第4節、リヴァイアサンの意義

 フクヤマは、ヘーゲルの「威信を求める死闘」とホッブズの「万人に対する戦争状態」に類似を指摘しています。その上で、ヘーゲルは威信の為に命賭けで戦うことに「誇り」や「虚栄」という情念を見出し、肯定的に評価しているが、ホッブズはそのような誇りを愚劣だと否定していると言うのです。そのような高慢な連中の鼻っ柱をへし折って、強大な主権の下に絶対服従させなければ、安心して暮らせる平和な生活はやって来ないということです。

 ですからヘーゲルでは命知らずの暴れん坊で、主人階級になるべき高慢な連中を、ホッブズでは強大な怪獣的権力が押さえつけてしまうことになります。つまり怪獣的権力「リヴァイアサン」が押さえつけるのは、主として貴族的な有力者であって、人民一般ではないことになります。そこでホッブズの議論と「現代のリベラル・デモクラシーに至るまでの道のりは非常に短い。」(157頁)となってしまうのです。

 ホッブズ『リヴァイアサン』に関しては夥しい数の研究論文が書かれているようです。(このホームページの人間論のページに拙著「ホッブズ『リヴァイアサン』の人間論ー人工機械人間と欲望機械ー」が採録されています。)百人百様の解釈があるんです。それにしても「万人の万人に対する戦争状態」を終わらせて平和に暮らせるように、他の皆が同じようにすることを条件に、主権者への服従を理性的に選択した(物理的に強制される場合も含め)というのが、ホッブズの社会契約論の核心ですから、その線だけは確認しておいて欲しいですね。

 要するにホッブズでは、人間は皆欲望機械であり、自己保存の為に動いています。その際、奪い合いや殺し合いをしなくてもやっていけるようにするには、「リヴァイアサン」のような怪獣的な強大な権力に皆が強制される必要があるとしたのです。その前提には人間は個人的な能力の点では大差がなく、弱そうに見える人でも安心できないという平等な人間観があります。ですから高慢な有力者を押さえつけて、均質的な国民に還元することで、権力支配が成立するような発想は全くありません。

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