないことながら、二十世紀で起こったような資本主義の質的変化や、社会主義体制の官僚主義的歪曲について予測できませんでした。

 ヤスパースは統一の理念の要請はなくてはならないとして次のように指摘しています。

(a)
歴史の「概観」は残ります。そのためには全体史の適切で構成的な整理が、統一の理念のもとに行われる必要があります。

(b)
地球は閉鎖的ですから、同じ時間で年代記がつくれます。そして人間は一つの種族であり、根元は単一性をもっていると言われます。

(c)人間は、まだ誰も見渡せませんが、すべての人を包み込んでいる、一つの包括的な精神を懐いて存在しています。この統一は一なる神に関わるのだとヤスパースは表明しています。

(d)総べての個別存在は、とらわれない眼から見れば、普遍的な可能性をもっているのがわかります。総べてのものはわれわれにとって大切で、一見遠い存在も実はわれわれに深く関わっているのです。またその時々の現在が、われわれにとって進路を決定する重大な岐れ路であることに気付くことがあります。その現在の充実の時に、これまで如何なる道を通ってきたか、これから如何なる方向を目指すかを見はるかす歴史の統一が、課題として捉えられるのです。

(e)全体の中ですべてがその重大性や本質性によって、それに相応しい場所を占める秩序立った全体としての歴史の理念は、あくまでも消えないとしています。

「歴史と現在はわれわれにとって不可分となる」(491頁)。

歴史は、われわれが存在しなくても客観的な事実として存在しています。しかしわれわれが今を生きることによって、歴史の意味を見出さなければ、歴史は暗闇の中に忘却されてしまいます。

「普遍的歴史像と現在の状況意識は、相互に持ちつ持たれつの関係にある。私の過去全体の眺め方のいかんと、私の現在の物事の経験は相関する。私が過去の物事にいっそう深い根拠を獲得すればするほど、現在の事の成り行きへの私の参加はますます本質的となる」(493頁)。

われわれは過去に人類の歴史を重ね、民族の幾千年の歩みを背負って今を生きているのです。その歴史の重みを忘れてその日その日を送っていたのでは、今は空虚化してしまい、浮ついた人生になってしまうのです。また歴史を今を生きる現前性から切り離し、単なる過去の物語的歴史にしてしまいますと、歴史を見ることによって、現在から逃避し、空想としての物語としての歴史に生きることになってしまいます。

「充実された今の謎は決して解決されはしないが、歴史的意識によって深められる。今の深みは、ただ過去と未来が一体となり、過去の回想と私が生きる目標とする理念とが一体となって、初めて明らかとなる。今の深みにおいて、歴史的形態を通じ、歴史的衣裳をまとった信仰を通じて、私は永遠の現在を確証するのである」(494頁)。

「永遠の現在」とは、過去は過ぎ去って既になく、未来は未だ来らずなのに対して、現在は永遠に現在としてあり、しかも過去を体験の中に、また痕跡や記録の中に現在において含み、未来を可能性として現在の中に宿しています。「充実された今」「永遠の現在」とは、今この瞬間が、永遠の存在の根源の現前であることを意味するのです。しかしわれわれは完全には過去を知らず、未来の可能性も知ることができません。だから充実された今の謎は決して解決されないのです。

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