第9節、ラースト・マンと優越願望

 フクヤマはリベラル・デモクラシー体制の確立でもって、歴史が終焉するとしています。それは貴族的な支配欲を国家権力であるリヴァイアサンが押さえつけて、優越願望の捌け口をブルジョワ的な金銭欲に向ける事に成功したからです。でもフクヤマは、この「歴史の終焉」を安定的なものと考えていないようです。何故ならリベラル・デモクラシー体制は「対等願望」と「優越願望」を両方とも充足させ、なおかつそのバランスを取らなければ安定しませんが、これがなかなか難しいことなのだそうです。

 「対等願望」は放っておくとあらゆる差別や区別を禁止しようとして、優越性を示すことに妨害を加えようとします。極端な例では、人間と高等動物あるいはエイズ菌との差別さえ不当だと攻撃しかねないと言います。それで有能なあるいは優秀な人材が才能を発揮できなくなり、社会が停滞してしまうと言うのです。

 フクヤマは、「共産主義」を過度な平等主義により、優越願望を恐怖政治で押さえつけたので失敗したと捉えているようです。しかしソ連の政治経済の実態に即して考えますと、ソ連の共産党一党独裁の権力が押さえつけたのは、民衆の優越願望でしょうか?民衆は資本家や地主になり、労働者や小作から搾り取りたかったのに、それができないのが不満だったのでしょうか?むしろ逆にノーメンクラツーラ(特権者名簿)の特権的支配に対して、対等願望から民主化を求めていたのです。むしろモスクワに進出したアメリカ系資本主義企業の方が、上司が部下を人格として認めてくれ、末端の従業員の意見を尊重し、はじめて人間が平等だと実感させらたという声がありました。

 確かに対等願望を尊重し過ぎますと悪平等になって、優秀な能力の発揮が抑制されますが、その事と資本主義的搾取が是か非かはまた別問題です。むしろマルクス主義が問題にしていたのは、資本を所有しているだけで、他人の能力の発揮した成果を搾取しても許されるべきかどうかです。能力を発揮して社会的に貢献を成し遂げた人に対して、社会がそれ相応の待遇を与えるのは資本主義と社会主義に流儀の違いはあれ、当然のことです。

 フクヤマは「歴史の終焉」の存続にとっては、対等願望より優越願望のフラストレーションが鬱積する方がずっと怖いと言うのです。脱歴史時代では人々は、命賭けの威信をめぐる戦いは避け、気概よりも欲望を肥大させて生きます。それでも命を張って勝負をする男の充実感を求める人々は、登山や格闘技や競技に打ち込んだり、企業戦士としてビジネスの競争に擬似戦闘感覚を得ることができます。でも果たしてそれで優越願望は本当に満たされるでしょうか?

 フクヤマによれば現代人は不幸な価値相対主義の時代に生きています。過去の歴史時代にはそれぞれの時代に、各時代に相応しい価値体系があり、その枠内で与えられた価値体系を素直に信じて生きることができたそうです。でも現代は様々な価値体系が混在していて、どれを信じる事も、信じない事も自由です。しかもそれぞれの価値体系がいかなる社会的歴史的条件に制約されて生じたかが、知られてしまっているのです。ですからどれかを選択して盲目的に信じきることはもはや不可能だということです。そこで何事かに全身全霊でぶつかる事はできないのです。優越願望を満たそうとする行為自体が本物のファイト(戦闘)ではなく、ゲーム感覚なのです。

 ニーチェは『ツァラトストラはかく語りき』で、「ラースト・マン」を登場させています。彼らは蚤のように根絶しがたいのです。彼らは温もりを求め、互いに肌をすり寄せて暖め合っています。彼らも働きますが、それは疲労が心地好い眠りに誘うからです。彼らは既成の価値にも反応しませんが自らの規範を打ち立て、目標を掲げて自らの限界に挑戦しようとはしません。すべて快・不快の原理だけで行動し、安眠を求めるだけです。フクヤマ流に言えば本物のファイト(戦闘)は御免ですが、ゲーム感覚を楽しむ位なら安眠に害がない程度に付き合うのです。

 フクヤマの説く脱歴史時代は「ラースト・マン」の独壇場です。そこでは命を賭けた闘争がないので、真の創造や変革もありません。そんなことで果たして優越願望はいつまでも我慢できるでしょうか?フクヤマは大変不安なようです。やがてツァラトストラのような価値の破壊者が登場し、既成の価値と秩序に無効を宣言して、命を賭けた闘争によって優れた者、強い者が支配するヒエラルヒー(位階制度)権力を樹立しようとするかも知れないというのです。でもそうなれば現代は最終兵器の時代ですから、人類の存続そのものが大変な危機に陥ります。背筋が寒くなりますね。

 フクヤマは、第一次世界大戦を引き起こした真の原因を民衆の戦争熱に求めています。長い平和に飽き飽きした民衆は自分たちの命を賭けて守るべき対象を国家に求め、他民族に対する優越願望を実現する絶好の機会を戦争に求めたと解釈しています。脱歴史時代こそ命を賭けて優越を示す機会が喪失していますから、危ないことになりますね。

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