第7節、疎外と気概の喪失


 気概を問題にするなら、マルクスの疎外論にも触れて欲しかったですね。フクヤマは貴族や資本家の気概を大いに評価しますが、資本制生産様式の下で労働者の気概が喪失されていることには余り気を遣いません。むしろハベルの『力なき権力』に出てくる青果商の話しを紹介して、いかに「社会主義」体制が人間の誇りを否定し、無限の屈辱を強いるものであったかを告発します。(166頁〜167頁)

 ハベルは、「万国の労働者よ団結せよ!」というスローガンを店先に貼りつけて商売していた「社会主義」国の商店主の心理を見事に分析しました。この張り紙には実は「私は従順で、頼りがいがあり、非のうちどころがありません。だからそっとしておいてもらう権利があるのです。」というメッセージが籠められているというのです。

 そしてこれを掲げるのは「私は恐い、だから無条件に服従する。」という気持ちがあるからです。でもいくらなんでもそんな事は書けません。それだけ自尊心や誇りを持っているのです。そこで恐怖心をイデオロギーで誤魔化して隠蔽しているです。確かに一党独裁と秘密警察による恐怖政治の下では、保身の為に同僚や友人を陥れるのに協力させられるという屈辱に慣らされ、誇りを疵つけられて生きなければなりません。全く身の毛もよだつ事態です。

 しかし労働者が主人公で、自分たちで話し合って職場を運営し、共同で国の経済を管理している筈の社会主義国で、フクヤマに「最後の奴隷制社会」と不名誉な烙印を押されるような、恐怖政治が実現することが、実におかしな話です。実際には労働者が職場を運営したり、国の経済運営に携わっていなかったのですから、社会主義でもなんでもなかったのです。「社会主義」という看板が土台ペテンだったのです。これに騙されていた西側の社会主義者や共産主義者の責任や体質が、厳しく点検されなければならないのは言うまでもありません。その御陰で西側諸国の社会主義運動や労働運動が厳しい衰退に陥っているのも、その罰だと言えます。

 とはいえ東側の「社会主義」の化けの皮が剥がれても、資本主義の労働疎外は免罪されません。マルクスの疎外論の哲学的問題点はいずれ論じることにして、『経済学・哲学手稿』の労働における「四つの疎外」論を紹介します。@生産物からの疎外、A労働からの疎外、B類的本質からの疎外、C人間からの疎外、の四つから構成されます。

@生産物からの疎外ー人間は自分たちが生み出した生産物が 自分たちのものにならないで、自分たちから独立し、自分たちに敵対して自分たちを苦しめる「生産物からの疎外」に陥っています。

A労働からの疎外ー「生産物からの疎外」が起こるのは、労働が自由な活動ではなく、強制された苦役として無理やりやらされる「労働からの疎外」に陥っているからです。

B類的本質からの疎外ー「労働からの疎外」が起こるのは、「類的本質からの疎外」によるのです。つまり人間という類は労働することを本質的な特長にしています。労働によって自己の能力を発揮し、自己実現できるのです。労働によってさらに人間生活を豊かにし、自然をそれに相応しく作り変えて人間環境として素晴らしいものにするのです。ところがこの活動が、実際には苦役であり、衣食住などの消費生活の手段としてしか捉えることができません。本来は目的である筈の自己実現活動が自己喪失活動としてなされています。現実の目的である生活手段を獲得する為の手段でしかないのです。これが「類的本質からの疎外」という意味なのです。 これは「生産物からの疎外」や「労働からの疎外」の帰結であると同時にその原因でもあります。

C人間(他人)からの疎外ーもし人間同士が互いを共同で働き、共同で消費する身内と見なすことができたら、「類的本質からの疎外」も起こらなかったでしょう。自分が作った物が人々の欲求を充足することに自己実現を感じ、生きがいを感じられる筈です。しかし現実は、労働を通して各人が作るものは分業社会では、見ず知らずの他人の消費するものです。自分も他人の作った物を手に入れるために、自分が作った物を提供しています。ところが両者は互いにできるだけ少ない労働で、他人のできるだけ多くの労働の成果を支配しようとしていますから、相互支配であり、対立的な関係にあるのです。労働自体が他人を支配する為に他人に支配される関係になってしまい、類的な共同として実感できないのです。この相互支配、敵対的な人間関係が 「人間からの疎外」です。この原因は生産物を排他的に所有し合う私有財産制度にあるのです。私有財産を無くして 共同的な人間関係を築き上げることができれば、互いは同じ共同的な全体の身内として意識され、四つの疎外も克服できるのです。

 マルクスは、資本主義を頂点とする私有財産制度の運動を論じているのです。ですから労働疎外は決して資本主義だけに見られるのではなく、市場経済を用いる以上、市場社会主義でも避けることはできません。とはいえ疎外が最も容赦ない形で襲ってきた19世紀前半の産業資本主義の現実に直面して論じているだけに、労働疎外論には迫真性があります。

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