第2節、歴史の出発点は交換である

 「先史時代」という言葉の使い方から考えますと、無文字文化の時期は歴史に含まれません。文字の使用は国家的祭祀や行政記録の必要から生じたと考えられますから、ヘーゲルのように「国家」の発生を起点にするのが一応適当です。 

 しかしコジェーブやフクヤマは、人間の生成と発展の論理を気概による威信を打ち立てる「主と奴の闘争」として捉えました。そのように人間生成の原光景を、命を張った勝負と見るかどうか、人間史の始まりが問われているのです。その意味では、猿の群れ内でのヘゲモニー争いとの次元の違いが明確ではありませんから、彼らの議論は説得力に欠けます。

 「主と奴の闘争」と成る前提には、原始的な共同体から諸個人が解放されていて、一対一でぶつかる事態が必要です。強力な共同体が周辺の弱小な諸共同体に覇権を打ち立てる場合でも、共同体自体が統一的な人格的主体に成長していなければなりません。このような人格的な諸個人や諸共同体の成立を動物的なテリトリー争いで説明してしまうと、人間生成の特徴は解明できなくなってしまいます。

 人間の闘争には「気概」があるから、動物の単なる自己保存の為の闘争とは違うと言いたいようですが、そもそも「気概」はどうして生じたのでしょうか。気概が人間を生んだのか、人間だから気概が生じたのかが問題です。おそらくフクヤマも人格的な尊厳を守ろうとする事によって気概が生じると考えているでしょう。ですからこの問題は、主体的な人格の成立の問題に移らざるを得ません。

 主体は客体と相関的で、自己は他者と相関的ですから、一対一の対峙によって、自我の自覚がもたらされたと思われます。でも差しの真剣勝負というのは動物的な段階です。当然互いの駆け引きによる交渉で、自他の区別が生じた筈です。

 そこで思い当たるのが交換の発生です。交換は不利にならないように駆け引きしなければならないからです。でも交換は交換される品物の私的所有が前提になっていますから、交換より先に私的所有の形成の謎を解かなければなりません。ロックは自己労働に基づく所有を正当な所有として主張していました。つまり自分の労働で手に入れたものだから自分のものであるという理屈です。ルソーは未開段階で住居や家族の形成と共に家産という形で私有財産の発生を説きます。

 マルクスも労働と所有を不可分に捉えていたようです。分業の発達で私有財産を形成を説明したこともあります。しかし原理的に考えて、交換可能性を排除すれば、所有は成り立ちません。実際には富の中には交換が禁止されたり、諸般の事情から不可能な富もありますが、あくまでも交換すればどれだけのものに値するかで、財としての大きさが与えられます。ですから所有は交換によって前提されているのです。

  このように交換と所有は相互に前提し合う関係です。そこでどうして人間はこの関係を形成することに成ったのかが、問われるのです。しかし交換以前にも人間は労働し、その生物や土地を所有していたのではないのか、という反論がありそうです。そのような本源的な所有は、原理的に動物的なテリトリー(領域)や固有としての所有です。そこから人間関係の論理は展開できません。

 しかし労働をするのは人間だけだから、労働の手段である土地や道具、労働生産物に対する関係はやはり労働の労苦の結晶として人間的な所有ではないかという疑問も尤もです。そこで交換発生以前の自然に対する働きかけを、果たして人間特有の労働と呼べるのかが問題です。

 ヤスパースの歴史哲学を検討する際にも触れますが、火や道具の使用によって人間労働の特徴づけをしようとするのはヒトと人間の区別ができていないからなのです。高等動物も自然物を様々に利用して食生活や住居づくりをしています。ヒトは手の延長として自然物を利用します。これが狭い意味で道具です。

 手の動作が複雑な分、その延長としての道具も多彩です。道具の種類が増えるにつれ、獲得されたり、作られたりする獲物や生産物の種類も豊富になります。これが量的には文明に到る論理を含んでいることは確かですが、このような創意工夫による新発明は、生涯の間にそう沢山あったわけではありません。原始・未開の融即の論理の中での事でしたから、人間独特の労働の論理が表面化しなかったのです。

 交換は他者間の関係ですから、原始・未開の融即の論理に支配されていますと、生じることができません。世界は生理的に条件反射の積み重ねによって反応すべき、親しい或いは疎遠な生体の表象として現れますから、駆け引きすべき他者として捉えることはできないのです。まさか交換はタイム・マシーンによって未来から過去へ移植されたわけでもないでしょう。

 おそらくフラトリア(母氏族)内の未開共同体の部族が移動して、そこに他氏族の部族が移動して来たので、そこに社会的分業を回復させる試みとして物々交換が生じたと推理されます。互いに疎遠な表象である異縁の共同体間では、避け合うか、排除し合うかの関係しか成り立ちません。しかしそれがフラトリア内の分業の欠落を補う生産物を持っていたものですから、以前の親縁共同体に送るための品物を捨て与えることで、新参の共同体から余剰の生産物を捨て与えられることを期待したのです。

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