第5節、ブルジョワの道徳性


 フクヤマは、ホッブズやロック等のアングロ・サクソン系の思想では、自己保存を威信を賭けて戦うことより重要視していると見なしています。つまり人類のサバイバル(存続)の為には、他人から承認されて威信を生み、認められるよりは、目先の自己保存や物質的幸福を確保する方が大切なのです。その為にだけ骨身を削ってあくせく働き、私利私欲を満たす手段としてしか周囲の社会に関心を持たない人間の類型を、フクヤマは「ブルジョワ」と呼びます。

 ナポレオンによる均質社会の形成が「歴史の終わり」だというのですから、近代市民(ブルジョワ)社会の完成によって,威信の為に命を賭ける時代は終わったということです。逆に言いますと、誰かが威信を発揮し、特権的な支配を樹立しようとしたり、それに固執したりすれば、高慢な主と奴の闘争は継続しますから、歴史はそこでは終焉しません。

 フクヤマは、ブルジョワを私利私欲しかない卑しい根性の人間のように見なし、ブルジョワには道徳性を認めません。その反対にヘーゲルの貴族的主君には、生命を危険に晒すことによって自然的な欲望を越えて、威信を求めているのだから、その心情は自己克己への憧れがあり、愛国心、勇気、公共心といった高貴な情念を持っていると見なすのです。

 他者に承認されたいと願う心が、その現れ方次第では公共心となる場合も確かにあるでしょうが、威信の為に命賭けで戦う性格が道徳性に向かう保証はありません。逆に生命の軽視が人間の尊厳の軽視の現れと見ることもできます。人格を尊重しない人間が、人格を目的にし合うことによって成立する道徳性を持つと考えるのは矛盾しています。

 反対に私利私欲で行動するブルジョワも、高い道徳性を示すことがあります。何故ならブルジョワ相互の取引は、あくまで対等です。かつ平和的に暴力を使わずに、相互に人格を尊重し合って取引するのです。ですからブルジョワの方が道徳性を抱き易いとも言えます。また公共的な利益が自分の個人的な利権と合致する場合には、それこそ公共心が強くなります。それに短い射程では公共的な利益を優先すると、私的利益が損なわれる場合でも、長い射程ではその方がかえって利益になる場合もあります。それで社会に対する深い洞察力を養ったブルジョワは、献身的に公共的な利益に尽くす場合もあるのです。

 カントは長い眼で見れば自分の利益だと分かっていることなら、たとえ短い眼で見て不利益であっても、長期的利益を優先させることを少しも道徳的だとは考えません。それはあくまで自己の利害から出発しているからです。しかし公共心に基づく行動も、それが長期的な利益をもたらすと知っていれば道徳的でなく、知らなければ道徳的だというのは世間一般の道徳概念とずれています。

 もし長期的にも決して自分の利益にならないような、公共的利益の為に献身することのみを道徳的だと考えるのなら、自分の利益と公共の利益を根本的に相反するものと捉えていることになります。しかし公共的利益が構成員全体に福祉をもたらすものであるという、公共性の定義から考えて、これは矛盾しています。つまり道徳的であり得るのは、普遍妥当的な行為がたとえ、一時的には自己の当面の欲望や利益を損なうものであっても、結局は自分の何らかの利益になるからに他ならないのです。道徳が成立するのは、この自己の利益における短期と長期の、狭い自我と広い自我の対立によってためらいが生じ、消極的になるのを防ぐ為です。

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