第十一章 未来の問題ー社会主義について

フクヤマは社会主義を対等願望によって優越願望を抑圧しすぎた体制としてもっばら否定的にのみ捉えていますが、ヤスパースは、剰余価値の私的独占を排するための大企業の生産手段の社会化を、当を得た政治目標と認めています。

「特権を廃し、正義を基準となし、すべての人が共に働き共に生きる状態を秩序づけようとする意向、傾向、計画はことごとく、今日社会主義の名で呼ばれている。社会主義はあらゆる人間の自由を可能にするために、労働並びに労働収益の配分を組織化しようという、現代人類にあまねく見られる趨勢なのである。その意味では、今日ほとんどあらゆる人が社会主義者である」(316頁)。

彼は政治的自由を充分尊重した上で、自由競争に基づく市場経済が前提される「自由な社会主義」を目指しているのです。1989年に東欧諸国は、「コミュニズム」を脱皮し、ヤスパースの期待した方向に大転換を遂げたようです。

ヤスパースが批判の対象にしているのは、マルクス・レーニン主義を掲げて国際共産主義運動を形成していた1949年当時の現代「社会主義」です。これは弁証法的歴史観を全体知として科学的だと思い込んでいました。そこから、窮乏化必然論や暴力革命必然論、プロレタリア独裁の理論、社会主義計画経済論等が打ち出されていたそうです。このようなドクトリン(教条)は、真実だと思い込まれていて、これに基づく実践こそが真理の実現だとされていました。だから反対を許容しません。そこで扇動家による大衆支配となり、結局独裁とそれを維持するためのテロによる恐怖政治に行き着きます。つまり「非自由の道」を意味するのです。

 ヤスパースのこの分析は、スターリンによる大粛清の事実に照らせば、説得力があります。共産党の一党独裁も共産党は真理を独占しているから、人民が共産党の指導に従うのが社会主義建設を成功させるためには不可欠だと、党自身が確信していたから成立したのです。このような上からの権力を笠にきた教条の押し付けが、根本的に誤っていたことは、今や明白になってきました。

 ではこれからは、共産党は、ヤスパースの言うように全体知に立つことを止め、独自の体系的なドクトリンを持たず、その真理性を人民に訴えず、国家と人民を指導しないでもよいのでしょうか。物事の根本的な見方としての世界観を持ち、それを基礎にした確固たる全体的な歴史観、社会観を持って、科学的に理想社会への現実的な歩みを理論的に明らかにできれば、それに越したことはありません。またその信念に基づいて政治的・経済的プログラムを打ち出し、人民に支持を訴えるのは、その党の政治的権利です。ヤスパースのように、それは全体知だから必然的に独裁政治、恐怖政治になると断定するのは、かえって人間が自分の頭で考えた全体知に基づく信念を実行しようとするのを、その内容は問題にしないで、独裁に繋がると決め付けるようなものです。

 ですから大切なことは、人民に社会主義に反対することも含む基本的人権を保障し、「法の支配」を確立することです。そして対等な権利を持つ複数政党制を承認し、政党と国家権力を分離し、民主的な選挙が行われ、民主的な討議と多数決原理が貫徹する立法機関として議会を持つことを承認することなのです。これがすべての政党と人民の間で政治原則として協約されていれば、その政党が特定の世界観に基づいているか、単なる当面の政策課題の一致に基づくだけなのかは、結社の自由に関することで干渉すべきではないのです。ヤスパースは、社会主義の下での独裁化の原因を計画化が全体計画化として展開するところに求めています。

「全体計画化はただ国家によって可能である、しかも絶対権力を有する国家、もしくは国家の全体計画化により初めて達せられるのであるが、このような全体計画化は、資本主義的経済におけるどの独占企業の権力をもはるかに凌駕して、歴史にかつてなかったほどの範囲と、私生活をも包み込む独占性を具えた権力なのである」(319頁)。

中央集権的な計画経済では、国家自体が一つの経営体となりますから、その権力の強大化は避けられません。その運営も官僚的になり
がちです。工場現場でも上から与えられたノルマを受動的にこなすだけに終わりがちなのです。それでは利潤の最大限獲得を目指してしのぎを削っている資本主義社会の企業に後れを取るのは当然です。

 しかし、ソ連等の社会主義経済の生産性向上が、先進資本主義諸国からはっきり後れを取るようになったのは、1970年代後半からです。それまでは日本よりは生産性向上は劣っているが、欧米を凌駕していると見られていました。生産財中心から消費生活の充実を目標にするようになり、ソ連にも市民社会の成熟が見られるようになりました。

ヤスパースが書いた一九四九年当時は、ソビエトの計画経済に対するイメージは、戦時経済のイメージでした。

「戦争とか天災のごとき窮迫時には、生活物資の調達と配分のための全体計画化は、すべての人が少ないながらも平等に受け取ることによって、欠乏を公平な状態にする唯一の手段であるのは明らかである」(323頁)。

ところがこの体制が戦争という異常な状態においてであれ、瞬間的エネルギーの最大量を獲得できたものですから、この体制のまま平和時でもやっていこうということになったのです。この体制では例えば、鉄鋼生産、石炭の採掘量、鉄道の敷設、コンビナートの建設、ミサイル開発等を計画的に遂行するのには有効性を持ちました。ソ連の経済成長は、このような重工業の計画的整備に支えられていたということです。

 消費物資の供給も、計画経済で行いますと、足らない物資を平等に分配して不足を忍びあうにはよいのですが、平和な時には画一的な品物を計画分だけ造って、配給することになりますので、市場の需要にマッチしないと、売れ残りが大量に出て山積みになったり、品不足で行列ができることになります。

また完全競争市場でないと、企業間でよりよい製品をより安く大量に提供しなければ、競争に敗れて潰れてしまうということになりませんので、コスト引き下げ競争による生産性の向上、品質の競争的な向上ができません。しかも国際貿易に関しては不足している物資を輸入するだけのバーター取引になりがちですから、外国製品との競争もあまりありません。そこで市場原理、競争原理の導入が検討され、1960年代には、いわゆる「利潤」概念の導入が検討されたのです。

 ヤスパースも計画化一般を否定しているのではないのです。計画経済の起源は大企業の競争排除のための独占形成から始まり、国家経済へと進んだとしています。合理的な需要充足のための効果の点で見通しが立つ、限定された目的のための計画化ならいいわけです。とはいえ、計画が国家全体に対する包括的な全体計画化となると、例の「全体知」に基づいているから正義の押し付けになり、自由の否定になるという理窟で反対しているのです。

完全な意味での全体計画を策定し、市場経済を無くしてしまうことは、少なくとも社会主義段階では不可能です。需要・供給の一致は生産物の流通によってわかるのですから、生産に取り掛かる段階では、どうしても見込み生産が避けられません。それで商品という形で生産物を市場に流す必要があります。そして市場がある限りは、価値法則に基づく資源の最適配分を行い、独占の弊害を防ぎ、競争の効果を保つために、企業の経営の自主性をある程度認める必要があるわけです。

しかし、そうなりますと企業の経営責任者は、労働コストを削減しようとし、現場の労働者との間に労働争議が発生します。中央集権的な戦時経済にあっては、ソ連は労働者階級が主人公だというのが建前の社会主義国であったにもかかわらず、実際は、共産党の指令、スターリンの指令が絶対的であり、労働基本権は無視されていました。労働組合は全く党の政策の意義を労働者大衆に啓蒙し、労働者の能動性を引き出すための機関に過ぎなかったのです。市場経済が重視され、企業の自主性が尊重されるようになって、初めて労働者自身の要求に基づく運動が展開されるようになったのです。市場原理の重視政策が本当に根付くかどうかは、労働基本権が承認され、それに基づいて対等な労使関係が確立し、安定した労働市場が形成されるかどうかにある程度依存しています。

 このような分権化の動きと、ヤスパースの非難する全体計画化は両立するでしようか。両立しなければ経済運営は完全に失敗するでしょう。現在では世界経済は深い繋がりを持っており、グローバルな視野を持って、資源や技術そして生産物、それに人材などの交流を計らなければなりません。何処にどんな工場を建設するのかという問題でも、国家全体の観点から、物的、人的資源、自然環境の保全等を考慮しなければならず、企業の経済的自主的判断だけに任せておいては、いわゆる「市場の失敗」に繋がります。

1985年来のペレストロイカが経済運営の点で行き詰まったのは、企業が独立採算を求められたために、計画経済の課題遂行をネグレクトし、市場に必要な物資を供給しなくなった事から事態の深刻化を招いたからです。資本主義の自由競争市場であっても、実際は国家の経済政策による誘導が不可欠です。その場合にグローバルな知、全体知がなければ良い政策策定は不可能です。アメリカ合衆国の1980年代のマネタリストによる高金利政策は、それがドル高による貿易赤字を招くというグローバルな知に欠けていた例です。1970年代のスタグフレーション下でのケインズ政策には、ケインズ政策がインフレ下では逆効果でしかないという全体知に欠けていた例です。

 まして社会主義経済であれば、国家と地方、国家権力と企業体の間の権力関係を微妙に調整し、全人民の支持を背景にした計画経済の課題遂行を相互の義務として確認しあうことができなければならないのです。ただし誠意を持って課題遂行に励んでも、全体知に誤りがあり、計画に無理があれば、課題遂行は失敗に終わり、生産・流通・消費に様々なひずみが生まれ、調整が必要になります。その時に、原因や問題点を厳しく点検し、全体知自体にどんな誤認があったかきちんと反省しなければなりません。そうして全体知をより完全なものに作り変えるのです。

 ではヤスパースは、彼が支持している「自由とデモクラシーを協調裡に漸進的に実現する理念としての社会主義」(345)と「暴力をもって未来の形成に着手する共産主義としての社会主義」をどう区別しているのでしよう。彼は、本来の社会主義は、自由の実現のためのものだから、労働組織の規模の拡大にしても、経済の計画化にしてもそれを絶対化してはならないと強調します。自由の障害になったり、却って経済的な合理性を失ったりするようになれば、当然理性的に限界を認めるべきだというのです。これに反して「共産主義」は、次のような絶対化の誤まりを犯していると言います。

「第一に、社会主義はみずからを個人主義と対立したものと考える。個別化すなわち個人の我意、私利、恣意に対して、この対立は一方的に絶対化されると、個人がその権利を全面的に否定されることを意味する。社会主義はあらゆる人に彼の人格の実現のチャンスを与えようとしたにもかかわらず、それは個人を水平化することにより人格の破壊者になる」(346頁)。

マルクスやエンゲルスは、新しい共同社会のイメージを「自由人の連合体」としていました。ところが一党独裁下の社会主義はヤスパースの批判を説得力あるものにしています。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という原点に帰って、一人一人の人格と幸福と自由が大切にされる社会を築かないと、社会主義失格だと言えましよう。

 「第二に、社会主義社会は資本主義と際立った対照をなしている。社会主義は生産手段の私有に代わって、その共有を欲する。これが絶対化されると、次の結果が起こる。すなわち、機械技術の生産手段―大企業―の問題に代わって私有一般の廃止が要請される。個人の思い通りの使い馴れた品々 、住居、精神の作品―これらは個人や家族に生活の地盤を提供しており、ここに彼らは魂を込め、自分たちの本質をここに反映させているのであるが、―こういったものとしての環境が作られる手段である所有は廃止される。これはすなわち、人間が彼の個人的世界、彼の歴史的に発展する存在の生活条件を奪われることを意味する」(346頁)

ヤスパースは、社会主義と将来の共産主義を混同しています。社会主義社会では生活手段の私有は認められています。労働者は生活手段を私有しており、それを手に入れるために労賃を得ようとし、企業に労働力を提供しているのです。共産主義社会になれば、労働の報酬としての賃金は廃止されます。同時に貨幣一般が廃止され、必要に応じた分配が可能になるのです。そんなことが果たして可能なのか、望ましいのかということは大いに議論がありますが、ともかく共産主義では私有一般の廃止が実現されることになっているのです。

 その上、マルクスの用語では私有と所有一般は区別されています。私有が廃止されても、個人生活に必要な生活物資や彼の個人的世界に属する生活条件は、彼自身の個性と不可分離的な関係にあります。私有の場合は譲渡できることが前提ですが、不可分離な関係なので譲渡し得ない、侵されないものとして捉えられていたのです。これをマルクスは『経済学批判要綱』の「先行する諸形態」では「本源的な所有」と名付けました。『資本論』ではこれを「不可分離的所有(das individuelle Eigentum)」として取り扱ったというのが、私のプライオリティな解釈です。この点は、マルクスがその意味で使っていたら納得がいくという程度しか言えません。マルクスによれば、ともかくたとえ共産主義が実現しても個人の個性的な生活が尊重されますし、生活手段の所有も「固有」という意味で尊重されると考えていたのです。

 第三は計画化に関してですから重複するので省きます。ともかくヤスパースは、社会主義を私利の抑制、生産手段の共有、計画化等、道理に叶った現実的な理念として支持し、共産主義をその一面的な絶対化による自由の破壊として批判しているのです。言い換えれば、社会主義はそのような要請を具体的な条件の中で、自由や公共の福祉と両立し、推進する限度内で実現しようと努力するのですが、共産主義は、私利の抑制、共有、計画化等を徹底し、全体化した理想社会が建設可能だとして人々の個性や自由や積極性を奪ってしまうというわけです。確かに、全体化が実際はソ連では、ソビエト民主主義の形骸化、一党独裁の固定化、上意下達の官僚主義の徹底、徹底した中央集権、指導者の個人崇拝によるカリスマ的支配の確立へと傾斜して行ったのですから、次のようなヤスパースの辛辣な表現もいちがいに否定できません。

「彼は人間を石に化す怪物ゴルゴンを直視したくないものだと念じた、しかし彼はいよいよあますところなくゴルゴンの手に堕ちる羽目になったのである」(351頁)。

 「彼はテロと独裁の装置に堕してためらわないのであるから、彼は飛翔の可能性を失なう。―彼は人類の一見最高の理想主義から出発しながら、人間の生命を惜し気もなく消尽する非人間性への倒錯、あらゆる人をいまだかつて存在しなかった奴隷制へ移行させる倒錯をやってのける、―彼は人間を前進させる諸々の力を抹殺する、―彼は失敗すると絶望のあまり、いよいよ卑劣な暴力性へといきり立つ」(351352頁)

 
ヤスパースのように社会主義国の共産党の偏向の原因を、マルクシズムが世界観を持った全体知であることに帰着させたのでは、世界観や全体知を放棄すべきだという結論になりかねません。それはマルクス主義者が自分で判断すればよいことです。それを言うなら、キリスト教徒はキリスト教のみが、もっと極端には自分の属する宗派のみが、正しい信仰を持つと考えています。そこで間違った信仰を抱いている人は、神を冒瀆しているから最後の裁きによって滅ぼされるとキリスト教徒の中には、考えている人も多いわけです。そこからキリスト教徒の独善性、人命軽視、残虐性、好戦性を指摘することもできます。だからといって、キリスト教徒が多数を占める国や、バイブルで宣誓儀式を行う国は必ず独裁化したり、民主主義が育たないと考えるのは正しいでしょうか。何故ソ連が官僚主義的な偏向に陥ったのかは、歴史過程の正確な「見直し」により判断されるべきです。

 マルクス主義の立場、科学的社会主義、共産主義の立場に立っても、近代民主主義の原則の上に立っ社会主義社会の形成を展望することはできたのです。特に選挙権の拡大が進んでいる国で社会主義革命を起こすには、議会政治の発展的継承が必要であるという見解は、エンゲルスはじめ西欧のマルクス主義者の中では有力な見解だったのです。実際、社会主義経済建設を成功させようとすれば、労働者自身が社会主義社会の主人公であるという主権者の自覚を持てなくては成功しません。ただ党中央の指令に無条件に従わされるだけの隷属的な立場では、積極的に社会主義建設に参加しようとはしません。社会主義建設の方向にしても自由に意見を闘わし支持する方向に一票)を投じる権利を保障しなければなりません。

 そのためには一党独裁は最悪の形態です。社会主義社会では階級的な利害対立がないので複数政党は要らないという見解がありましたが、実際には社会主義建設の方向を決めるのには、様々な難問に取り組まなければならず、すんなり一つの方向に話し合いがまとまるような簡単な問題ではないのです。一党制では方向決定に関して、党内で織烈な権力闘争が展開されることは避けられません。そして自己の方針が必ず貫徹されるようにと、党内の権力基盤を固めようとします。官僚主義が強化され、分派に対する仮借ない闘争が強調されることになります。その上で党の立場を確固としたものにしようと画策し、遂には党の国家に対する指導権を憲法上承認させるところにまで行き着くのです。党の指導に基づいて社会主義建設が順調な間は、その成果に対する尊敬や感謝まで期待できますが、経済的な困難が深刻化しますとすべて党の責任ということになり、党権力の打倒に民衆が立ち上がることになりかねません。もちろん党は国家と結合していますから、社会主義体制の崩壊に直結する危険性があります。

 複数政党制では、政党同士が権力闘争をくり広げ、人民の団結を乱して社会主義建設の活力を殺ぐのではないかとの心配もあります。それなら思い切って政党一般を廃止してしまえばよいのです。そして憲法や社会主義建設の基本方向、五カ年計画等の経済計画案は、国民投票で幾つかの案から決定すればよいと思われます。そして上級ソビエトの代議員は、候補者の個人的な政見によって選ばれるようにすればよいのです。でも実際は、政党的な活動を禁止するのは、政治活動の自由を大幅に制限することになりかねませんから、政党間の意見対立が解消されて、自然消滅するまでは政党は禁止できません。このように社会主義建設に労働者自身が責任を持つためには民主主義が不可欠なのです。科学的に社会主義を目指そうとするマルクス主義者であれば、このことに気付いて当然でしよう。ですからマルクス主義は全体知だから必ず独裁に結び付き、人々の自由を奪ってしまうと結論するのは論理の飛躍なのです。ただしロシア革命以降、コミンテルンやコミンフォルムが造られ、マルクス・レーニン主義の名においてス夕ーリンの権威を強調したり、ソ連の全体主義的な実態に全く無批判で無条件の賛美をする傾向が、資本主義国の共産党にも色濃く見られましたから、1949年の時点では、すべて同類と見なされたのも無理からぬことだったのです。

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