第3節、交換の論理と人間の生成

 対面しての交わりは疎遠な共同体間では不可能ですから、物々交換から始まりました。これまで生産物は生産者や共同体と不可分離的な非有機的身体だったのですが、それが無縁な共同体に送られることで、身体や共同体から切断された疎遠な表象に成ったのです。

 また無縁な共同体の生産物を獲得することで、生産物が身体の単なる延長としては取り扱えなくなったのです。だってそれは疎遠なヒトの体臭を伴い、しかもそれと切断されて、自分達の手の中に有るのですから。

 こうして生産物が交換により、生理的に対応すべき表象から区別されて駆け引きの相手を意識させる独特の表象に転化します。それに伴って、相手の共同体もより大なる共同体あるフラトリアを共にする身内の親縁共同体から、臭いも信号も異なる異縁共同体に代わります。そうなれば生理的対応の相手ではなく、人格的な交渉の相手に転化するのです。

 もちろん無人の物々交換では、交わりは偶然的、一時的に終わりがちです。恒常的に交わって社会的分業を確立するには、対面の交渉による交換が必要です。でも融即の論理に永く親しんでいたのですから、疎遠な相手との交渉は不可能です。そこで祭りや大盤振る舞いに招待し、共に踊り歌い、身も心も一つに融合し合って親縁に成る必要があるのです。

 性と物の交わりは、元々フラトリア内の部族間で行われていたプナルア婚をフラトリア外の部族に拡張したものです。身内関係になった以上、駆け引きなしで、互いに必要な物資を送り合う分業関係に戻るわけです。でも元々疎遠な部族同士だったわけで、駆け引きの必要から生じたものですから、この関係から部族が豊かになれないのなら、関係は続きませんし、相手ばかりが豊かになれば裏切りを感じるでしょう。やはり無意識的には交換の他者性の論理が貫徹するのです。そうなれば次第に割り切った他者としての駆け引きで交換できるようになりますので、赤の他人との対面交換も次第次第に可能になっていきます。

 交換の主体も、部族からプナルア婚の主体である家族に分解します。同部族の家族間に貧富の格差が生じ、それを解消するために大盤振る舞いやポトラッチが行われますが、そこで示された力関係が、家族間の格差を固定する作用をするので、共同体の分解が進行するのです。こうして家族や個人が次第次第に自由な交換の主体に成長し、共同体を解体させるので、共同体は結束を取り戻すために、首長権力を強めて市場関係を統制し、余分な財を共同体の直接的管理に置こうとするようになります。

 ともかく交換によって人間が共同体から独立した個人へと分解します。また生産物が非有機的身体として生命活動の一環から、独立した他者を指示する無機的事物へと転化したのです。そして交換を介して人間相互が互いに独立した他者として相対したのです。つまりそれまではヒトとして生理的に親しい或いは疎遠な身体として現れていた表象が、生理的には対応できない、独立した主体として、身体的存在に還元できない人格として登場するようになってきたのです。

 このような交換関係によるヒトから人間への転化を解明してはじめて、人間的認識やそれに伴う言語の起源を推測することができるのです。もし人間が交換発生以前の融即の世界から脱出できなかったら、生理的な表象に条件反射的に対応する動物的な限界を、端的に超克することはできなかったのです。何故なら世界は生理的表象からしか構成されていないですから。

 交換される物は、主体と切断され、単なる表象ではない交換相手を指示する、表象一般から独立した対象に成っています。それに対して対峙する主体も、単なる生理的な反応をする生体ではなく、表象を事物として捉え返す認識主体に成長しているのです。

 動物では生理的表象が生体の反射や条件反射を引き起こす刺激として機能します。人間ではそれが同時に特定の事物の属性として受け止められるのです。多くの生理的表象が統合されて事物の諸属性と見なされる形で事物の認識が成立し、世界を諸事物の構成と捉えるようになりました。

 人間が実際に知覚しているのは全て生理的表象でしかありません。これを事物と読み変えるのは推論が働いています。このように生理的表象を外的事物だと認定する意識は、表象的意識を観察分析する意識として、生理的表象的意識から超越した自己意識と成る必要があります。

 霊魂信仰では、表象的意識過程の外に、純粋な主観としての超越的な自己意識が空間的に実在すると信じ込まれているのですが、それは意識過程があたかも意識主体によって外から判断されているかのように推移するからです。これは諸記号を含む諸表象が互いに、慣習・習慣・教育等で形成された個性的な思考回路に従って並び、連結するのでそう思われるのです。超越的自己意識はその意味でフィクションですが、認識および意志の主体として強力に機能しているのです。

 生理的表象的意識から諸事物が外に超越し、自我がいわば内に超越する事によって主観・客観的認識図式が仕上がります。言語が本格的に確立するのはこの図式の上なのです。

 動物的な信号は、生理的表象が引き起こす反応が特定の身振りや音声に固定することによって、状況伝達の機能を果たす事で成立します。あくまで生理的表象の次元に留まります。ですから信号はあくまで表象の信号でしかなく、事物を指示していないのです。事物的な対他関係は生理に還元されているのです。 

 人間的言語は、主語・述語構造を備えていますから、事物の名称や代名詞を主語にして、その諸性質や様子を述語で伝達できます。述語はいくらでも付加できて、認識は無限に豊富になり、深められて法則的認識に到達できるのです。こうして文明を切り開く知的能力が形成されたのです。

 でも言語が客観的な事物認識を可能にしたのが先ではありません。交換による事物認識の成立に伴って、それを表現する主語・述語的言語構造ができあがったのが先です。その後で互いに成長を促進しあったと捉えるべきです。融即の論理に支配されている限り、いかに複雑な音声信号が発達しても明確な主語・述語構造を確立させることはできないのです。 フクヤマは「主と奴の闘争」を基底に歴史の成立を説くので、人間の生成自体を論じることができません。この闘争を通して「気概」が鍛えられることが、「気概」をキーワードに人間を論じる上で説得力を持たせていますが、いかんせん根性や気概で人間を論じさせれば、誰も講談師以上に上手く論じるのは無理でしょう。

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