第十三章 未来の問題―信仰

社会主義、政治的自由、世界秩序はそれらの実現の途上において常に信仰に担われていなければならない、とヤスパースは語ります。彼によれば、信仰によらず、不信仰による社会主義は独善的で強圧的な「共産主義」に陥り、信仰の伴わない政治的自由は衆愚政治から独裁政治を招きます。世界統一の動きも信仰を失っていれば、世界帝国になるか常に揺り返しが起こって頓挫せざるを得ないのです。ヤスパースは信仰を

(1)神への信仰、(2)人間への信仰、(3)世界の中での諸々の可能性への信仰、

に分けその連関を考察しています。事物や人間が神によって造られたものでしかなく、従って、真の実在は事物の世界を超えて存在しているのなら、諸事象は真の実在を指し示すための象徴(シンボル)に過ぎません。そこでヤスパースはこう述べています。

「いつでもわれわれは、様々な象徴をもって生きている。それら象徴においてわれわれは、超在(=神)、すなわち真の現実を経験し、把握する。象徴を実在化して世界の中での現存在と考えても、象徴を審美化して感情のための勝手な手引きと見なしても、同じく現実の喪失が起こるのである」(401頁)。

われわれは、現実の事象が神の与え給うたシンボルであると気付かずに、全体知が成立すると考えたり、あまつさえ人間がそれを全体計画化できると考えがちですが、それはヤスパースにすれば、とんでもない思い上がりなのです。われわれは、われわれの知の限界を自覚し、人間性や自由と抵触しない限りでの計画に満足すべきなのです。人間は自由を見出し、自由を意欲することができます。この自由は人間だけに実存という形で神から与えられた贈り物なのです。ですから

「人間の自由への信仰は、自由に基づく人間のもろもろの可能性への信仰であって、人間を神化するあまりの、人間への信仰ではない。人間への信仰は、それによって人間が存在するところの神性への信仰を前提とする。神を信じることなくしては、人間への信仰は、人間の軽視、人間の尊敬の喪失に堕し、その結果はついに、他人の生命を冷淡に、消耗品として、破壊的に取り扱うに至るのである」(402頁)。

人間の可能性へのあくなき追求は、そのために多くの人々に犠牲を強いることにもなりかねません。自己の自由の追求は、一人だけの身勝手なものであってはならないのです。その運命を共にする人々にとっても、主体的な自由の追求であるべきです。決して他人を単なる事物存在に貶めてはならないのです。そのためには交わりは実存的な愛しながらの闘いであるべきです。超越的な神への信仰がなければ、他人が自分と同様に実存であることを確信できなくなり、人間軽視に陥るとヤスパースは思ったのでしょう。

 世界をそれ自体で完結した全体と見なし、全体知が可能だとしますと、人間の可能性は汲み尽くされ限定されてしまいます。しかし世界は謎に充ち、この謎の中で自己を見出す他はないのです。世界の中での可能性は、従って決して汲み尽くせないものなのです。

「世界は諸々の課題の場であり、それ自体は超在に由来する。われわれが自己の本当の意欲をさとる時、図らずもわれわれを襲う言葉が聴こえてくるのは、実にこの世界の中においてなのである」(403頁)。

信仰なくしては、悟性、機械的思考、非理性的なものそして破滅が残るだけだ、とヤスパースは警告しています。社会主義と世界統一に果たす信仰の役割についてヤスパースは次のように語ります。

(1)信仰に基づく力……「人間の動物的基本衝動を制御し、克服して、みずから高みへと飛期させる人間存在の動力に変えてしまう」(403頁)。

(2)寛容……ヤスパースによれば、人間は一つの起源から出発し、様々な歩みを行い、そして世界秩序への道を歩んでいます。そのことに対する信仰があればこそ、そのために無際限な交わり、語り合いが要求されているのです。

「寛容は、胸襟を開き、自己の分限をわきまえ、信仰に関するいろいろな表象や思想を、ひとつの絶対的に普遍妥当的な分母に通分することなく、それらを相違性を保ったまま人間的に結び付けようと欲する」(404頁)。

ただし寛容にも限界があります。それは絶対的非寛容に直面した場合です。ロックはローマ・カトリックと無神論には非寛容でした。戦後の西ドイツ社会はいわゆる「戦闘的民主主義」が幅をきかし、左右の全体主義と認定された政党を非合法化してきました。つまり民主主義に対して破壊的な立場には寛容することはできないというのです。この「絶対的非寛容」に対する非寛容が体制への異議申し立ての途を塞ぐ役割を果たしました。同質化した大政党の支配の下で、民主主義の形骸化が危倶されてきたのです。

(3)
あらゆる行為に魂を吹き込むこと。……社会主義、計画化、世界秩序への途において、具体的に政策を決定し、実行するのは人間です。それは悟性を働かせて考え出すのですが、その際、当事者の考え方、信仰、性格が実現の様式と以後の成り行きを決定します。つまり悟性は自分でも思いも寄らないもの、本能、熱情、信仰衝動、理念等諸々の動機に導かれているのです。世界が単なる事物の機械的連関に過ぎないのなら、悟性にはこのような動機の存在は邪魔なだけです。信仰によって有限的な物事は制限的に扱われます。あくまで有限者は、無限者の器ないし言葉です。そこに無限者が現われ出る担い手なのです。

 ヤスパースは世界の統一が、信仰の統一なしには行われ得ないという見解には同意しません。

 「世界秩序という万人に拘束力をもつ普遍者は様々な信仰内容が、ひとつの客観的普遍妥当的信仰内容に統一されることなく、歴史的な交わりにあってあくまで自由である場合、他でもなくこの時こそ、初めて可能なのである」(416頁)。

 社会主義、政治的自由、世界秩序(恒久平和)が信仰によって担われなければならない、というヤスパースの発想に説得力があるでしょうか。彼の神は超在です。現実の諸事象はシンボルに過ぎず、真に存在するものは神でしかないのです。そのため現実の諸事象を総べて科学的に認識し、それに基づいて全体計画的に現実を処理しようとする傾向は、神を否定するニヒリズムを宿していることになります。またこれでは人間を神から切り離して、あたかも事物のように取り扱うことになるので、人間性と自由が失なわれることになるというわけです。

ところが神の否定はニヒリズムと直接一致するわけではないのです。むしろ神を認めてしまうと、総べては神の必然であるから自由意志は無力だ、とルターは主張しました。サルトルはルターの土俵で、だから人間が自由であるためには神は否定されなければならない、と断言したのです。ですから神の創造を認めることが必ずしも人間の自由を保障するとは限らないのです。また神による創造を認めても、それが人間にとって全体知の不可能を意味するとも限りません。ベーコンは神による創造を人間のための行いと考えました。ですから神が隠し給うた物を人間が明らかにするのは、人間が神による創造を讃えることになるのです。つまり神は人間にとって原理的に不可知な物を創造されるはずがないのです。パースも事物の認識可能性を神による創造から説明したのです。

互いに人格として尊重し合うというのも、決して超在との関わりを信じることから帰結するとは言い切れません。神意は人間には計り難いものです。人間にとってそれは不条理として現われざるを得ないのです。神に無条件に帰依することが人倫と矛盾するというテーマこそ、信仰の最大のジレンマでした。アブラハムは、神の試みにあわされ、自分の最愛の息子を殺して生贄に捧げようとしました。このアブラハムの信仰をイスラーム(絶対帰依)といいます。真の信仰はこうでなくてはならないといわれるのです。そこから信仰を護るための戦いが神聖化され、信仰のために生命を軽視して、殺し合う悲惨が、神の栄光を讃える究極の営みとして捉えられる倒錯を生むのです。

 人間同士が互いの人格を尊重し合い、助け合ったり、愛し合ったりするのは、社会生活を営む際の共同性から由来します。決して超在との関わりからではありません。人間は一回限りの有限な生を生きています。そこから自分の人生に対する無限のいとおしみ、執着が生じます。この自己愛は社会生活における対人関係で庇つけられます。自己愛に留まっている限り、自己は他人から単なる有限な事物として、手段として扱われることになるからです。自己を無限な人格として認めて欲しかったら、他人を無限な人格として最大限に尊重し、大切にすることが必要です。互いの人格的な交わりによって、人格性を保障し合えるのです。

神信仰は、人格の無限性を社会生活の中で互いに保障し合えない現実に直面して、現実の彼岸に無限な存在者を仮想し、この無限者によって自己の人格的無限性を支えようとしたものに過ぎないのです。神によって自己の人格的無限性が保障されてしまえば、互いの社会関係の中での相互尊重の必然性が希薄になり、かえって社会的には人格を平気でスポイルし合う危険すらあると言えるでしょう。信仰によって支えられている人にとっては、信仰を伴わなければ、人間性を見失うと真剣に考えているでしょうが、信仰を持たなくても人間性を保って生きている人は多いのです。

 神という言葉で普遍妥当的価値や愛の存在を象徴する場合もあります。現代がニヒリズムの時代だということは、最早、価値観の一致を前提にすることはできないことを意味しています。とはいえ恒久平和の理念、思想としての民主主義や社会主義にはそれなりの普遍妥当性が認められています。これらの理念をよりいっそう社会システムの中に実現し、人類共同の信念として確立するための努力が求められているのです。内村鑑三の次の言葉の意味は、この文脈で解釈すべきです。

I for JapanJapan for the World The World for ChristAnd all for God.

残念ながらヤスパースの場合の信仰はそのような普遍性に欠けているようです。

【追記―信仰の問題としては、『歴史の危機』との関連では一神教の独善性からくる文明間闘争の問題や、一神教に代わって多神教の多様性の容認の原理が宗教の将来的な原理になりうるかという問題が論じられるべきである。 「採録に寄せて」と近刊『(仮題)梅原猛ーその哀しみとパトス』ミネルヴァ書房刊の「エピローグ」を参照願いたい。】

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