第10節、それでも歴史は進む

 「対等願望」や「優越願望」という個人的な願望やそこから生じる気概に歴史の動因を求めるのも、大変興味深い試みとして評価できます。しかしフクヤマの場合、優越願望による歴史の再開の危険を説くあたりは、適当に資本主義的な搾取や格差、権力闘争を容認しないと、かえって人類の未来がヤバクなると脅かしているようにも思えます。

 冷静に考えれば、個人的願望や気概に歴史が還元できないことは誰でも分かります。歴史は常に過去から受け継いだ課題や矛盾を、現在の我々がいかに受け止め、それらを背負ってその解決に取り組むかによって進展していくのです。その進展の中で個人的願望や気概がどんな役割を果たすのかは、それぞれの時代の課題や矛盾との関連の中で具体的に考察するしかありません。

 長い射程で歴史を捉えますと、十七世紀以降の近代の民族および連邦国家の時代はいよいよ大詰めに来ています。それぞれの民族および連邦国家の内包する問題を全て民族単位、連邦単位で解決することは不可能になっています。グローバルな世界秩序の下で解決していくべき時代に否応なく入っているのです。問題はグローバル・デモクラシーに基づく世界秩序形成のポリシーが未だに明確になっていないことです。

 啓蒙的な進歩史観が「社会主義」の崩壊と共に衰退してきたと言われます。フクヤマは、資本主義が安定すれば、それ以上の歴史の進歩はないと言いたいのです。しかし「社会主義」を看板にした体制が崩壊したように、資本主義世界体制も深刻な矛盾と危機を抱え、内側から変質しつつあります。リベラル・デモクラシーを企業内にも貫徹していくことが、企業の危機を救い、生産性の向上をもたらすのなら試行錯誤されることになるでしょう。現実に産業革命の時代以来、資本主義社会の様相は常に変貌し、発展しています。これを歴史と見ないのは相当の詭弁家ですね。

 歴史に未来も進歩も無いと思ったらお終いです。歴史の大きな曲がり角にいるから、歴史が見えにくくなっているだけです。未曾有の人類的危機に直面して、われわれはグローバルな視野から歴史を捉え返し、人類の統合を果たす輝かしい二千年代を切り開く重大な課題を担っているのです。

 〔主要参考文献〕
Francis Fukuyama "THE END OF HISTORY AND THE LAST MAN"(本論文中の参照頁数は英語版の頁数)
フランシス・フクヤマ著・渡部昇一訳『歴史の終わり』   三笠書房
フランシス・フクヤマ著「歴史は終わったのか?」 月刊Asahi 1989年12月号掲載
アレクサンドル・コジェーブ『ヘーゲル読解入門』国文社

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